第四話 婚約破棄宣言
第四話 婚約破棄宣言
王宮夜会は、いつにも増して華やかだった。
天井一面に吊るされた巨大なシャンデリアは無数の魔石灯を輝かせ、金色の光が大理石の床へ波のように流れている。楽団が奏でる優雅なワルツ。葡萄酒の甘い香り。香草を纏った仔牛料理の湯気。笑い声。宝石の輝き。
貴族たちは着飾り、虚飾に満ちた笑顔を浮かべていた。
その中心に立つのは、キリアン・フォン・バルツァーだった。
今夜の彼は濃紺の礼装を纏い、銀糸の刺繍入りマントを肩へ掛けている。整った容姿も相まって、知らぬ者が見れば王子のようだった。
だが、その青い瞳には醜い優越感しか宿っていない。
彼の隣にはマリア。
真紅のドレスを胸元ぎりぎりまで大胆に開き、男たちの視線を集めていた。首元には大粒のルビー。耳元には揺れる金飾り。
まるで自分が既に勝者だとでも言いたげだった。
「キリアン様、本当に今夜やるんですの?」
マリアが嬉しそうに囁く。
「ああ」
キリアンは口角を吊り上げた。
「大勢の前で叩き落としてやった方が面白いだろ」
彼はグラスを傾ける。
赤い葡萄酒が揺れた。
その時だった。
胸の奥に、ずきり、と鈍い痛みが走る。
「……っ」
一瞬だけ顔をしかめる。
「どうかなさいました?」
「いや、何でもない」
まただ。
最近増えた胸の痛み。
だがキリアンは気にしなかった。
今夜は最高の日になる。
アストリア家を手に入れるため邪魔だった女を捨て、マリアを正式な恋人として周囲へ知らしめる日なのだから。
やがて会場が静まり返る。
王宮侍従が高らかに告げた。
「アストリア伯爵令嬢、エルザ・フォン・アストリア様、ご到着です」
人々の視線が一斉に入口へ向く。
その瞬間、空気が変わった。
エルザは静かに歩いてくる。
漆黒のドレス。
夜そのものを閉じ込めたような深い黒。
胸元には細かな黒曜石が散りばめられ、歩くたび微かな光を放つ。長い袖口には銀糸刺繍。白い肌との対比が息を呑むほど美しかった。
淡金の髪は丁寧に結い上げられ、首筋には細い銀鎖が揺れている。
以前の慎ましく穏やかな令嬢とはどこか違って見えた。
静かなのに、恐ろしいほど目を奪う。
キリアンは一瞬だけ違和感を覚えた。
だがすぐ鼻で笑う。
どうせ虚勢だ。
今から捨てられる女が必死に気丈ぶっているだけ。
「エルザ」
彼はわざと大きな声を出した。
「こちらへ来い」
ざわり、と貴族たちが道を開ける。
エルザは静かに歩み寄った。
「何でしょう、キリアン様」
「今夜、お前へ伝えたいことがある」
わざと芝居がかった口調。
周囲の視線が集まる。
期待と好奇心に満ちた空気。
キリアンは愉快だった。
エルザがこれからどんな顔をするのか楽しみで仕方ない。
彼はマリアを抱き寄せた。
その細い腰を見せつけるように。
「エルザ・フォン・アストリア!」
高らかな声が響く。
「私はお前との婚約を破棄する!」
会場がどよめいた。
「まあ……!」
「婚約破棄ですって?」
「公衆の面前で……?」
ざわめきが広がる。
視線が突き刺さる。
哀れみ。
好奇。
嘲笑。
その全てがエルザへ向けられていた。
マリアは勝ち誇った笑みを浮かべる。
「キリアン様が愛しているのは、わたくしですもの」
「その通りだ」
キリアンは鼻で笑った。
「私は彼女を愛している。お前のような退屈な女ではなくな」
くすくす、と周囲で笑い声が漏れる。
「アストリア令嬢、可哀想……」
「でも確かに地味だものねぇ」
「男はああいう華やかな女が好きなのよ」
悪意ある囁き。
けれどエルザは動じなかった。
ただ静かにキリアンを見つめている。
その落ち着いた態度に、逆にキリアンは苛立った。
「……なんだその顔は」
「顔?」
「泣き縋らないのか?」
彼は笑う。
「お前は俺を愛していたんじゃないのか?」
エルザは数秒、沈黙した。
その後、ゆっくりと微笑む。
冷たい微笑だった。
「ええ。愛しておりました」
「だったら――」
「ですから」
エルザは静かに言った。
「契約を履行いたします」
「……は?」
次の瞬間だった。
ぶわり、と。
会場の空気が震えた。
シャンデリアの灯りが一斉に明滅する。
悲鳴。
「きゃあっ!?」
「な、何だ!?」
轟音と共に、巨大な魔法陣が床へ浮かび上がった。
赤黒い光。
禍々しい文字列。
会場の温度が急激に下がる。
そして――。
一冊の黒い契約書が、宙へ浮かび上がった。
黒革の表紙。
脈打つ赤い紋様。
それを見た瞬間、年老いた貴族の一人が青ざめる。
「ま、まさか……悪魔契約書……!?」
ざわめきが広がる。
キリアンの笑みが引き攣った。
「な、なんだこれは……」
契約書がひとりでに開く。
ページがばさり、と風もないのにめくれた。
そして空中へ赤黒い文字が浮かび上がる。
『契約者キリアン・フォン・バルツァーは、己の全財産・自由意志・魂の所有権を、エルザ・フォン・アストリアへ譲渡する』
沈黙。
数秒後。
「……は?」
キリアンの顔が凍りつく。
「な、なんだこれ……っ!? 偽物だ! こんな契約――」
ドンッ!!!!
轟音。
「がぁぁぁぁぁっ!!?」
キリアンの膝が床へ叩きつけられた。
骨が軋む音。
悲鳴。
葡萄酒のグラスが次々割れる。
キリアンは絶叫した。
「ぐあぁぁぁっ!! いた、痛い!!」
「キリアン様!?」
マリアが駆け寄ろうとした瞬間。
黒い紋様がキリアンの首筋から全身へ広がった。
蔦のような呪印。
皮膚の下を這う赤黒い光。
「な、なんなのよこれぇぇっ!!」
マリアが悲鳴を上げる。
だが止まらない。
キリアンの身体は見えない力に引きずられ、床を這った。
「やめろ……っ!!」
爪が大理石を掻く。
それでも身体は勝手に進む。
そして。
エルザの足元へ辿り着いた瞬間。
ドサリ、と。
彼は強制的に跪かされた。
額が床へ擦りつけられる。
「ぐっ……!?」
「キリアン様!!」
「なんだこれは……!」
「悪魔契約だ……!」
貴族たちが恐怖にざわめく。
エルザは静かにキリアンを見下ろした。
黒いドレスの裾が揺れる。
冷たい瞳。
かつて彼を愛した女の目ではない。
「サインしたのは、あなたでしょう?」
静かな声だった。
だがその一言は、刃より鋭くキリアンへ突き刺さった。
「う、そだ……こんなの……」
キリアンの唇が震える。
その背後で。
誰にも見えない場所で。
銀髪の悪魔が、愉快そうに笑っていた。
「素晴らしい」
黄金の瞳が細められる。
「今宵は実に、美しい破滅だ」




