最終話 悪魔と伯爵令嬢
最終話 悪魔と伯爵令嬢
雪の降る夜だった。
王都の街並みは白銀に染まり、屋根や石畳には静かに雪が積もっている。馬車の車輪が雪を踏みしめる音だけが遠くで響き、冷たい夜気の中へ白い吐息が溶けていった。
王宮では盛大な冬季夜会が開かれていた。
巨大なシャンデリアには魔石灯が灯され、黄金の光が広間一面へ降り注いでいる。楽団が奏でるワルツ。甘い焼き菓子の香り。葡萄酒の熱気。
だが、誰もが落ち着かない様子だった。
視線は何度も入口へ向かう。
「まだお見えにならないのか」
「今夜も来られるのでしょう?」
「……“契約の女王”が」
囁き声。
恐怖と期待が入り混じった空気。
数年前とは完全に変わっていた。
今やエルザ・フォン・アストリアは、王国でもっとも影響力を持つ存在の一人だった。
アストリア家は急速に勢力を拡大し、多くの貴族たちが彼女へ媚びを売るようになった。
逆らえば終わる。
契約で全てを奪われる。
誰もがそれを知っている。
その時だった。
「エルザ・フォン・アストリア女伯爵閣下、ご到着です」
ざわり、と空気が揺れた。
入口の扉が開く。
雪混じりの冷気と共に、エルザが姿を現した。
誰もが息を呑む。
黒いドレス。
夜空のように深い漆黒。
細い腰を包むシルクには銀糸刺繍が流れ、歩くたび星屑のように輝いている。胸元には血のように赤い宝石。白い肌との対比が異様なほど美しかった。
そして瞳。
かつて蒼かったその瞳は、今や深い紅を宿していた。
冷たい。
美しい。
けれど、人間離れしている。
エルザは静かに広間を見渡す。
視線が合った貴族たちは慌てて頭を下げた。
「お久しぶりです、エルザ様」
「本日はお会いできて光栄です」
「アストリア家の新事業、大変素晴らしい成果だとか……」
媚びるような笑顔。
以前なら、エルザは丁寧に微笑み返していただろう。
だが今は違う。
「ええ、順調ですわ」
ただ淡く笑うだけ。
その笑顔だけで、相手は青ざめる。
まるで蛇へ睨まれた小動物のように。
広間の中央には豪華な食卓が用意されていた。
白い皿に並ぶのは、香草を詰めた七面鳥。熱々のクリームシチュー。黒トリュフ入りのパイ。蜂蜜と香辛料を効かせた焼き林檎。
給仕が赤葡萄酒を注ぐ。
甘く濃厚な香りが広がった。
エルザはグラスを傾ける。
舌へ広がる熱。
深い甘味。
以前より、味覚はさらに鮮明になっていた。
「お気に召しましたか?」
低い声。
いつの間にか、ルシアンが隣へ立っている。
銀髪の悪魔は今夜も美しかった。
黒の燕尾服。白い手袋。黄金の瞳。
その姿は、まるで闇そのものだった。
「ええ」
エルザは小さく頷く。
「今年の葡萄酒は悪くないわ」
「それは良かった」
ルシアンは微笑む。
周囲の人間には、彼の姿は見えない。
だからエルザは時折、“独り言を呟く女伯爵”として恐れられていた。
だが真実を知る者はいない。
彼女の傍らには、常に悪魔がいることを。
「今夜も皆、怯えていますね」
ルシアンが楽しそうに囁く。
「ええ」
エルザは広間を見渡した。
確かにそうだった。
誰もが彼女を恐れている。
昔のように軽んじる者はいない。
笑う者も。
見下す者も。
誰一人。
その時。
広間の隅で、小さな騒ぎが起きた。
一人の老人貴族が、若い令嬢を怒鳴りつけている。
「契約書を持って来いと言っただろう!!」
「も、申し訳ありません、お父様……!」
「役立たずが!」
男は娘の頬を叩こうとした。
だが、その瞬間。
広間の空気が変わる。
しん、と静まり返る。
老人の手が止まった。
エルザが見ていたからだ。
赤い瞳が静かに細められる。
「……その契約、内容を確認なさい」
穏やかな声。
けれど逆らえない圧。
老人は青ざめた。
「は……?」
「家族相手だからと油断すると、痛い目を見ますわよ」
その言葉に、広間の貴族たちがざわめいた。
誰もが思い出したのだ。
バルツァー家の末路を。
ローゼン家の破滅を。
老人は慌てて娘の手から契約書を奪い取り、震える指で読み始める。
その姿を見て、ルシアンがくすくす笑った。
「本当に変わりましたね」
「何が?」
「昔のあなたなら、見て見ぬ振りをしていた」
エルザは静かに葡萄酒を飲む。
「……そうかもしれないわね」
窓の外では雪が降っている。
静かな夜。
その時ふと、キリアンのことを思い出した。
あの男は今も鉱山で働いている。
契約によって死ぬことも許されず。
マリアは消息不明だ。
貧民街へ落ちたという噂だけ聞いている。
もう二人に対して、強い怒りはなかった。
ただ。
遠い過去のようだった。
「後悔していますか?」
ルシアンが聞く。
エルザは少しだけ考える。
暖かな料理の湯気。
葡萄酒の香り。
人々の怯えた視線。
そして自分の赤い瞳。
「……いいえ」
静かな返答。
「私は、私の望んだ道を歩いただけ」
ルシアンは満足そうに微笑んだ。
「素晴らしい」
その時。
悪魔は懐から一冊の契約書を取り出した。
黒革の表紙。
赤黒い紋様。
悪魔契約書。
「次の獲物です」
エルザは静かに受け取る。
契約書は、まるで生き物のように脈打っていた。
「今度は誰なの?」
ルシアンは楽しそうに笑う。
「さて。王都には欲深い人間が溢れていますから」
黄金の瞳が細められる。
「――今夜は、どなたを破滅させますか?」
エルザはゆっくり微笑んだ。
雪が降る。
静かな夜だった。
けれど王都では今夜もまた、誰かの欲望が蠢いている。
そして悪魔は知っている。
人間は必ず契約する。
愛のために。
金のために。
権力のために。
だからこそ。
破滅は終わらない。
エルザは契約書を胸へ抱く。
赤い瞳が、妖しく光った。
その姿はまるで。
人間と悪魔の境界へ立つ、美しい怪物のようだった。




