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第八話 契約の代償

第八話 契約の代償


 夜は静かだった。


 アストリア伯爵邸の広い廊下には、淡い魔石灯の光だけが揺れている。窓の外では細い雨が降っていた。庭園の白薔薇が濡れ、風に揺れるたび甘い香りが湿った空気へ混ざっていく。


 エルザは一人、自室にいた。


 暖炉には小さな火が灯り、ぱちぱちと薪の弾ける音が響いている。


 部屋の中央には大きな姿見。


 金縁の古い鏡だった。


 エルザはゆっくりと鏡へ近づく。


 本日の彼女は黒いシルクの寝衣を纏っていた。肩へ柔らかなショールを掛け、長い金髪はほどかれている。


 窓から入り込む夜風が髪を揺らした。


 静かだった。


 あまりにも静かで。


 だからこそ、自分の鼓動が妙に大きく聞こえる。


 エルザは鏡へ手を触れる。


 白い指先。


 細い首。


 変わらない顔。


 だが。


「……」


 瞳だけが違った。


 蒼かったはずの瞳の奥。


 そこへ、うっすらと赤い色が滲み始めている。


 まるで血が溶け込んでいくように。


 ぞくり、と寒気が走った。


「綺麗ですよ」


 低く甘い声。


 エルザは振り返らない。


「いつからいたの?」


「最初から」


 ルシアンは窓辺へ腰掛けていた。


 漆黒のコート。銀髪。黄金の瞳。


 外の雨音を背に、悪魔は静かに笑っている。


「人間は変化を恐れますね」


「……当然でしょう」


 エルザは再び鏡を見る。


「私は人間だもの」


 そう呟きながらも、その声には迷いが混じっていた。


 本当にまだ人間なのだろうか。


 悪魔契約を行使した夜から、少しずつ身体が変わり始めていた。


 眠りが浅い。


 体温が低い。


 怒りや悲しみより、冷たい愉悦を感じるようになった。


 そして何より。


 他人の恐怖を見ると、胸の奥が妙に満たされる。


 それが自分でも恐ろしかった。


「契約書を使うほど、あなたは人間から遠ざかる」


 ルシアンが静かに言う。


「悪魔契約は“力”です。ですが力には必ず代償がある」


 エルザは目を伏せた。


 暖炉の火が揺れる。


 ぱち、と火花が散った。


「……どこまで変わるの?」


「完全に堕ちれば、あなたは“こちら側”になります」


「悪魔に?」


「ええ」


 ルシアンは微笑む。


「永遠の命。強大な力。人間の理から外れた存在」


 甘い声だった。


 誘惑するように。


「怖いですか?」


 エルザはしばらく黙っていた。


 脳裏に浮かぶのは、以前の自分。


 キリアンを愛していた頃。


 婚約指輪を大切に抱えていた頃。


 夜会で彼の隣へ立つだけで嬉しかった頃。


 あの頃の自分は、もう遠い。


「……分からないわ」


 小さな声が漏れる。


「でも」


 彼女はゆっくり鏡へ触れた。


「後戻りしたいとは思わない」


 ルシアンの瞳が細められる。


 エルザは静かに続けた。


「私は復讐した」


「ええ」


「キリアンを地獄へ落とした」


「見事に」


「マリアも全て失った」


 ルシアンは愉快そうに肩を震わせた。


「素晴らしい夜でした」


 エルザは小さく笑う。


 だがその笑みには、以前の柔らかさはなかった。


 美しいのに冷たい。


 触れれば切れそうな笑み。


「……後悔は?」


 ルシアンが問う。


 黄金の瞳が、じっと彼女を見つめている。


 悪魔は試していた。


 エルザがまだ“人間”でいられるのかを。


 部屋へ沈黙が落ちた。


 雨音だけが聞こえる。


 やがてエルザは顔を上げる。


 赤みを帯びた瞳が、鏡越しにルシアンを映した。


「後悔するくらいなら」


 静かな声。


「最初から復讐なんてしないわ」


 その答えを聞いた瞬間。


 ルシアンは心底嬉しそうに笑った。


 まるで待ち望んでいた言葉を聞いたかのように。


「――素晴らしい」


 悪魔はゆっくり立ち上がる。


 長い指先が、エルザの髪へ触れた。


 冷たい手。


 けれど不思議と嫌ではなかった。


「あなたは本当に美しい」


 囁き。


「憎しみを抱えながら、それでも前へ進もうとする人間は」


 エルザは微かに眉を寄せる。


「褒めているの?」


「もちろん」


 ルシアンは笑った。


「私は壊れていく人間が大好きですから」


 その言葉に、エルザは小さく息を吐く。


「最低ね」


「ええ」


 悪魔は否定しない。


「ですが、あなたももう気付いているでしょう?」


「……何を?」


「復讐は終わっても、渇きは消えない」


 エルザの瞳が揺れた。


 図星だった。


 確かにキリアンを破滅させても、胸の奥にはまだ黒い感情が残っている。


 空虚。


 飢え。


 もっと壊したいという衝動。


 それを認めるのが怖かった。


 ルシアンはそんな彼女を見つめながら、優しく囁く。


「大丈夫ですよ」


「……何が?」


「あなたはもう、一人ではない」


 その瞬間。


 暖炉の火が大きく揺れた。


 赤い光が部屋を染める。


 鏡の中のエルザの瞳は、以前よりさらに赤く染まって見えた。


 まるで人間ではない何かへ、少しずつ近づいていくように。


 窓の外では雨が降り続いている。


 深い夜の中。


 悪魔だけが、満足そうに微笑んでいた。



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