表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/11

第九話 契約の女王

第九話 契約の女王


 冬が近づいていた。


 王都には冷たい風が吹き、石畳には枯葉が舞っている。朝靄の中を馬車が走り、煙突からは白い煙が立ち昇っていた。


 その日、アストリア伯爵邸では大規模な晩餐会が開かれていた。


 長い食卓には白いクロスが掛けられ、銀燭台の炎が揺れている。焼きたての鴨肉の香草焼き。濃厚な栗のポタージュ。蜂蜜を塗った温かなパン。赤葡萄酒の甘い香り。


 王都中の貴族たちが招待されていた。


 だが彼らの目的は食事ではない。


 皆、ある女を見るために来ていた。


「エルザ様がお見えになります」


 執事の声。


 ざわり、と空気が揺れる。


 階段の上へ現れたエルザは、漆黒のドレスを纏っていた。肩から背へ流れる絹布には銀糸の刺繍が施され、動くたび夜空のような光を放つ。


 首元には黒曜石の首飾り。


 白い肌。


 そして、赤みを帯び始めた蒼い瞳。


 その姿を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。


「美しい……」


「まるで別人だ」


「以前のエルザ様とは空気が違う……」


 囁き声。


 恐れと憧れが混ざった視線。


 エルザは静かに微笑みながら席へ着いた。


「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます」


 その声は穏やかだった。


 だが不思議と逆らえない圧がある。


 今や彼女は、ただの伯爵令嬢ではない。


 悪魔契約を使いこなし、名門バルツァー家を一夜で潰した女。


 社交界では既に新しい異名が広がっていた。


『契約の女王』


 誰かがそう呼び始めたのだ。


 食事が始まる。


 給仕が白皿へ料理を盛り付けていく。


 香ばしく焼かれた鴨肉をナイフで切ると、肉汁がじゅわりと溢れた。赤葡萄酒を煮詰めた濃厚なソースが湯気を立てる。


 エルザは静かに一口運ぶ。


 以前より味覚が鋭くなっていた。


 香辛料。


 脂。


 肉の熱。


 全てが鮮明に感じられる。


 その時だった。


「エ、エルザ様……」


 震える声。


 入口付近で騒ぎが起きている。


 衛兵たちに押さえつけられているのは、一人の女だった。


 マリア。


 彼女は痩せ細り、古びた灰色の外套を纏っていた。髪は乱れ、以前の美貌は見る影もない。


 貴族たちがざわめく。


「ローゼン嬢……?」


「まだ王都にいたのか」


「うわ……酷い姿」


 マリアは必死に叫んだ。


「お願い! エルザ様に会わせて!!」


「お引き取りください」


 衛兵が冷たく言う。


「わたくしは謝りたいだけなの!!」


 その声に、エルザはゆっくり視線を向けた。


「通しなさい」


 静かな命令。


 衛兵たちは一瞬で動きを止めた。


 マリアはふらつきながら広間へ入ってくる。


 周囲の視線が突き刺さる。


 かつて男たちを魅了した女は、今や誰からも蔑まれていた。


 彼女はエルザの前へ跪く。


「お願い……助けて……」


 涙声だった。


「もう嫌なの……寒いし、お腹も空くし……!」


 その瞬間、何人かの貴族が露骨に顔をしかめた。


 以前のマリアなら、こんな無様な姿を絶対見せなかっただろう。


「働いても働いてもお金がなくて……!」


 マリアは嗚咽混じりに続ける。


「洗濯場の女たちは怖いし、手は痛いし……眠る場所も……!」


 彼女の指先はひび割れ、赤く腫れていた。


 エルザは静かに彼女を見下ろす。


「それで?」


「え……」


「だから何ですか?」


 冷たい声。


 マリアは震えた。


「わ、わたくし……悪かったと思ってるわ……!」


「本当に?」


「ええ!」


「では、もし時間が戻ったら」


 エルザは静かに問う。


「あなたはキリアンを奪わない?」


 マリアの顔が凍った。


 答えられない。


 その沈黙だけで十分だった。


 エルザは小さく笑う。


「結局、あなたは何も変わっていないのね」


「ち、違――」


「連れて行きなさい」


 衛兵たちがマリアの腕を掴む。


「嫌っ!!」


 マリアは泣き叫ぶ。


「お願い! 一度だけでいいから助けて!!」


 だが誰も動かない。


 エルザはもう彼女を見ていなかった。


 再び食事へ視線を戻している。


 まるで道端の泥でも見たかのように。


 その時だった。


 広間の奥で、低い笑い声が響いた。


「実に良い夜ですね」


 ルシアンだった。


 銀髪の悪魔は壁際へ寄りかかり、愉快そうに微笑んでいる。


 人間たちには彼の姿は見えない。


 見えているのはエルザだけ。


「彼女を見て何か感じますか?」


 ルシアンが囁く。


 エルザは赤葡萄酒を口へ含む。


 甘く、濃い味。


 舌の上で熱が広がる。


「何も」


 静かな返答。


 悪魔は嬉しそうに目を細めた。


「素晴らしい」


 その瞬間。


 外で鐘が鳴った。


 深夜零時。


 窓の外では雪が降り始めている。


 白い雪。


 静かな夜。


 そして。


 広間の中央で微笑むエルザは、もう誰も逆らえない存在になりつつあった。


 契約の女王。


 悪魔に愛された伯爵令嬢。


 その名は、王都中へ広がり始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ