第二十六話 妹の脚を伸ばさないでください
顔だけを出して布に包まれたリリアを見ながら、俺は動けなかった。
生まれたばかりの頃は、体が小さすぎて布の中に埋もれているようにしか見えなかった。
でも、ひと月ほど経って手足も少しずつ伸び、前より体の形が分かるようになっている。
その体をまっすぐ揃えて包まれた姿は、前世で見た昔の絵の赤ん坊そのものだった。顔だけを出して、さなぎみたいに布で固められている。
ほどかれたところから巻き直すところまでちゃんと見たのも初めてだった。
「……マルタ」
「なんでしょう?」
「どうして脚まで巻くの?」
マルタが手元を見る。聞かれた意味が分からないようだった。
「赤子でございますから」
「赤ちゃんだと脚を巻くの?」
「――ええ」
当たり前らしい。
俺には全然当たり前ではない。
「赤子の体はまだ柔らかいのでございます。手足が曲がったままにならぬよう、こうして形を整えて差し上げるのですよ」
その言葉で、頭の中に残っていたものが一気につながった。
前世で子どもが生まれた時、寝かせ方も抱き方もかなり調べた。
おくるみも使った。
包むこと自体が悪いわけではない。
でも、脚は違う。
赤ん坊の脚は自然に曲がっている。膝も脚の付け根も動かせるようにしておく。まっすぐ伸ばして強く固定するのは良くない。股関節の育ちに影響する。
「脚は伸ばさないで」
マルタの手が止まった。
「はい?」
「膝は曲げられるようにしてあげて」
「なぜでございますか?」
「脚の付け根が悪くなる」
マルタが俺を見る。
母上もこちらを向いた。
「どなたから、そのようなことを?」
来た。
毎回ここで困る。
「……前に知りました」
「どなたから?」
「覚えてません」
説得力にかける。
でも他に言いようがない。
「坊ちゃま」
マルタは困ったようにリリアへ目を落とす。
「赤子はまだ骨も体も柔らかいものです。曲がったままにならぬよう、きちんと包んで差し上げなければなりません」
「柔らかいから動かせる方がいいんだよ」
「柔らかいから支えるのでございます」
真逆だった。同じものを見て、同じことを心配している。そのうえで答えだけが反対だった。
「でも、本当に――」
「アルノ」
母上に呼ばれた。
「はい」
「あなたがリリアを心配しているのは分かるわ。でも、今のお話だけで包み方を変えることはできないわ」
「本当なんです!」
「ええ。だからイルゼにも聞いてみましょう」
「その間も巻くんですよね?」
「巻くわ」
母上は迷わなかった。マルタの手がまた動く。
「待って!」
思ったより大きな声が出た。リリアが少しだけ顔を動かした。びっくりして泣きそうだ。俺は慌てて声を落とす。
「本当に良くないんです。女の子の方が多くて、脚を伸ばしたままにすると、その……」
そこで言葉が途切れた。
知っている。
前世では図まで見た。
でも、その仕組みをこの世界の人たちが分かるように説明できない。そもそも三歳児の俺が、股関節の構造を急に説明し始めたら怖い。
「……脚が悪くなることがあるんです」
結局、同じことしか言えなかった。
母上は俺を見た。その顔はとても真剣だった。
「アルノ。あなたならどうする?」
「……何をですか?」
「誰かが急に来て、リリアにはこうした方がいいと言ったら。その人が、どうしてなのかうまく説明できなくてもすぐその通りにする?」
しない。
絶対にしない。
ただの戯言にしか思えないだろう。
「……しません」
「でしょう?」
何も言えなくなった。
俺の知識が正しくても、今の俺の説明だけで母上が包み方を変えないのは当然だった。
「あなたの話を無視するわけではないわ。次にイルゼが来たら確認します」
「……分かりました」
マルタがリリアを包み終えた。さっきまで動いていた脚はまた布の中に消えた。俺はそれを見るしかなかった。
次の日もリリアは巻かれていた。
その次の日も巻かれていた。
一度気づいてしまうと、どうしても目が行く。
リリアが中で脚を動かそうとすると、布が少し持ち上がる。何度か繰り返すうちに巻き目が緩み、そのたびにマルタが直していた。
「坊ちゃま」
「何ですか?」
「また見ておられますね」
「リリアを見てます」
「脚を見ておられます」
「リリアの脚です」
間違ってはいない。
ちょうどその時、リリアが強く蹴った。
布が少しずれた。
「――今、ほどけることを期待なさいましたね」
「してません」
「そうでございますか」
少しだけ期待した。
マルタはすぐに巻き直した。
元通りになった。
厳しい。
母上は約束を忘れていなかった。
イルゼが来た時に聞くと言っている。
だから、俺も何度も同じことを言うのはやめた。
数日後。
母上はリリアへの授乳を終えると久しぶりにゆっくり湯を使うことになった。
体調も少しずつ戻り、短い時間なら部屋を離れるようになっている。
マルタが付き添う。
寝台にはリリア。
そばにはミーナが残った。
「目を離さないこと」
「はい」
「泣いたらすぐ呼びなさい」
「はい」
「布が顔へかからないように」
「はい」
マルタがそこで俺を見る。
「それから、アルノ坊ちゃまが何か言い出しても勝手なことをしないように」
「はい」
「なんで俺も追加されるの?」
「心当たりがおありですか?」
「……ありません」
少しある。
母上が笑った。
「すぐ戻るわ」
「はい」
扉が閉まる。
部屋に残ったのは俺とミーナとリリアだけになった。
別に何かをするつもりはなかった。
本当に。
今は。
しばらくすると、リリアが目を覚ました。
「ん、ぁ」
小さな声を出す。
布の中で脚が動いた。
一度。
もう一度。
巻き目が緩む。
「あら」
ミーナが寝台へ近づいた。
「またでございますね」
包み直すために布をほどいていく。
一枚。
もう一枚。
脚が自由になった途端、膝が曲がった。
脚の付け根から外へ開き、自然なM字になる。
腕も曲げたまま動かし、小さな手を開いたり閉じたりしている。小さな踵がミーナの手の甲に当たった。
「ずいぶん元気になられましたね」
「うん」
俺はそれだけ答えた。
ミーナが少し笑うと、リリアがもう一度蹴った。その足を押さえるようにしてミーナが脚を揃えた。
そのまま、しばらく見ていた。
やがてそっと手を離す。
待っていたようにリリアの膝が曲がった。小さな足が外へ開き、そのまま一度、布を蹴る。
ミーナがもう一度、膝を伸ばして揃える。
リリアが身じろぎした。口元を歪め、小さな声を漏らす。
手を離すと、またすぐに脚を曲げた。今度は両脚を続けて動かす。
ミーナの手が止まった。
リリアの脚と、ほどいた布を交互に見る。
「……また、曲がりますね」
毎日こうして伸ばして包んでいる。
それでも布をほどけばリリアは自分から脚を曲げる。それが赤ん坊にとって自然な体勢だからだ。
「――坊ちゃま」
「何?」
「以前、おっしゃいましたね」
ミーナはまだリリアを見ていた。
「死ななくてもよかった子がいるはずだ、と」
俺は沈黙した。
あの時のことを覚えていたらしい。
「これも――そのことに関係するのでございますか」
ミーナがゆっくり顔を上げて俺を見た。




