第五話 奴隷契約
第五話 奴隷契約
王宮大広間は、異様な静寂に包まれていた。
つい先ほどまで流れていた華やかな音楽は止み、弦楽器を抱えた楽師たちも青ざめた顔で立ち尽くしている。割れた葡萄酒のグラスから赤い液体が床へ広がり、まるで血溜まりのように大理石を染めていた。
貴族たちは息を呑み、誰も動けない。
彼らの視線の先には、床へ這いつくばるキリアン・フォン・バルツァーがいた。
「ぐっ……ぁ……っ」
荒い呼吸。
額を押し付けられたまま、彼は歯を食いしばっている。
黒い刻印は首筋から腕、指先にまで広がり、脈打つたび赤黒い光を滲ませていた。
「キリアン様……!」
マリアが震える声を漏らす。
だが彼女自身も腰を抜かし、その場から動けない。
エルザは静かにキリアンを見下ろしていた。
漆黒のドレスの裾が揺れる。
白い手袋を嵌めた指先には、黒革の契約書。
その瞳は冷え切っていた。
もうそこには、かつて婚約者へ向けていた愛情の色は一切存在しない。
「な、何をした……っ」
キリアンが呻く。
「こんな契約、認められるはずが……!」
「認めたのは、あなたでしょう?」
エルザは穏やかに答えた。
「血判まで押して」
「違う!! こんな内容じゃなかった!!」
キリアンは顔を上げようとする。
だが、その瞬間。
ぞわり、と刻印が赤く発光した。
「っ、がぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
全身を焼かれるような激痛。
キリアンは再び床へ額を叩きつけられた。
大理石へ鈍い音が響く。
「き、キリアン様ぁっ!?」
マリアが悲鳴を上げる。
会場の貴族たちもどよめいた。
「悪魔契約だ……」
「本当に存在したのか……!」
「アストリア家が管理しているとは聞いていたが……」
恐怖と畏怖が入り混じった囁き。
エルザはそんな声を聞き流しながら、静かに契約書を開いた。
ページがひとりでにめくれる。
赤黒い文字が空中へ浮かび上がった。
『契約者キリアン・フォン・バルツァーの財産権を、エルザ・フォン・アストリアへ譲渡する』
その瞬間。
バチン、と空気が弾けた。
キリアンの胸元から淡い光が引き剥がされる。
青白い魔力。
それは糸のように宙を漂い、ゆっくりエルザの手元へ吸い込まれていった。
「なっ……!?」
キリアンの顔が青ざめる。
「俺の……魔力……!?」
周囲の空気がざわめいた。
「財産移譲だけではないのか!?」
「魔力まで奪うとは……!」
エルザは静かに告げる。
「契約は絶対です」
その声は、美しいのに底冷えするほど冷たかった。
「あなたは、自らの全てを譲渡した」
「ふざけるなぁっ!!」
キリアンが怒鳴る。
「こんなもの無効だ! 俺は認めない!!」
彼は無理矢理身体を起こそうとした。
次の瞬間だった。
ドクン、と契約印が脈打つ。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴が大広間へ響き渡る。
キリアンの身体が痙攣した。
まるで見えない炎で焼かれているように。
黒い刻印が腕を這い、首へ食い込み、肌を焦がす。
「いやぁぁぁっ!!」
マリアが顔を覆う。
「やめて! キリアン様が死んじゃう!!」
「死にはしません」
エルザは淡々と言った。
「契約者が壊れてしまっては困りますから」
その一言に、会場の空気が凍りつく。
キリアンは涙を滲ませながら喘いだ。
「エルザ……っ、やめろ……!」
だがエルザは静かに命じる。
「命令です。顔を上げないで」
ぴたり、と。
キリアンの身体が止まった。
まるで糸で操られた人形のように。
「なっ……!?」
彼は必死に抵抗する。
腕へ力を込める。
だが身体は一切動かない。
それどころか、逆らおうとするたび激痛が走った。
「ぐっ……ああぁぁぁっ!!」
床へ爪が食い込む。
指先から血が滲む。
それでも身体は命令へ逆らえない。
完全な服従。
完全な支配。
マリアは震えながら後ずさった。
「う、嘘……こんなの……」
彼女の顔から血の気が引いていく。
つい先ほどまで勝者のつもりだった女は、今や怯えきった小動物のようだった。
エルザはそんな彼女へ視線を向ける。
「マリア・ローゼン」
「ひっ……!」
「あなたも随分楽しそうでしたね」
「ち、違うの! わたくしは――」
「いいえ」
エルザは微笑む。
それは恐ろしいほど美しかった。
「あなたは私を笑った」
マリアの肩が震える。
「婚約指輪を奪って、伯爵夫人になると笑っていたでしょう?」
「そ、それは……っ」
「安心してください」
エルザはゆっくり言った。
「すぐに、あなたも理解します」
マリアの瞳に恐怖が広がった。
一方。
床へ跪いたままのキリアンは、歯を食いしばっていた。
屈辱。
怒り。
恐怖。
全てがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
なのに身体は動かない。
頭を下げたまま、ただエルザの足元へ這いつくばるしかない。
周囲の貴族たちの視線が突き刺さる。
哀れみ。
嫌悪。
恐怖。
つい先ほどまで彼へ媚びていた者たちすら、もう距離を取っていた。
「なぁ……見たか?」
「完全に支配されている……」
「悪魔契約の奴隷印だ……」
「恐ろしい……」
囁き声が耳へ刺さる。
キリアンは震えた。
自分が晒し者になっている。
社交界の中心だった男が、今や犬のように跪かされている。
その時。
ふわり、と甘い香りが漂った。
エルザが近づいたのだ。
黒薔薇の香油。
以前は好きだった香り。
だが今は恐怖しか呼び起こさない。
エルザはゆっくり屈み込む。
白い手袋の指先が、キリアンの顎を持ち上げた。
無理矢理。
彼の瞳がエルザを映す。
冷たく、美しい顔。
そして静かな宣告。
「あなたは今日から、私の所有物です」
キリアンの顔が絶望に染まる。
「ぁ……」
言葉にならない。
エルザはゆっくり立ち上がった。
漆黒のドレスが波打つ。
まるで玉座へ立つ女王のようだった。
会場は沈黙している。
誰も逆らえない。
ただ一人。
広間の隅で。
銀髪の悪魔だけが、愉快そうに笑っていた。
「最高です、我が主」
黄金の瞳が細められる。
「ええ、本当に――美しい破滅だ」




