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第二話 愛の証明

第二話 愛の証明


 翌日の午後、バルツァー子爵邸には穏やかな陽光が差し込んでいた。


 広い応接間には香木の甘い香りが漂い、窓辺には白百合が飾られている。磨き抜かれた家具は豪奢だったが、どこか成金じみた派手さがあった。金縁の装飾。過剰な彫刻。趣味の悪い絵画。


 エルザは静かにソファへ腰掛ける。


 本日の彼女は、淡い灰青色のドレスを纏っていた。胸元には細かな銀糸の刺繍。長袖のレースが白い手首を覆い、耳元では小さな真珠が揺れている。


 上品で控えめ。


 けれどその美しさは、誰より洗練されていた。


 向かい側に座るキリアンは、そんな彼女を見ながら内心で退屈そうに息を吐く。


 黒髪を後ろへ流し、高価なワインレッドの上着を着崩した姿は確かに見栄えが良い。だが、その青い瞳には軽薄な色しか宿っていなかった。


「待たせて悪かったな、エルザ」


「いいえ」


 エルザは柔らかく微笑んだ。


 まるで昨夜のことなど何も知らないかのように。


 その態度に、キリアンは完全に安心していた。


 ――やはり気付いていない。


 そう思うと可笑しくなる。


 昨夜、自分が他の女を抱いていたとも知らず、この女は律儀に婚約者を慕っているのだ。


 滑稽だった。


 給仕が紅茶を運んでくる。


 銀のティーポットから注がれた琥珀色の液体から、甘い果実香が立ち昇った。焼き菓子の皿には、蜂蜜を塗った小さなアップルパイや木苺のタルトが並んでいる。


「そのアップルパイ、王都で評判の店から取り寄せたんだ」


 キリアンは気取った笑みを浮かべた。


「君、甘い物が好きだったろう?」


「……ええ。覚えていてくださったのですね」


 エルザは控えめに微笑み、ナイフを入れる。


 さくり、と薄い生地が崩れた。


 口へ運ぶと、林檎の甘味が広がる。


 けれど何も感じなかった。


 昨夜から、味覚がどこか壊れてしまったみたいだった。


「どうした? 元気がないな」


 キリアンがわざとらしく首を傾げる。


 エルザは少し迷うように視線を伏せた。


 長い睫毛が白い頬へ影を落とす。


「……最近、私たち、すれ違ってばかりでしょう?」


「そうか?」


「はい……。キリアン様がお忙しいのは分かっています。でも、少し不安になってしまって」


 震える声。


 縋るような瞳。


 それは男の庇護欲を刺激する、か弱い令嬢そのものだった。


 だがエルザの内心は、凍りつくほど冷静だった。


 キリアンは内心で嘲笑する。


 ――なんだ、ただの重い女か。


 昨日の夜を知っていたなら、こんな顔はできないはずだ。


 やはり何も知らない。


 愚かで従順な婚約者。


 キリアンは優越感に酔いながら、わざと甘い声を出した。


「安心しろ、エルザ。俺はちゃんと君を愛してる」


 その瞬間。


 エルザの胸の奥で、黒い感情が静かに蠢いた。


 よくもそんな言葉を吐ける。


 他の女を抱いた口で。


 けれど彼女は微笑みを崩さない。


「……ありがとうございます」


 そう言って、そっと鞄から一枚の書類を取り出した。


 上質な羊皮紙。


 赤い封蝋。


 アストリア家の紋章。


「実は、今日はお願いがあって参りましたの」


「お願い?」


「はい」


 エルザは恥じらうように俯く。


「愛の証明が欲しいのです」


 キリアンは思わず吹き出しそうになる。


 ――本当に面倒な女だな。


「結婚後の財産管理契約書を作ったんです。互いに裏切らない誓約として……」


 エルザは不安そうに彼を見つめた。


「……サインしていただけませんか?」


 キリアンは内心で安堵する。


 なんだ、そんなことか。


 軽く契約書をめくる。


 内容は至って普通だった。


 婚姻後の共同財産管理。夫婦間の秘密保持。相互扶助義務。どこの貴族家にもある婚前契約と大差ない。


 むしろ好都合だ。


 正式な契約として残せば、エルザはさらに自分へ縛られる。


 アストリア家の財産も逃げにくくなる。


「もちろんだ、エルザ」


 キリアンは笑った。


「そんなことで安心できるなら、いくらでも署名するさ」


「……ありがとうございます」


 エルザは小さく頭を下げる。


 その姿は慎ましく、美しかった。


 だが、その蒼い瞳だけは不気味なほど静かだった。


 キリアンは気付かない。


 自分が獣の口へ首を差し出していることに。


「血判で構わないな?」


「ええ」


 キリアンは果物ナイフを手に取る。


 刃先が指先を浅く裂いた。


 赤い血が滲む。


 その鉄臭い匂いが、微かに空気へ広がった。


 キリアンは契約書へ指を押し当てる。


 血の署名。


 その瞬間だった。


 ぶわり、と。


 部屋の空気が揺れた。


 燭台の炎が不自然に揺らめく。


 窓の外で風が唸った。


「……?」


 キリアンが眉をひそめる。


 一瞬だけ寒気が走ったのだ。


 だが次の瞬間には消えていた。


「どうかしました?」


「いや……何でもない」


 エルザは静かに契約書を見つめる。


 表面には何も変化はない。


 だが。


 裏面では、赤黒い文字列が脈打つように浮かび上がっていた。


『全財産・自由意志・魂の所有権を、エルザ・フォン・アストリアへ譲渡する』


 禍々しい契約文。


 それはまるで生き物のように蠢き、ゆっくりと羊皮紙へ染み込んでいく。


 キリアンには見えない。


 悪魔の特約は、契約が成立した瞬間にしか視認できないからだ。


 完全なる契約成立。


 逃げ道はない。


 エルザはそっと息を吐く。


 胸の奥で、黒い感情が甘く疼いた。


 これで終わりだ。


 キリアン・フォン・バルツァーは、もう二度と逃げられない。


「ありがとう、キリアン様」


 エルザは柔らかく微笑んだ。


「これで安心できます」


「ああ。そんな顔をするなら、もっと早く書けばよかったな」


 キリアンは機嫌良く紅茶を飲み干す。


 まるで自分が勝者だと思い込んでいる男の顔だった。


 その時。


 ふと背後で、誰かが笑った気がした。


 低く甘い声。


「素晴らしい」


 エルザだけが、その声を聞いていた。


 部屋の隅。


 誰もいないはずの暗がりに、銀髪の青年が立っている。


 黄金の瞳を細め、心底楽しそうに笑っていた。


「実に美しい契約です、お嬢様」


 ルシアンは恭しく頭を下げる。


「裏切り者ほど、自分から鎖を嵌めたがるものですから」


 キリアンは気付かない。


 悪魔の存在にも。


 自らの破滅にも。


 窓の外では、重たい雲がゆっくりと空を覆い始めていた。



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