第二十五話 婚約者はいりません
兄上たちとの勉強へ向かう途中で父上に呼ばれた。
書斎へ入ると、父上は机に広げていた書類から顔を上げた。
「フェルナーから聞いた。魔法の稽古に出ていないそうだな」
「……はい」
「土が嫌か?」
「嫌です」
俺は迷わずに即答した。
「――適性水晶は金色になったそうだな」
「なりました」
「古い記録に似た例が残っている程度らしい」
「そんなに珍しいんですか?」
「知らなかったのか」
「はい」
だからといって、土に触りたくなるわけではなかった。
「惜しくないのか」
「金色でも土は土なので」
父上が黙った。
何かおかしかっただろうか。
金色に光ったところで出てきたものは土だった。
触れば手につく。
中に何がいるのかも分からない。
「……そうか」
父上はそれ以上聞かなかった。
「フェルナーによれば、今やらなくても適性がなくなることはないそうだ。――なら急ぐ必要もない」
「いいんですか?」
思わず父上を見る。
「嫌なのだろう?」
「嫌です」
「なら今はやめておけ」
あっさりしていた。
もっと、せっかく向いているのだから続けろと言われると思っていた。
「お前はまだ三歳だ。今決めなければならんことでもない」
三歳。
最近、この年齢に助けられることが多い。
「兄たちの勉強には行くのか」
「行きます」
「なら行ってこい」
「はい」
話はそれで終わった。
書斎を出て、兄上たちが待つ部屋へ向かう。
魔法の授業には行かなくなったけれど、読み書きや算術にはそのまま出ていた。
最初の日には何も読めなかった文字も少しずつ分かるようになってきた。
兄上たちに笑われたままなのが嫌だったのも、たぶん少し効いている。
その日、フェルナー先生は机の上に一枚の羊皮紙を広げた。ところどころに見覚えのある名前があった。
父上。
その下に三つ。
レオル。
ユリウス。
アルノ。
「レオル様。旦那様に万一のことがあれば、ヴァイスベルク家を継ぐのはどなたですか」
「僕です」
レオルはすぐに答えた。
八歳の子どもが、自分の父親に何かあった後の話を普通にしている。
俺はレオルを見た。
本人は気にした様子もなく羊皮紙を見ていた。
「そのために領地のことも兵のことも学んでいただいています」
「はい」
長男だから家を継ぐ。
そういえばそんな時代だったな。
「レオル兄上に何かあったら、次は僕だね」
ユリウスが横から言った。
「嬉しそうに言うなよ」
「嬉しくないよ。順番の話だよ」
「なら笑うな」
「笑ってないよ」
少し笑っている。
「ユリウス兄上も領地の勉強をするの?」
「まったく同じではありませんが必要なことは学ばれます」
答えたのはフェルナー先生だった。
「レオル様を支えることも、万一に備えることもユリウス様のお役目です」
「じゃあ俺は?」
聞くと、ユリウスがすぐこちらを向いた。
「レオル兄上と僕が二人とも駄目だったらアルノだよ」
「二人とも長生きしてください」
「何の話だよ」
「二人とも駄目にならないでください」
「お前が聞いたんだろ」
レオルに言われた。
それはそうだった。
「アルノ様は三男ですから、お二人より家督からは遠い立場になります」
フェルナー先生が羊皮紙にある俺の名前を指す。
「もちろんヴァイスベルク家の一員としてのお役目はあります。ただ、今から一つの道へ定める必要はありません。適性や家の事情を見ながら先々お考えになればよいでしょう」
さっき父上にも似たことを言われた。
まだ三歳。
レオルには継ぐ家がある。
ユリウスにはレオルを支え、万一に備える役目がある。
俺は三男で、そこまで先が決められていない。
魔法が得意ならそれが一つの道になったのかもしれない。しかも古い記録にしか似た例がないくらい土属性は得意らしい。
でも今はやらない。
それでも別に困らないらしい。
三男で三歳。とても素晴らしい。
「では次に、周囲の家との繋がりを見てみましょう」
フェルナー先生の指が羊皮紙の端へ移った。
父上の名前からいくつか線が伸びている。知っている名前もあれば、知らない名前もある。その中に、レオルとユリウスへ繋がっている名前があった。
「これは?」
指差すと、ユリウスが覗き込んだ。
「婚約者だよ」
「……誰の?」
「僕の」
もう一本を見る。
「こっちはレオル兄上?」
「ああ」
俺は兄上たちを順番に見た。
「二人とも婚約者がいるの?」
「いるよ」
「いる」
六歳と八歳なのに。
前世ならまだ小学生だ。
なのに俺だけがおかしなことを聞いたような空気になっている。
「もう会ったこともある?」
「何度かな」
「僕もあるよ。向こうの屋敷に少し前に行った」
ユリウスは何でもないことのように言った。
「好きなの?」
兄上たちが黙った。ユリウスがレオルを見る。レオルは少し眉を寄せた。
「そういう話ではない」
「僕は嫌いじゃないよ」
「――ユリウス」
「嫌いじゃないって言っただけだろ」
フェルナー先生が小さく咳払いをした。
「貴族家の婚約は、家同士の約束でもあります。もちろん、お二人が良い関係を築かれることが何よりですが」
先に相手が決まる。
それから相手を知っていく。
前世とは順番が逆だった。
「アルノにはまだいないね。そのうち決まるだろうけど」
「――いりません」
考えるより先に口が動いた。
ユリウスが笑った。
「まだ誰かも決まってないのに」
「決まってないなら、そのままでいい」
「なんで?」
「無理だから」
「何が?」
何が、と言われると困る。
前世でも、誰とでも一緒に暮らせたわけではない。俺が気になることを気にしない人の方が多かった。
手を洗ってほしいと言えば面倒そうな顔をされたこともある。
気にしすぎだと笑われたこともある。
けれど前世の妻は違った。
手を洗ってほしいと言えば理由を聞いてくれた。分けてあるものを勝手に混ぜなかった。だからといって何でも俺に合わせるわけでもなく、やりすぎれば止められた。
最初から分かり合えていたわけではない。
一緒にいるうちに、これは嫌だ、ここまでは平気だと互いに覚えていった。それでようやく暮らせた。
そんな相手に出会えるまで本当に苦労した。
それなのに、この世界ではその一人が決まってしまう。その相手が俺を理解してくれる可能性はある。でも、そう都合よく期待はできない。
現代の感覚と潔癖。
この世界と相性が最悪の俺を誰が理解できるというのか。
あるいは俺を面倒だと思っていても、家のために結婚するかもしれない。
俺は相手のすることが気になる。
相手は俺にあれこれ言われる。
それでも簡単には離れられない。
嫌われることより、嫌われたまま一緒に暮らし続けるのはきっとつらい。
「……たぶん、相手が困るよ」
「アルノじゃなくて?」
「俺も困る」
「二人とも困るじゃないか」
レオルが呆れたように言った。
「だからいらない」
「まだ相手もいないだろ」
「だから、このままがいい」
「ずいぶん先の心配をするな」
レオルは小さく息を吐いた。
「決まったなら、その時に相手と話せばいいだろ。最初から何も言わずに一緒に暮らすわけじゃない」
レオルにとってはそれでいいのだろう。
でも、話した結果、面倒だと思われたら? その瞬間、そこから先まで決まっているのが嫌だ。
「アルノ様」
フェルナー先生に呼ばれた。
「はい」
「今は婚約者についてお考えになる必要はないと思いますよ。まだ三歳ですからね」
もっともだった。
「……三歳でよかったです」
ユリウスが吹き出した。
「でもアルノの婚約者になったら、最初に手を洗わされるんでしょ?」
「それは洗ってもらう」
「やっぱり大変だ」
「そこは譲れない」
レオルまで少し笑った。
婚約者はいらない。
少なくとも今はそれでいい。
授業が終わると、兄上たちは魔法の練習へ向かった。
俺は行かない。
二人の背中を見送り、廊下を歩く。
レオルには継ぐ家がある。
ユリウスにはそれを支える役目がある。
俺は三男で、まだ先を決めなくていい。
魔法も今はやらなくていい。
将来何をするのかは分からない。
でも、今やることなら分かっている。
いつもの場所で足を止めた。
リリアの部屋の前だった。
手を洗う。石鹸を流し、布で水気を取る。
ミーナが何も言わず扉を開けてくれた。
「さあ、本日も参りましょう」
「ああ」
母上のそばの寝台でリリアが目を開けていた。今日も布に包まれている。
リリアはまだ自分では何も選べない。
俺はこの子に朝を越えさせると決めた。
将来の役目は、そのあとでいい。
汚れた下布を替えるため、マルタがリリアの包みをほどいた。
布の中から小さな脚が出る。
膝を曲げたり、伸ばしたりしている。
少し前よりずっとよく動くようになった。
小さな踵が布を押し、何度も寝台へ当たる。
眺めているとマルタが脚に手を添えた。曲がっていた膝を伸ばして揃える。
そしてそのまま布で足を巻いていく。
腕も。
胴も。
脚も。
最後には顔だけが外へ出た。
その姿を見た瞬間、前世で見た昔の絵が頭に浮かんだ。赤ん坊がさなぎみたいに布で巻かれている。
俺は固まった。
これは――駄目だ。




