表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
7/11

第七話 落ちぶれた者たち

第七話 落ちぶれた者たち


 秋の雨が、石畳を冷たく濡らしていた。


 王都外れの洗濯場には、朝から灰色の空が垂れ込めている。冷たい水路を流れる水は濁り、石鹸の泡と泥が混じり合っていた。


「……っ、冷たい……」


 マリアは震える手で洗濯物を掴む。


 指先は赤く腫れ、爪は割れていた。


 かつて絹の手袋に包まれていた手だ。


 男たちに褒められ、宝石を飾り、葡萄酒のグラスしか持たなかった手。


 それが今では、他人の下着や作業服を洗っている。


「何ぼさっとしてんのよ!」


 怒鳴り声。


 洗濯場の女主人だった。


 大柄な中年女が腕を組み、マリアを睨んでいる。


「今日中に終わらなかったら食事抜きだからね!」


「す、すみません……」


 マリアは慌てて頭を下げる。


 腰を曲げた瞬間、古びたワンピースから湿気と石鹸の臭いが立ち上った。


 以前なら絶対に着なかった服だ。


 灰色で地味で、布地も粗い。


 何度も洗われて毛羽立っている。


 周囲の女たちは容赦なく笑った。


「元お嬢様なんだっけ?」


「男爵令嬢様が洗濯とか傑作だねぇ」


「手つき見りゃ分かるわよ。今まで何もしてこなかったんだろ」


 くすくす笑い。


 マリアは唇を噛む。


 悔しい。


 惨め。


 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。


 脳裏に浮かぶのは、あの夜。


 黒いドレスのエルザ。


 冷たい微笑。


 そしてキリアンが床へ這いつくばる姿。


「……っ」


 マリアは無意識に震えた。


 怖かった。


 思い出すだけで。


 あの女は、もう以前のエルザではなかった。


「おい、手止まってるよ!」


 桶が飛んでくる。


 水飛沫が顔へかかった。


「きゃっ……!」


「泣いてる暇があるなら働きな!」


 女主人は吐き捨てる。


「ここじゃ誰もあんたをお嬢様扱いしないんだよ!」


 周囲から笑い声が上がった。


 マリアは俯いたまま、濡れたシーツを握り締める。


 冷たい。


 重い。


 指が痛い。


 肩も腰も悲鳴を上げている。


 それでも止められない。


 働かなければ、食べる物すらない。


 ローゼン家は爵位を剥奪され、屋敷も没収された。


 両親は親戚を頼って地方へ消えた。


 そしてマリアだけが、王都へ置き去りにされたのだ。


「……キリアン様」


 小さく名前を呼ぶ。


 だが返事はない。


 もう彼は、自分を助けてくれる貴公子ではないのだから。


 一方その頃。


 王都北部、黒鉄鉱山。


 冷たい風が吹き荒れていた。


 山肌には無数の穴が穿たれ、灰色の煙が空へ昇っている。鉱夫たちの怒鳴り声。鉄を打つ音。煤の臭い。


 そこは罪人や奴隷が送られる場所だった。


「動け!!」


 監督官の鞭が空気を裂く。


 バシィッ!!


「ぐぁっ!」


 キリアンは地面へ膝をついた。


 全身が泥と汗で汚れている。


 以前の美しい黒髪は乱れ、頬は痩け、唇はひび割れていた。


 着ているのは粗末な灰色の作業服。


 首には黒い鉄の首輪。


 そこには赤黒い魔法陣が刻まれている。


 悪魔契約による拘束具だった。


「立て!」


「……は、ぁ……」


 キリアンは息を切らしながら立ち上がる。


 肩へ食い込む採掘道具。


 腕は震え、掌は潰れて血が滲んでいた。


 数週間前まで、彼は貴族だった。


 豪奢な寝台で眠り、高級酒を飲み、女たちに囲まれていた。


 なのに今は。


 泥の中で働く奴隷。


「くそ……っ」


 その時だった。


 首輪が赤く光る。


 ズキン、と激痛。


「っぁぁぁぁっ!!」


 キリアンは頭を抱えた。


「私語は禁止されています」


 静かな声。


 その瞬間、周囲の鉱夫たちが一斉に振り返る。


 エルザだった。


 彼女は黒いロングコートを纏い、白い手袋を嵌めていた。細いヒールが泥を踏むたび、小さな水音が響く。


 鉱山の灰色の景色の中で、彼女だけが異様に美しかった。


 キリアンの瞳が震える。


「エルザ……」


「休憩は許可しておりません」


 冷たい声。


「作業を続けてください」


「た、頼む……」


 キリアンは涙を滲ませる。


「もう無理だ……っ」


 腕も足も痛い。


 眠れない。


 寒い。


 毎日が地獄だった。


 しかも契約のせいで死ぬことすら許されない。


 逃げようとすれば首輪が激痛を与える。


 逆らえば焼かれる。


 完全な支配。


「頼む……許してくれ……」


 キリアンの声は震えていた。


「俺が悪かった……!」


 エルザは静かに彼を見つめる。


 その瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「嫌です」


 即答だった。


 キリアンの顔が引き攣る。


「な……」


「私は何度も許しましたもの」


 エルザは淡々と続けた。


「あなたが他の女性と噂になった時も」


「……っ」


「夜会で私を馬鹿にした時も」


「やめろ……」


「指輪を奪われた時も」


「やめてくれ……!」


 キリアンの瞳から涙が零れる。


 初めて理解した。


 エルザはずっと耐えていたのだ。


 愛していたから。


 信じていたから。


 なのに自分は、それを踏みにじった。


 笑いながら。


 利用しながら。


「私はあなたを許してきた」


 エルザは静かに言う。


「でもあなたは、一度も私を大切にしなかった」


 冷たい風が吹く。


 鉱山の砂埃が舞い上がった。


 キリアンは崩れるように膝をつく。


 絶望。


 後悔。


 恐怖。


 その全てが胸を締め付ける。


 だがもう遅い。


 契約は絶対。


 やり直しなど存在しない。


 その時、エルザの背後で低い笑い声が響いた。


「実に美しいですね」


 ルシアンだった。


 銀髪の悪魔は岩場へ腰掛け、愉快そうに笑っている。


「人間は失ってから気付く」


 黄金の瞳が細められる。


「だから面白い」


 キリアンは震えた。


 今さら理解する。


 自分が敵に回してはいけなかった存在を。


 あの穏やかだった伯爵令嬢が。


 どれほど恐ろしく、美しい怪物だったのかを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ