幕間 見えないもの
魔法の授業になるとアルノは席を立つようになった。
読み書きや算術の間は兄たちと同じ部屋にいる。まだ兄たちには遠く及ばないが覚えるのは早い。少し前まで自分の名前さえ読めなかった子が今では習った文字ならかなり読めるようになっている。
けれど魔法の時間になると来ない。
フェルナーは小さな椅子を一度見てからレオルとユリウスの授業を始めた。
無理に連れてくるつもりはなかった。
あの顔を見たあとではなおさらだった。
土に触れた瞬間のアルノの顔。
嫌そうだったというだけではない。
指先が土へ触れただけで肩まで強張った。手を洗いに行く時には汚れた右手を体から離して歩いていた。
自分の魔力から生み出したばかりの土だった。
虫もいない。
枯れ葉もない。
見たところ何も混じっていない。
それでも触れなかった。
フェルナーは教卓の上へ手を置いた。
考えてみればアルノを妙だと思ったのはあの日が最初ではなかった。
この屋敷へ来るようになってしばらくした頃、リリアの部屋の前に見慣れない台が置かれた。
低い台だった。
水を入れた壺と受け皿。小さく切られた石鹸。手を拭くための布。
初めは赤子の世話に使うものだと思った。
だが違った。部屋へ入る前にアルノがそこで手を洗っていた。三歳の子どもが自分から石鹸を使い、使用人に水をかけてもらっている。
それだけなら変わった子どもで済んだ。
そのうち水壺には青い紐がついた。
布も使う場所によって分けられた。
赤い糸をつけた前掛けを着た使用人が、そのままリリアの部屋へ入ろうとして止められているのも見た。
アルノは何かに触れた手で別のものへ触れることをひどく嫌がった。それなのに妹の部屋へ行くこと自体をやめようとはしなかった。
洗う。
替える。
分ける。
そこまでして中へ入っていく。
妙な子だとは思っていた。
同時にフェルナーには少し気になることがあった。
魔法使いの間には昔から言われていることがある。
術の前には身を清めた方がよい。
手や道具に汚れがなければ魔力も通りやすい。
学院でも何度となく聞いた話だった。
本当に魔力そのものが変わるのか。それとも身を整えることで集中しやすくなるだけなのか。
フェルナー自身は後者に近いと思っている。
だから授業の前には手を洗うし衣服も整える。
それで十分だった。
けれどアルノは違った。
あれは術に入る前の清めという程度ではない。そもそもまだ魔法を習ってすらいなかった。それでもアルノは汚れをひどく嫌い、手や水や布を分けていた。
もし――。
フェルナーは何度か考えたことがある。
まだ自分の魔力を知らない子どもでも、強い適性を持っていれば何かを感じることがあるのではないか。
魔力を意識するより前に、本人にも理由の分からない感覚として現れることはないのか。
そんな話を聞いたことはなかった。
ただの思いつきだった。
だから誰にも話さなかった。
だがアルノを見るたび、その思いつきはずっと消えなかった。そんな折だった。
「アルノの適性を一度見てほしい」
ガルムにそう言われた時、フェルナーはすぐには頷かなかった。
「まだ三歳です」
「ああ」
「急いで調べる年齢ではありません」
魔法を学ぶ者は最初に適性水晶へ触れる。
火なのか。
水なのか。
風なのか。
土なのか。
水晶の反応によって自分の適性を知り、そこから初めて魔法を学ぶことができる。
だから適性水晶はただ属性を調べるための道具ではない。
魔法使いになるための入口だった。
そして、その入口は誰にでも開かれているわけではない。
適性水晶を持つのは基本的に貴族家だった。
家の子ども。
長く仕えて信頼を得た従僕や侍女。
台所を任される者。
護衛として育てる者。
そうした者の中から必要に応じて適性を調べる。
反応があれば魔法を教える。
護衛として本格的な術を必要とする者なら、魔法学院へ送り、学ばせてから家へ戻すこともある。
魔法使いはそうして生まれる。
平民が街で水晶へ触れ、自分にも適性があったから魔法使いになる。
そんなことはない。
水晶へ触れる機会そのものがないからだ。
普通の冒険者も魔法は使えない。
剣や槍や弓で魔物と戦う。
それで対処できないほど強い魔物が現れた時には、冒険者ギルドから領主へ魔法使いの派遣を願い出る。
魔法使いはそれほど限られた存在だった。
魔法は便利だが使い方を間違えれば人を傷つける。
街で腹を立てた者が火を出せる。
酔った者が石壁を崩せる。
そんな者がどこにでもいるようになれば、拳だけで済んでいた争いまで別のものになる。
だから誰に魔法を学ばせるのかは家が決める。
誰が魔法を使えるのか。
誰が教えたのか。
誰の家に仕えているのか。
魔法使いはそこまで含めて管理されていた。
適性水晶へ触れさせるということは、その最初の一歩だった。三歳の子どもに急いで踏ませる必要のある一歩ではない。
ましてアルノは辺境伯家の三男だ。
必要になればいつでも調べられる。
今でなくても何も困らない。
そう考えながらフェルナーの頭には別のことが浮かんでいた。
あの子なら何色になるのだろう。
自分でも気づいて少し呆れた。
教師としてなら、まだ早いと言えばいい。
それなのに魔法使いとしては見てみたかった。
手洗い台。
水。
布。
汚れへの異様な拒み方。
自分の思いつきがまったくの見当違いなのか。
水晶なら何か分かるかもしれない。
「無理はさせません」
結局フェルナーはそう答えた。
そして水晶は金色になった。
最初は四つとも光った。
赤も青も白も茶も。
指を増やすにつれて土が強くなり、掌を置く頃には他を押し退けた。琥珀色になった時点でフェルナーは言葉を失いかけていた。
反対の手まで置かせたのは教師としてどうだったのか。あとになって少し考えた。だがあの時は見たかった。どこまで澄むのか。
最後に残った濁りまで消え、水晶の中が金色で満たされた。
フェルナーはあれほどの反応を見たことがなかった。
だが、その結果に一番喜ばなかったのが本人だった。アルノは金色の水晶を見ながら青ざめていた。最初は驚いたのだと思った。土だから嫌なのだと分かるまで少しかかった。
翌日、実際に土を出させると適性の高さはすぐに形になった。
初めてとは思えない量だった。
それだけではない。
出された土へ手を入れた時、フェルナーは驚いた。
柔らかくて適度に湿り気がある。握ればまとまり、指を開けば無理なく崩れる。植物を育てるなら申し分ない。これほど状態のよい土を魔法で最初から出せる者をフェルナーは知らなかった。
だから何度も触った。
それを見ていたアルノが不思議そうに尋ねた。
「土、触れるんですか?」
「触れますよ」
「汚れますよね?」
何を聞かれているのか分からなかった。
「汚れたら洗えばいいだけでは?」
あの時のアルノは返事をしなかった。
フェルナーにとってはそれで終わる話だった。
土を触れば手は汚れる。
終われば洗う。
泥がついた服なら着替える。
魔法使いでなくても同じだろう。
だがアルノにとっては違った。
自分で出した土の中に何がいるのか分からないと言った。見ても分からないものを気にしていた。
翌朝、二つの鉢を見比べた時にはさらに様子が変わった。
普通の土へ植えた苗より、アルノの土へ植えた苗の方が明らかに元気だった。
フェルナーには喜ばしい結果だった。
水晶の反応だけではない。実際に生み出す土にも、あれほどの適性が現れている。
ところがアルノは植物を見たまま黙った。
そして地面へ手をついて魔力を流す練習を勧めると拒んだ。そして、そのまま魔法の授業へ来なくなった。
三歳児なのだから嫌なものを嫌だと言うこと自体はおかしくない。
泥を嫌う子もいる。
虫を怖がる子もいる。
服が汚れただけで泣く子だっているだろう。
それでも、人間はただの汚れをあそこまで怖がれるものなのだろうか。
フェルナーにはそれが一番分からなかった。
アルノは嫌がっているだけではない。
触れる前から確かめる。
誰が触れたかを見る。
何に使った布なのかを気にする。
見た目が綺麗でも安心しない。
自分の魔力から生み出したばかりの土ですら、中に何がいるか分からないと言う。
汚れているものを見て嫌がるのとは違う。
まだ見えないものを怖がっている。
それも三歳の子どもが。
フェルナーは小さな椅子へ目を向けた。
そしてもう一度、金色に満たされた水晶を思い出した。
もし、あの恐怖がアルノだけのものではないとしたら?
魔力に近いもの。
人には感じられない何か。
――精霊。
真っ先に浮かんだのはそれだった。
アルノが精霊について知っている様子はない。
それでも精霊の側から人へ働きかけることが絶対にないと、フェルナーには言い切れなかった。
魔法使いの間には汚れのない方が魔力は通りやすいという俗説がある。
誰が言い始めたのかも分からないほど古い話だ。
けれど、まったく何もないところから生まれた話ではないとしたら。
魔力に近い何かが人間よりも汚れを嫌うのだとしたら。
精霊なのかもしれない。
精霊とは違う何かなのかもしれない。
アルノほど強く魔力と結びついた子どもなら、普通の人間には届かない感覚まで拾っているのではないか。
本人にはそれが何なのか分からない。
ただ嫌だと思う。
怖いと思う。
触れてはいけないと思う。
そうした感情だけが流れ込み、それを自分のものとして受け取っている。
そう考えれば少なくともフェルナーには理解できた。
土を怖がる理由も。
見えないものを気にする理由も。
汚れたら洗えばいいという言葉で納得できない理由も。
もちろん仮説でしかない。
確かめる方法もない。
アルノはまだ三歳だった。
これから体も大きくなる。
水晶へ触れたことで魔法使いとしての入口には立った。だが入口に立ったからといって、すぐ先へ進まなければならないわけではない。
あれほどの適性が消えることもない。
必要ならその先で学院へ行くこともできる。
魔法は逃げない。
フェルナーはそう結論づけた。
今は待つ。
あの子が自分のものではないかもしれない恐怖と、いつか折り合える日が来るまで。




