第三話 見えない鎖
第三話 見えない鎖
契約を交わした翌朝、キリアンは最悪の目覚めを迎えた。
「……っ、なんだこれは」
寝室の天蓋越しに差し込む朝日が眩しい。
だがそれ以上に気分が悪かった。
胸の奥が重い。
まるで見えない手に心臓を掴まれているような、不快な圧迫感。
キリアンは苛立たしげに舌打ちすると、乱暴に寝台から起き上がった。
高級絹の寝衣が肩から滑り落ちる。
鍛えた胸元には、うっすらと黒い紋様が浮かんでいた。
「……は?」
蔦のように絡み合う、黒い線。
紋章のようにも見える不気味な模様が、皮膚の下で脈打っている。
キリアンは眉をひそめた。
「酒の飲み過ぎか……?」
昨夜はマリアと遅くまで飲んでいた。
そのせいだろう、と勝手に結論づける。
だが胸元へ触れた瞬間、ぞわりと冷たい感覚が走った。
まるで何かが皮膚の内側を這っているようだった。
「気味が悪いな……」
その時、扉が叩かれる。
「キリアン様、お目覚めですか?」
甘い声。
マリアだった。
「入れ」
扉が開き、彼女が姿を現す。
本日のマリアは薄紅色の朝用ドレスを纏っていた。柔らかなレースが胸元を飾り、栗色の髪はゆるく巻かれている。手には朝食の載った銀盆。
「まぁ、まだお着替え前でしたの?」
「別に構わないだろ」
キリアンが笑うと、マリアは嬉しそうに寝台へ腰掛けた。
銀盆には焼きたてのクロワッサン、半熟卵、香草入りソーセージ、苺ジャム、そして湯気の立つ濃い珈琲。
バターの香りが部屋へ広がる。
「今日は特別に、わたくしが朝食を運ばせましたの」
「へぇ? 気が利くじゃないか」
マリアは甘えるように彼の腕へ身体を寄せた。
「だって、もうすぐですもの」
「何が?」
「伯爵夫人になる日、ですわ」
キリアンは吹き出す。
「ああ、そうだったな」
彼はクロワッサンを齧りながら笑った。
「エルザとの婚約を破棄すれば、アストリア家も終わりだ」
「でも本当に大丈夫なの? あの人、一応は伯爵令嬢でしょう?」
「問題ないさ」
キリアンは鼻で笑う。
「あいつは俺に惚れ込んでる。少し脅せば泣いて縋ってくるだけだ」
「ふふっ、かわいそう」
「かわいそう? 違うな」
彼はワイングラスを手に取る。
朝から葡萄酒を飲むのが彼の癖だった。
「ああいう女は、男に利用されるためにいるんだよ」
赤い液体がグラスの中で揺れる。
その瞬間だった。
ずぐり、と。
胸の奥で何かが脈打った。
「……っ?」
激痛。
まるで胸を内側から焼かれたような熱。
「がっ……!?」
ガシャンッ!!
グラスが砕け散った。
赤い葡萄酒と破片が床へ飛び散る。
「キリアン様!?」
マリアの悲鳴。
キリアンは胸を押さえたまま床へ膝をつく。
「ぐ、ぁ……っ!」
呼吸ができない。
身体の奥へ、見えない鎖を打ち込まれたような苦痛。
全身が痙攣する。
「医者を! 今すぐ――」
「待て……!」
キリアンは荒い息を吐いた。
だが次の瞬間。
痛みは嘘のように消えた。
しん、と静寂が落ちる。
「……は?」
何事もなかったかのように身体が軽い。
マリアは真っ青な顔で彼を見る。
「だ、大丈夫ですの……?」
「あ、ああ……」
キリアンはゆっくり立ち上がる。
だが心臓だけが妙に騒いでいた。
嫌な予感。
得体の知れない不快感。
まるで誰かに見張られているような感覚。
その時。
胸元の黒い紋様が、一瞬だけ熱を帯びた。
だがマリアは気付かない。
「本当に平気?」
「ただの疲れだ」
キリアンは苛立ったように言い捨てた。
「そんな顔をするな。興醒めだ」
マリアは慌てて笑顔を作る。
「ご、ごめんなさい」
彼女は再び甘えるように抱きついた。
だがキリアンの胸には、先ほどの不快感が残っていた。
まるで見えない何かが、自分の身体へ入り込んだような――。
一方その頃。
アストリア伯爵邸では、静かな午後が流れていた。
大きな窓から陽光が差し込み、白いレースのカーテンが風に揺れる。
エルザはティールームで紅茶を飲んでいた。
本日の彼女は深緑色のドレスを纏っている。首元まできっちり留められたデザインは禁欲的で、かえって彼女の白い肌を際立たせていた。
白磁のティーカップから立ち昇るのは、ベルガモットの爽やかな香り。
焼き菓子には、木苺を練り込んだ小さなマドレーヌ。
エルザは静かにそれを口へ運ぶ。
昨夜まで感じていた胸の痛みが、少しだけ薄れていた。
代わりに、別の感情が芽生えている。
甘く、冷たい愉悦。
「契約は順調に馴染んでいるようね」
ぽつりと呟く。
その瞬間、部屋の奥から低い笑い声が聞こえた。
「ええ。実に素晴らしい」
ルシアンだった。
いつの間に現れたのか、彼は窓辺へ腰掛けている。
銀髪が陽光を受けて淡く輝いていた。
今日は黒い燕尾服ではなく、白銀の刺繍が施された漆黒のロングコートを纏っている。まるで夜そのものを切り取ったような姿だった。
「契約はもう完全に繋がりました」
ルシアンは楽しそうに笑う。
「キリアン・フォン・バルツァーは、少しずつ“首輪”へ馴染み始めています」
「首輪、ね」
「ええ」
悪魔は細い指でティーカップを弄ぶ。
「最初は違和感程度。ですが逆らえば逆らうほど、契約は深く食い込む」
その黄金の瞳が細められる。
「もう外れません」
エルザは静かに紅茶を飲む。
温かな液体が喉を通る。
窓の外では白い薔薇が風に揺れていた。
「……キリアンはまだ気付いていないでしょうね」
「もちろんです」
ルシアンは愉快そうに肩を震わせた。
「人間は、自分だけは特別だと思い込む生き物ですから」
エルザはゆっくり目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、昨夜の光景。
自分を嘲笑っていた二人。
婚約指輪を奪った女。
そして、愛を踏みにじった男。
胸の奥が、冷たく疼く。
するとルシアンが優しく囁いた。
「お辛いですか?」
「……いいえ」
エルザは微笑む。
それは以前の穏やかな笑みではなかった。
氷のように冷たく、美しい笑み。
「むしろ楽しみになってきたわ」
その答えに、悪魔は満足そうに目を細めた。
「素晴らしい」
窓の外では、空を黒い雲がゆっくり覆い始めていた。
まるでこれから訪れる破滅を祝福するかのように。




