第九話 契約の女王
第九話 契約の女王
冬が近づいていた。
王都には冷たい風が吹き、石畳には枯葉が舞っている。朝靄の中を馬車が走り、煙突からは白い煙が立ち昇っていた。
その日、アストリア伯爵邸では大規模な晩餐会が開かれていた。
長い食卓には白いクロスが掛けられ、銀燭台の炎が揺れている。焼きたての鴨肉の香草焼き。濃厚な栗のポタージュ。蜂蜜を塗った温かなパン。赤葡萄酒の甘い香り。
王都中の貴族たちが招待されていた。
だが彼らの目的は食事ではない。
皆、ある女を見るために来ていた。
「エルザ様がお見えになります」
執事の声。
ざわり、と空気が揺れる。
階段の上へ現れたエルザは、漆黒のドレスを纏っていた。肩から背へ流れる絹布には銀糸の刺繍が施され、動くたび夜空のような光を放つ。
首元には黒曜石の首飾り。
白い肌。
そして、赤みを帯び始めた蒼い瞳。
その姿を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。
「美しい……」
「まるで別人だ」
「以前のエルザ様とは空気が違う……」
囁き声。
恐れと憧れが混ざった視線。
エルザは静かに微笑みながら席へ着いた。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます」
その声は穏やかだった。
だが不思議と逆らえない圧がある。
今や彼女は、ただの伯爵令嬢ではない。
悪魔契約を使いこなし、名門バルツァー家を一夜で潰した女。
社交界では既に新しい異名が広がっていた。
『契約の女王』
誰かがそう呼び始めたのだ。
食事が始まる。
給仕が白皿へ料理を盛り付けていく。
香ばしく焼かれた鴨肉をナイフで切ると、肉汁がじゅわりと溢れた。赤葡萄酒を煮詰めた濃厚なソースが湯気を立てる。
エルザは静かに一口運ぶ。
以前より味覚が鋭くなっていた。
香辛料。
脂。
肉の熱。
全てが鮮明に感じられる。
その時だった。
「エ、エルザ様……」
震える声。
入口付近で騒ぎが起きている。
衛兵たちに押さえつけられているのは、一人の女だった。
マリア。
彼女は痩せ細り、古びた灰色の外套を纏っていた。髪は乱れ、以前の美貌は見る影もない。
貴族たちがざわめく。
「ローゼン嬢……?」
「まだ王都にいたのか」
「うわ……酷い姿」
マリアは必死に叫んだ。
「お願い! エルザ様に会わせて!!」
「お引き取りください」
衛兵が冷たく言う。
「わたくしは謝りたいだけなの!!」
その声に、エルザはゆっくり視線を向けた。
「通しなさい」
静かな命令。
衛兵たちは一瞬で動きを止めた。
マリアはふらつきながら広間へ入ってくる。
周囲の視線が突き刺さる。
かつて男たちを魅了した女は、今や誰からも蔑まれていた。
彼女はエルザの前へ跪く。
「お願い……助けて……」
涙声だった。
「もう嫌なの……寒いし、お腹も空くし……!」
その瞬間、何人かの貴族が露骨に顔をしかめた。
以前のマリアなら、こんな無様な姿を絶対見せなかっただろう。
「働いても働いてもお金がなくて……!」
マリアは嗚咽混じりに続ける。
「洗濯場の女たちは怖いし、手は痛いし……眠る場所も……!」
彼女の指先はひび割れ、赤く腫れていた。
エルザは静かに彼女を見下ろす。
「それで?」
「え……」
「だから何ですか?」
冷たい声。
マリアは震えた。
「わ、わたくし……悪かったと思ってるわ……!」
「本当に?」
「ええ!」
「では、もし時間が戻ったら」
エルザは静かに問う。
「あなたはキリアンを奪わない?」
マリアの顔が凍った。
答えられない。
その沈黙だけで十分だった。
エルザは小さく笑う。
「結局、あなたは何も変わっていないのね」
「ち、違――」
「連れて行きなさい」
衛兵たちがマリアの腕を掴む。
「嫌っ!!」
マリアは泣き叫ぶ。
「お願い! 一度だけでいいから助けて!!」
だが誰も動かない。
エルザはもう彼女を見ていなかった。
再び食事へ視線を戻している。
まるで道端の泥でも見たかのように。
その時だった。
広間の奥で、低い笑い声が響いた。
「実に良い夜ですね」
ルシアンだった。
銀髪の悪魔は壁際へ寄りかかり、愉快そうに微笑んでいる。
人間たちには彼の姿は見えない。
見えているのはエルザだけ。
「彼女を見て何か感じますか?」
ルシアンが囁く。
エルザは赤葡萄酒を口へ含む。
甘く、濃い味。
舌の上で熱が広がる。
「何も」
静かな返答。
悪魔は嬉しそうに目を細めた。
「素晴らしい」
その瞬間。
外で鐘が鳴った。
深夜零時。
窓の外では雪が降り始めている。
白い雪。
静かな夜。
そして。
広間の中央で微笑むエルザは、もう誰も逆らえない存在になりつつあった。
契約の女王。
悪魔に愛された伯爵令嬢。
その名は、王都中へ広がり始めていた。




