第七話 落ちぶれた者たち
第七話 落ちぶれた者たち
秋の雨が、石畳を冷たく濡らしていた。
王都外れの洗濯場には、朝から灰色の空が垂れ込めている。冷たい水路を流れる水は濁り、石鹸の泡と泥が混じり合っていた。
「……っ、冷たい……」
マリアは震える手で洗濯物を掴む。
指先は赤く腫れ、爪は割れていた。
かつて絹の手袋に包まれていた手だ。
男たちに褒められ、宝石を飾り、葡萄酒のグラスしか持たなかった手。
それが今では、他人の下着や作業服を洗っている。
「何ぼさっとしてんのよ!」
怒鳴り声。
洗濯場の女主人だった。
大柄な中年女が腕を組み、マリアを睨んでいる。
「今日中に終わらなかったら食事抜きだからね!」
「す、すみません……」
マリアは慌てて頭を下げる。
腰を曲げた瞬間、古びたワンピースから湿気と石鹸の臭いが立ち上った。
以前なら絶対に着なかった服だ。
灰色で地味で、布地も粗い。
何度も洗われて毛羽立っている。
周囲の女たちは容赦なく笑った。
「元お嬢様なんだっけ?」
「男爵令嬢様が洗濯とか傑作だねぇ」
「手つき見りゃ分かるわよ。今まで何もしてこなかったんだろ」
くすくす笑い。
マリアは唇を噛む。
悔しい。
惨め。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。
脳裏に浮かぶのは、あの夜。
黒いドレスのエルザ。
冷たい微笑。
そしてキリアンが床へ這いつくばる姿。
「……っ」
マリアは無意識に震えた。
怖かった。
思い出すだけで。
あの女は、もう以前のエルザではなかった。
「おい、手止まってるよ!」
桶が飛んでくる。
水飛沫が顔へかかった。
「きゃっ……!」
「泣いてる暇があるなら働きな!」
女主人は吐き捨てる。
「ここじゃ誰もあんたをお嬢様扱いしないんだよ!」
周囲から笑い声が上がった。
マリアは俯いたまま、濡れたシーツを握り締める。
冷たい。
重い。
指が痛い。
肩も腰も悲鳴を上げている。
それでも止められない。
働かなければ、食べる物すらない。
ローゼン家は爵位を剥奪され、屋敷も没収された。
両親は親戚を頼って地方へ消えた。
そしてマリアだけが、王都へ置き去りにされたのだ。
「……キリアン様」
小さく名前を呼ぶ。
だが返事はない。
もう彼は、自分を助けてくれる貴公子ではないのだから。
一方その頃。
王都北部、黒鉄鉱山。
冷たい風が吹き荒れていた。
山肌には無数の穴が穿たれ、灰色の煙が空へ昇っている。鉱夫たちの怒鳴り声。鉄を打つ音。煤の臭い。
そこは罪人や奴隷が送られる場所だった。
「動け!!」
監督官の鞭が空気を裂く。
バシィッ!!
「ぐぁっ!」
キリアンは地面へ膝をついた。
全身が泥と汗で汚れている。
以前の美しい黒髪は乱れ、頬は痩け、唇はひび割れていた。
着ているのは粗末な灰色の作業服。
首には黒い鉄の首輪。
そこには赤黒い魔法陣が刻まれている。
悪魔契約による拘束具だった。
「立て!」
「……は、ぁ……」
キリアンは息を切らしながら立ち上がる。
肩へ食い込む採掘道具。
腕は震え、掌は潰れて血が滲んでいた。
数週間前まで、彼は貴族だった。
豪奢な寝台で眠り、高級酒を飲み、女たちに囲まれていた。
なのに今は。
泥の中で働く奴隷。
「くそ……っ」
その時だった。
首輪が赤く光る。
ズキン、と激痛。
「っぁぁぁぁっ!!」
キリアンは頭を抱えた。
「私語は禁止されています」
静かな声。
その瞬間、周囲の鉱夫たちが一斉に振り返る。
エルザだった。
彼女は黒いロングコートを纏い、白い手袋を嵌めていた。細いヒールが泥を踏むたび、小さな水音が響く。
鉱山の灰色の景色の中で、彼女だけが異様に美しかった。
キリアンの瞳が震える。
「エルザ……」
「休憩は許可しておりません」
冷たい声。
「作業を続けてください」
「た、頼む……」
キリアンは涙を滲ませる。
「もう無理だ……っ」
腕も足も痛い。
眠れない。
寒い。
毎日が地獄だった。
しかも契約のせいで死ぬことすら許されない。
逃げようとすれば首輪が激痛を与える。
逆らえば焼かれる。
完全な支配。
「頼む……許してくれ……」
キリアンの声は震えていた。
「俺が悪かった……!」
エルザは静かに彼を見つめる。
その瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「嫌です」
即答だった。
キリアンの顔が引き攣る。
「な……」
「私は何度も許しましたもの」
エルザは淡々と続けた。
「あなたが他の女性と噂になった時も」
「……っ」
「夜会で私を馬鹿にした時も」
「やめろ……」
「指輪を奪われた時も」
「やめてくれ……!」
キリアンの瞳から涙が零れる。
初めて理解した。
エルザはずっと耐えていたのだ。
愛していたから。
信じていたから。
なのに自分は、それを踏みにじった。
笑いながら。
利用しながら。
「私はあなたを許してきた」
エルザは静かに言う。
「でもあなたは、一度も私を大切にしなかった」
冷たい風が吹く。
鉱山の砂埃が舞い上がった。
キリアンは崩れるように膝をつく。
絶望。
後悔。
恐怖。
その全てが胸を締め付ける。
だがもう遅い。
契約は絶対。
やり直しなど存在しない。
その時、エルザの背後で低い笑い声が響いた。
「実に美しいですね」
ルシアンだった。
銀髪の悪魔は岩場へ腰掛け、愉快そうに笑っている。
「人間は失ってから気付く」
黄金の瞳が細められる。
「だから面白い」
キリアンは震えた。
今さら理解する。
自分が敵に回してはいけなかった存在を。
あの穏やかだった伯爵令嬢が。
どれほど恐ろしく、美しい怪物だったのかを。




