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エピローグ 薔薇色の契約

エピローグ 薔薇色の契約


 春だった。


 長い冬を越えた王都には柔らかな陽射しが降り注ぎ、石畳の隙間から小さな花が顔を出している。街路樹には若葉が芽吹き、風が吹くたび淡い緑の匂いが流れていた。


 アストリア伯爵邸の庭園でも、白薔薇が満開を迎えていた。


 朝露を纏った花弁が陽光を受け、硝子のようにきらめいている。


 エルザは庭園の東屋で、一人紅茶を飲んでいた。


 本日の彼女は淡い灰青色のドレスを纏っている。胸元には小さな銀薔薇の刺繍。腰まで流れる金髪はゆるく結ばれ、春風に揺れていた。


 テーブルには焼きたてのスコーン。


 蜂蜜。


 木苺のジャム。


 薄く切られたハムとチーズのサンドイッチ。


 白磁のティーカップからは、花のように甘い香りが立ち昇っている。


 穏やかな朝だった。


 少なくとも、表面上は。


「最近は随分静かですね」


 背後から声がした。


 ルシアンだった。


 銀髪の悪魔は東屋の柱へ寄りかかり、相変わらず愉快そうに笑っている。


 本日の彼は白いシャツに黒のロングベストという軽装だったが、それでもどこか人間離れした美しさがあった。


「退屈?」


 エルザが紅茶を口へ運びながら尋ねる。


「少し」


 ルシアンは肩を竦めた。


「最近の貴族たちは慎重になりすぎました。誰も簡単に契約書へ署名しない」


「いいことじゃない」


「私としては残念です」


 悪魔は微笑む。


「人間が欲望で破滅する姿は、とても美しいのに」


 エルザは小さく笑った。


 以前なら不快に感じていた言葉だろう。


 けれど今は、不思議と自然に聞こえる。


 それが少し怖かった。


 エルザは静かに自分の指先を見る。


 白い肌。


 細い指。


 何も変わっていないように見える。


 だが瞳は違った。


 庭園の硝子窓へ映る自分の瞳は、完全に紅を帯びている。


 まるで血を溶かしたような赤。


 王都では最近、こんな噂まで囁かれていた。


『契約の女王は、人間ではなくなった』


 もちろん誰も本人の前では口にしない。


 だが噂は広がる。


 恐怖と共に。


「気になりますか?」


 ルシアンが尋ねた。


「何が?」


「噂です」


 エルザはしばらく黙っていた。


 風が吹き、薔薇の花弁がテーブルへ落ちる。


 甘い香り。


 遠くで鳥が鳴いた。


「……少しだけ」


 正直な答えだった。


「私は本当に、人間なのかしらって」


 ルシアンは微笑む。


「難しい質問ですね」


「はぐらかさないで」


「では率直に申し上げましょう」


 悪魔はゆっくりエルザへ近づく。


「半分は、もうこちら側です」


 エルザの睫毛が揺れた。


 驚きはない。


 どこかで分かっていた。


 悪魔契約を使うたび、自分の中の何かが変わっていくことを。


 怒り。


 悲しみ。


 恐怖。


 そういう感情が薄れていき、代わりに冷たい愉悦が増えていくことを。


「怖い?」


 ルシアンが囁く。


 エルザは紅茶を一口飲む。


 花の香り。


 柔らかな熱。


 そして静かな春風。


「……いいえ」


 ぽつりと答える。


「怖くないわ」


 それは本心だった。


 人間でなくなることより。


 再び誰かに踏みにじられる方が、ずっと怖い。


 ルシアンは満足そうに目を細めた。


「あなたは強いですね」


「違う」


 エルザは首を振る。


「私はただ、弱かった自分へ戻りたくないだけ」


 昔の自分。


 愛を信じていた頃。


 笑われても許し続けた頃。


 傷ついても、嫌われないよう微笑んでいた頃。


 もう戻れない。


 戻る気もない。


 その時、執事が東屋へやって来た。


「エルザ様」


「何?」


「王宮より使者が」


 執事は一通の封書を差し出した。


 黒い封蝋。


 王家の紋章。


 エルザはゆっくり封を切る。


 中の手紙へ目を通した瞬間、彼女は小さく目を細めた。


「……へぇ」


「面白い内容ですか?」


 ルシアンが覗き込む。


 エルザは手紙を閉じた。


「北方の侯爵家で、跡目争いが起きているみたい」


「ほう」


「兄弟同士で契約書を巡って揉めてるらしいわ」


 その瞬間。


 ルシアンの黄金の瞳が、愉快そうに輝いた。


「それは実に」


 悪魔は笑う。


「甘い匂いがしますね」


 エルザも静かに微笑む。


 その笑みは、昔の少女のものではない。


 冷たく。


 美しく。


 どこか妖しかった。


 風が吹く。


 白薔薇の花弁が舞い上がり、春の陽光の中を流れていく。


 エルザはゆっくり立ち上がった。


「馬車の準備を」


「かしこまりました」


 執事が去っていく。


 ルシアンは楽しそうに笑った。


「お出掛けですか?」


「ええ」


 エルザは空を見上げる。


 青く、穏やかな春空。


 その下で、人間たちは今日も欲望に溺れている。


「契約の揉め事を放っておけないもの」


 ルシアンは恭しく頭を下げた。


「では参りましょう、我が主」


 エルザは歩き出す。


 白薔薇の庭園を抜けて。


 新たな契約と、新たな破滅が待つ場所へ。


 その背後で。


 悪魔だけが、心底嬉しそうに笑っていた。



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