第三十三話 知らないうちに広がっていました
翌日の授業もクララとリーネは一緒だった。
今日は読み書きと算術が終わると、フェルナー先生が魔法の授業用の本を開いた。俺は蝋板と尖筆を片づける。
「――では、俺はここまでですね」
椅子から降りると、クララがこちらを見た。
「アルノ様は魔法の授業には出られないのですか?」
「はい。魔法はまだいいでしょう。三歳ですし」
フェルナー先生の手が一瞬止まった。
レオルもこちらを見る。ユリウスまで何とも言えない顔をしていた。
別におかしなことは言っていない。
父上にも、魔法は今やらなくてもいいと言われている。フェルナー先生もそれを知っている。
そもそもこの世界でも三歳で魔法の稽古はしない。
むしろ、そこは普通のはずだった。
「……何ですか?」
「いや」
レオルが本へ目を戻した。
「そこは三歳なのですね」
リーネは少しだけ安堵したように呟いた。
その横ではユリウスが、苦いものを口に入れてしまったような何とも言えない表情をしていた。
午後になると、今度はクララとリーネがマルタと一緒に屋敷の中を回ることになった。昨日まで婚約者が滞在するというのは兄たちと一緒に過ごすものだと思っていた。けれど実際には勉強もする。今日からは屋敷の中の仕事まで見て回る。
二人についてきた侍女も、少し離れたところから一緒に回っている。主人が何を覚えるのか、自分たちも知っておく必要があるのだろう。
ミーナも手伝いに呼ばれている。
俺はリリアのところへ行くつもりだったが、ミーナが何枚もの布を抱えているのを見てそのままついていった。俺も、この屋敷のことを知るちょうどいい機会だと思った。
最初に入った部屋には洗い終えた布が棚ごとに積まれていた。
ミーナが抱えてきた布を入口横の机へ置く。マルタはその中から何枚かを取り、クララとリーネへ渡した。
「こちらを元の場所へ戻してみてくださいませ」
二人はすぐには動けなかった。棚には似た布がいくつも並んでいる。クララが手元の一枚を裏返し、端に入った青い刺繍を見つけた。
「……これは昨日使いましたね」
少し離れた棚を指す。そこには同じように青い刺繍が入った布だけが置かれていた。
「こちらでしょうか」
「その通りでございます」
マルタが頷く。
クララは少し安心したように布を置いた。リーネの方には印がなかった。棚を見比べ、隙間に余裕があるところへ重ねようとする。
「リーネ様、そちらではございません」
ミーナがすぐに止めた。
リーネの手が止まる。
「違うのですか?」
「はい。こちらへお願いいたします」
示されたのは隣の棚だった。リーネは手に持った布と入れようとしていた棚にすでに置かれている布を見比べる。見た目はほとんど同じだった。
「どれも洗ってありますよね?」
「はい」
「では、どうして別なのです?」
「使う場所が違うのです」
リーネはまだ布を見ている。
クララも棚へ目を向けた。二人とも納得してはいないようだった。後ろにいた侍女たちも同じように棚を見比べている。
洗ったのなら綺麗。
綺麗なら同じ。
最初は屋敷の使用人たちもたぶん同じだった。
それが今では洗ったあとでも自然に戻す場所を分けている。汚れているかどうかだけではなく何に使ったものなのかを意識するようになっていた。
部屋を出る時、二人とも一度だけ棚を振り返った。
次に向かったのは洗濯場だった。
水が跳ねる音が聞こえてきた。何人もの使用人が桶の中に布を浸していた。下洗いする者、石鹸や灰汁で洗う者、最後にすすぐ者。
いくつもの桶を使い分けて丁寧に洗っていた。その中に、少し離して置かれた大きな桶があった。
水が薄く濁っている。底には細かな濁りが沈み、上の方だけ少し澄んでいた。リーネがそちらへ近づく。
「……これは何ですか?」
桶の中を覗き込む。底に沈んだものが気になったらしい。そのまま水面へ指を伸ばした。
「触れてはいけません!」
「リーネ様!」
「お待ちください!」
何人もの声が重なった。ミーナも、洗濯をしていた女たちも、マルタまで同時に止めに入っていた。リーネの侍女も驚いて一歩前へ出たが、何を止められたのかは分かっていないようだった。リーネの指が水面の直前で止まっていた。
「……何でしょう?」
驚いた顔で手を引いた。洗濯をしていた女が桶の縁へ手を添える。
「まだこの水は使います」
「……この水を?」
「はい」
女は水面を揺らさないよう、そっと柄杓を入れた。上の澄んだところだけをすくう。底の濁りを巻き上げないように。
「水を動かしてしまうとまた濁ってしまいます」
そこでようやくリーネは状況を察した。クララも桶へ近づく。桶を揺らさないように中を覗いた。
「沈むのを待っているのですか?」
「はい」
一日置いた魔法水だ。水を出した直後は濁っている。けれど置いておけば少しずつ沈む。上の澄んだところを下洗いに使い、最後は井戸水ですすぐ。
洗う布の枚数が増えても、これだけで井戸水を汲む回数が大きく減る。今では誰かが指を入れようとしただけで全員が止める。
次に入ったのは台所だった。
昼食の片づけは終わっているのに火はまだ残っている。大きな鍋から湯気が上がっていた。その横には冷ました水を入れた水差しが何本も並んでいる。
台所の女がこちらに気づいた。一瞬だけ目が合う。なぜか少し気まずそうに視線を逸らされた。
「これは何の水ですか」
「……飲み水でございます」
クララの問いかけに台所の女が答える。
「飲むためだけに水を一度煮ているのですか?」
「はい」
「――これ全部ですか?」
台所の女が俺をチラリと見てから無言で頷く。それを見たリーネが目を見開いた。
「まさかこれもアルノ様がおっしゃったのですか?」
「そうだけど……」
俺は言いながら台所を見回した。
やっぱりおかしい。
俺の飲み水。
リリアに使う水。
母上の分。
それら全てを足したとしてもこんなにいらないと思う。
「多くない?」
「……今は、屋敷の者もこちらを飲んでおります」
「屋敷の者?」
「はい」
「俺、知らないんですけど」
「最初はアルノ様とリリア様、奥様の分だけでございました」
マルタが答えた。
毎回ちょうどの量を沸かせるわけではない。余った水を捨てるのがもったいなくて最初は台所の女たちが飲んだらしい。それを見たほかの使用人も余っているならと飲み始めた。
「気づけばこちらを欲しがる者が増えまして」
台所の女が鍋へ目を向けた。
以前、屋敷中の飲み水を沸かしてほしいと言ったことがある。
あの時、台所の女は遠い目をした。
薪も人手も足りない。
父上にも台所を止めるなと言われた。
俺自身もそれ以上は無理だと納得した。なのに目の前には水差しが何本も並んでいる。
「このところ腹を下して休む者が少なくなっております」
それは初めて聞いた。
「それで、全員分に?」
「――はい。ただ本当に水のおかげかどうかは分かりません」
台所の女が答えた。
そこは俺も同じ考えだ。
手洗いも、布も、洗濯も変わった。
水だけが理由だとは言えない。それでも前より腹を下す者が少ない。俺が知らないところで、それを続ける理由までできていた。
「……大変じゃないんですか」
「大変でございます」
即答だった。
思わず見返す。
台所の女は鍋の蓋を少しずらした。
「ですので、料理の邪魔にならない時にまとめて沸かしております」
手間がなくなったわけではない。それでも続けられるやり方を台所の人たちで考えていた。
クララは並んだ水差しを見ている。その視線が、少し離れた壺へ移る。
「そちらも飲み水ですか?」
「こちらは手洗い用でございます」
クララの目が少し見開いた。
隣のリーネが今度は壺と水差しを順番に見る。後ろにいた侍女たちも何も言わず同じものを見ていた。
飲む水。
手を洗う水。
料理に使う水。
洗濯に使う水。
布と同じだった。
同じに見えるものを使い方で分けている。
台所の女が冷ました水を杯へ注ぐ。
「どうぞ」
リーネが受け取った。
少し口に含み、首を傾げる。
「……普通のお水です」
「水ですから」
「こんなにしているのに……」
クララも杯を受け取る。けれど、すぐには飲まずに透明な水をしばらく見ていた。洗濯場の水と違って、こちらは最初から澄んでいる。煮ても見た目は何も変わらない。
やがて一口飲む。
そのあともう一度だけ水差しを見た。
何も見えない。それでも、この屋敷ではもう誰も同じ水とは思っていなかった。




