第一話 裏切りの夜会
第一話 裏切りの夜会
王宮の大広間は、今夜も眩いほどの光に満ちていた。
巨大なシャンデリアには無数の魔石灯が灯され、黄金色の輝きが磨き上げられた白大理石の床へ反射している。弦楽器の優雅な音色が流れ、色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが扇を揺らしながら談笑していた。
焼きたての仔羊の香草焼きの匂い。甘い葡萄酒の香り。銀盆に並べられた果実のタルト。給仕たちが絶え間なく料理を運び、会場は華やかな熱気に包まれている。
その中を、エルザ・フォン・アストリアは静かに歩いていた。
深い紺色のドレスは夜空のように落ち着いた色合いで、胸元には小粒のサファイアが散りばめられている。流行を追い立てた派手さはない。けれど丁寧に編み込まれた淡金の髪と透き通るような白い肌は、むしろ彼女を凛と美しく見せていた。
エルザは白い手袋越しに、小さな箱をそっと握りしめる。
中に入っているのは、青薔薇を象った銀細工のカフスだった。
婚約一周年の贈り物。
キリアンは青薔薇が好きだと言っていたから。
「エルザ様、今夜もお美しいですね」
顔見知りの伯爵夫人が声をかけてくる。
エルザは柔らかく微笑み、淑女らしく一礼した。
「ありがとうございます」
だがその視線は、無意識に会場を彷徨っていた。
婚約者であるキリアン・フォン・バルツァーの姿を探して。
先ほどから彼の姿が見えない。
いつもなら女性たちの輪の中心で得意げに笑っているはずなのに。
「……どちらへ行かれたのかしら」
小さく呟き、エルザは人混みを離れた。
王宮の回廊は、大広間の喧騒が嘘のように静かだった。赤い絨毯が長く敷かれ、壁に飾られた燭台の炎が揺れている。
その時だった。
奥の私室から、男女の笑い声が聞こえた。
「もうっ、キリアン様ったら」
甘ったるい女の声。
エルザの足が止まる。
聞き覚えがあった。
マリア・ローゼン。
最近キリアンの周囲をうろついている男爵令嬢だ。
胸の奥が嫌な音を立てる。
けれどエルザは、自分に言い聞かせた。
違う。
きっと誤解だと。
扉がわずかに開いていた。
そこから漏れる橙色の灯り。
エルザは震える指先で、そっと扉へ近づく。
そして――見てしまった。
ソファへ腰掛けたキリアンの膝の上に、マリアが座っていた。
彼女は薄桃色のドレスを大胆にはだけさせ、白い肩をキリアンへ擦り寄せている。テーブルには飲みかけの葡萄酒。床には脱ぎ散らかした手袋。
キリアンの指が、マリアの腰をいやらしく撫でていた。
「あの女、本当に笑えるわよねぇ」
マリアがくすくす笑う。
「エルザのことか?」
「そうよ。婚約者として尽くしてるつもりなんでしょうけど、あんな地味で真面目なだけの女、退屈じゃない?」
キリアンは鼻で笑った。
「ああ。だが利用価値はある」
その言葉に、エルザの指先が冷たくなる。
「アストリア家の財産、王宮への人脈、契約術式の知識。あいつを妻にすれば全部俺のものだ」
「愛してもいないのに?」
「愛? 必要あるか?」
キリアンは葡萄酒を飲み干し、嘲るように唇を歪めた。
「あいつは少し優しくしてやれば勝手に尽くす。扱いやすい女だよ」
二人の笑い声が重なる。
エルザの胸の奥で、何かが静かに崩れた。
その時、マリアがふとキリアンの手を取った。
「あら、それ婚約指輪?」
「ああ、エルザから贈られたものだ」
「見せて」
キリアンは何の躊躇いもなく指輪を外し、マリアの指へ嵌めた。
月光石の嵌め込まれた銀の指輪。
エルザが何日もかけて選んだもの。
「どう?」
「素敵! ふふっ、伯爵夫人の椅子、いただきね」
マリアが嬉しそうに笑う。
その瞬間、頭が真っ白になった。
呼吸の仕方が分からない。
足元が揺れる。
なのに涙は出なかった。
泣くより先に、心が凍ってしまったから。
エルザは静かに扉から離れる。
物音一つ立てず。
叫び声も上げず。
ただ胸の奥だけが、氷のように冷え切っていた。
回廊の窓から吹き込む夜風が、彼女の髪を揺らす。
手の中の小箱が、かすかに震えた。
エルザはそれを見つめる。
青薔薇のカフス。
キリアンのために選んだ贈り物。
数秒後。
彼女は何の感情もない顔で、それを近くのごみ籠へ捨てた。
「……もう、必要ないわ」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
夜会が終わった頃には、空に薄い霧がかかっていた。
アストリア伯爵邸。
広大な屋敷の地下深く。
エルザは一人、封印庫へ続く石階段を降りていく。
空気はひどく冷たかった。
湿った石壁には古い魔術文字が刻まれ、青白い燐光がぼんやり揺れている。
重い鉄扉の前へ立つ。
鍵を開けるたび、鈍い音が響いた。
一枚。
また一枚。
幾重もの封印扉。
その最奥。
小さな部屋の中央に、黒い台座が置かれていた。
その上に、一冊の古びた契約書。
黒革の表紙には、赤黒い紋様が脈打つように浮かんでいる。
エルザは静かに息を呑んだ。
幼い頃、父に言われたことがある。
『決して触れるな。これは人の欲望を喰らう書だ』
けれど今のエルザには、恐怖よりも別の感情の方が強かった。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が黒革へ触れた瞬間だった。
「ようこそ、お嬢様」
低く甘い男の声。
エルザははっと振り返る。
そこには、見知らぬ青年が立っていた。
月光を溶かしたような銀髪。白い肌。漆黒の燕尾服。そして金色の瞳。
その瞳は、獣のように妖しく輝いていた。
「誰……?」
青年は優雅に一礼する。
「ルシアンと申します。こちらの契約書の管理者……と言えば分かりやすいでしょうか」
彼は唇を吊り上げた。
まるで心底愉快そうに。
「復讐をご希望ですね?」
エルザは黙ったまま彼を見つめる。
ルシアンは続けた。
「素晴らしい。私は人間の欲望が大好きなのです」
その声は甘美だった。
毒のように。
「特に――裏切り者が破滅する瞬間は」
地下室の燭火が揺れる。
赤黒い契約書が、不気味に脈打った。
エルザは静かに目を伏せる。
そしてゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「……ええ」
唇が冷たく微笑む。
「始めましょうか」
悪魔は、嬉しそうに笑った。




