二:黄昏の地下宮殿
帝都南西三十キロ。
草木の一本も生えない荒涼とした赤茶色の岩山地帯に、大地を巨大な刃物で切り裂いたかのような大穴が開いていた。
そこが、旧文明の禁忌の遺構――【黄昏の地下宮殿】の入り口だった。
ひんやりとした、湿気と錆の匂いが混ざり合った地下の空気が、大穴の奥から吹き上がってくる。
入り口付近には、先行した近衛騎士団が残した無惨な爪痕――高熱でドロドロに溶解した魔導シールドや、真っ二つに両断された装甲馬車の残骸が散乱していた。石畳には、人間が蒸発した跡のような黒い影が焼き付いている。
「……うわぁ、本当に埃っぽい。カビ臭いし、地面ぬかるんでるし……最悪だ。今すぐ帰りたい……」
黒い防塵マントをだらしなく羽織ったソラは、入り口の崩れかけた石段に足をかけた瞬間から、心底うんざりした顔でブツブツと愚痴をこぼしていた。
パジャマの上から適当に外套を羽織ってきただけなので、隙間風が首元に入り込んで地味に寒い。
「ご安心ください、マスター」
半歩前を歩くエレノアが、魔導カンテラの青白い灯りで足元を照らしながら、誇らしげに胸を張った。
「帝室学術院が遺した記録と、近衛隊の突入経路を照合いたしました。地下第一層から第六層までの防衛トラップ――高熱火炎放射、重力圧殺床、毒針の雨などは、先の近衛隊の特攻によって全て起動済み。現在は再装填のインターバルに入っており、完全な安全地帯となっております」
「ケッ、あの近衛のボンボンども、突っ込むだけ突っ込んでトラップの露払いだけはしてくれたってわけだな!」
バルガスが大斧を軽々と肩に担ぎ、鋭い視線で周囲の闇を睨みつける。
「だがマスター、油断は禁物ですぜ。第六層を抜けた先……第七層【神罰の間】だけは別格だ。学術院の報告じゃ、あそこを守護してる古代兵器の魔力反応は『特級巨竜』を遥かに超えてるって話だ」
ソラは二人の後ろをトボトボとついて歩きながら、まったく別のことを考えていた。
(……靴の中に小石が入った。絶対に小石だこれ。歩くたびに土踏まずを刺激して地味に痛い……。脱いで取り出したいけど、立ち止まったらエレノアが『マスター、罠を感知されたのですか!?』とか喚き散らしそうだし……あー、面倒くさい。帰りたい。今日の夕飯なんだろう。あったかいポトフがいいな。ソーセージが丸ごと入ったやつ……)
ソラが「ただ眠くて足元ばかり見ている」のを、エレノアは「床の微細な魔力トラップの残滓を全て目視で見切っている」と解釈し、バルガスは「いつ敵が現れても即応できる脱力の歩法」と解釈して、勝手に緊張感を高めていく。
「見ろよエレノア……マスターのあの歩き方。足音が一切しねえぞ……!」
「ええ……。体重を完全に分散させ、床の感圧板をミリ単位で回避されているのです。さすがはマスター……常人なら息を呑む死地において、呼吸すら乱されないとは……!」
ひそひそと交わされる狂信の会話をBGMに、ソラはただただ「早く終わらないかな」と欠伸を噛み殺していた。
一行は、破壊された古代の石造回廊を抜け、螺旋階段を延々と下り、ついに最深部へと到達した。
地下第七層。
巨大な玄武岩の二重扉が、何者かの手によって内側から無理やり押し広げられたように軋んで開いていた。
その隙間から漏れ出してくるのは――肌をチリチリと焼くような、異常な高熱と、大気を震わせる重低音。
「……ここが、【神罰の間】……!」
エレノアが息を呑み、カンテラを掲げながら足を踏み入れた。
そこは、サッカースタジアムが丸ごと三つ入るほどの広大無辺なドーム状の空間だった。
天井は遥か五十メートル上空。壁面には無数の幾何学模様が刻まれ、その溝を紫黒色の不気味な魔光が脈動しながら駆け巡っている。
空間の中央には、天を衝くような巨大な古代の祭壇。
そして、その祭壇の中心で――心臓のようにドクン、ドクンと拍動する巨大な球体があった。古代の永久機関【重力崩壊炉】。
だが、真の絶望は、その炉の前に鎮座していた。
――ギュオオオオオオオオオオッ……!!
空間が軋むような、耳障りな超重低音。
炉の守護者として顕現したのは、身の丈十メートルを超える真紅の古代兵器――【殲滅巨神】。
全身を鏡面磨きされた未知の古代合金で覆い、四本の腕にはそれぞれ、触れるもの全てを原子レベルで消滅させる「高熱魔導刃」と「重力砲」を握りしめている。
その巨体がゆっくりと首をもたげ、単眼の赤いレンズをソラたちへ向けた。
『――警告。侵入者ヲ検知。帝国生体防衛プロトコル・オメガヲ起動。排除シーケンスヘ移行――』
機械的な合成音声がドーム内に反響した瞬間、巨神の全身から、空間を歪めるほどの超高熱の魔力障壁が展開された。
空気がパチパチと音を立てて発火し、ドーム全体の気温が一瞬で五十度を超えて跳ね上がる。
「し、しまっ……!? 障壁の出力が学術院の報告の十倍以上……!?」
エレノアが蒼白になり、叫んだ。
「ダメですバルガス、近づけません! あの赤い障壁は【絶対斥力結界】……! あらゆる物理攻撃を反発させ、あらゆる魔法エネルギーを吸収して自身の動力に変換する、旧文明の完全無敵の防壁ですッ!!」
「チッ、ここまで来て手詰まりかよ!?」
バルガスが大斧を構え、全身から闘気を噴き上げるが、漏れ出る熱風だけで肌が焦げるような激痛に顔を歪める。
巨神の四本の腕が一斉に持ち上がった。
重力砲の砲口に、空間を圧縮する漆黒の光球が収束していく。
直撃すれば、ドームごと消滅する必滅の一撃。
「退避を……! マスター、ここは一度退避して再編成を――!」
エレノアが悲痛な叫びをあげてソラを振り返った。
だが、その時。
ソラは――心底、ブチギレていた。
(……あっっっっっっっっづ!!!!!!)
ソラは額に噴き出した汗を手の甲で乱暴に拭った。
室温五十度。ただでさえ歩かされて疲れているのに、サウナのような熱気が全身を焼き、お気に入りの上質なシャツが汗でじっとりと肌に張り付いている。
不快指数のメーターが振り切れ、眠気と疲労が最悪の苛立ちへと変貌していた。
(何なんだよこのデカい鉄屑は!! うるさいし、眩しいし、何より暑すぎるだろ!! 早くエアコン効いた部屋に帰らせろよ!!)
その時、ソラの靴のつま先に、コツリと硬いものが当たった。
見下ろすと、床の瓦礫の中に、長さ三十センチほどの錆びついた鉄の杭が転がっていた。
かつて調査隊が足場を固定するために打ち込み、折れて放置されたような、何の変哲もないただの鉄屑だ。
それが、ソラの足の親指に当たって地味に痛かった。
(……チッ、邪魔くさいな!!)
苛立ちの頂点に達したソラは、八つ当たり気味に、その錆びた鉄杭を足先でポイと蹴り飛ばした。
本当に、ただの八つ当たりだった。道端の空き缶を蹴っ飛ばすような、乱暴で気のない一蹴り。
だが――。
ソラの身体は、幼少期の地獄訓練によって「どんな体勢、どんな感情の時でも、放たれた動作が完璧な脱力と最短軌道を描く」ように呪われていた。
さらに、ソラの体内に宿るスプーン一杯の極小魔力が、足先から鉄杭へと無意識に流動した。
漏れ出る余剰魔力はゼロ。
極限まで研ぎ澄まされたダイヤモンドの針のような超高密度魔力が、鉄杭の分子の隙間に寸分の狂いもなく浸透し、その硬度と振動数を神話級の領域へと引き上げる。
シュッ――。
音すらなかった。
ソラの足先から放たれた錆びた鉄杭は、空気抵抗を完全にゼロにする無回転の弾丸となって、真紅のドームの空間を一直線に切り裂いた。
「え……?」
エレノアが瞬きをした、その刹那。
鉄杭は、巨神が展開する【絶対斥力結界】の表面に到達した。
あらゆる攻撃を反発させるはずの無敵の障壁。
しかし、ソラが蹴り飛ばした鉄杭の先端には、物質の魔力結合をピンポイントで無力化する極小魔力が収縮していた。
結界のエネルギー流が交差する、針の穴ほどの「唯一の構造的死角」。
そこに、鉄杭の切っ先が吸い込まれるように接触した。
――ピキィィィィィンッッッ!!!
ドーム全体に、巨大なステンドグラスが一瞬で粉々に砕け散ったような、澄み切った破裂音が鳴り響いた。
「ギ……ガガッ……!?」
巨神が放つはずだった漆黒の重力球が霧散する。
絶対無敵を誇った赤い斥力結界が、鉄杭が触れた一点から蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、次の瞬間、光の破片となって爆散したのだ。
だが、鉄杭の運動エネルギーは止まらない。
結界を突き破った鉄杭は、そのまま巨神の胸部装甲――古代の動力炉から全身へ魔力を分配する「主中枢魔導回路」のど真ん中へと深々と突き刺さった。
――ドゴォォォォォォォンッッッ!!!!
内部で圧縮されていた莫大な魔力が逆流し、巨神の巨体が内側から大爆発を起こした。
四本の腕が吹き飛び、頭部が砕け散り、十メートルを超える金属の巨神が、ただの鉄屑となって石畳へ崩落していく。
激しい爆風がドーム内を吹き荒れ、巨神の破片がカラカラと音を立てて転がった。
熱気が急速に冷めていく。
赤黒く脈動していた中央の重力崩壊炉は、主電源を遮断されたかのように静かに光を失い、完全な休眠状態へと移行していた。
静寂。
ただ、冷たい地下の風が吹き抜ける音だけが残された。
「……ふぅ。やっと涼しくなった」
ソラは汗ばんだ首筋を手のひらで仰ぎながら、心底どうでもよさそうに呟いた。
そして、崩壊した巨神の残骸には目もくれず、スタスタと出口の階段へ向かって歩き出す。
「……おい、エレノア、バルガス。もう用事は済んだだろ。埃っぽくて喉が痛いから、早く地上に戻るぞ」
あくびをしながら、ポケットに手を突っ込んで去っていくソラの背中。
その後ろで。
エレノアは、その場に両膝をついて崩れ落ちていた。
カンテラを取り落とし、両手で頭を抱え、ガタガタと歯の根を鳴らしている。
「……あ、あり得ない……。あり得ないわ……」
眼鏡がずり落ちるのも構わず、エレノアは戦慄の涙を流しながら呟いた。
「旧文明の最高傑作……国を滅ぼす殲滅巨神の斥力結界……。その魔素循環の結束点、わずか数ミリの『結界の縫い目』を……道端の錆びた杭を足先で突いただけで貫通させただと……!?」
バルガスもまた、大斧を取り落とし、茫然自失となって立ち尽くしていた。
武人として積み上げてきた常識のすべてが、目の前で粉微塵に粉砕されていた。
「構えもなし……呪文の詠唱もなし……闘気の噴出すら微塵も感じさせず……ただ小石を蹴っ飛ばすような気のない仕草一つで……神話の怪物を即死させやがった……」
バルガスは全身の毛穴から冷汗を噴き出し、震える拳を握りしめた。
「無敵だ……。あのお方は、人間なんてもんじゃねえ……! この世のあらゆる理を、自分の都合に合わせて書き換える……『生ける絶対法則』だ……!!」
「ええ……!」
エレノアは祈るように両手を胸の前で組み、遠ざかるソラの背中を見つめた。
その瞳には、もはや崇拝の域を超えた、狂気的な信仰の光が宿っていた。
「『埃っぽいから帰る』……! あの言葉は嘘ではなかったのです!
神話の古代兵器すら、マスターにとっては足元にまとわりつく埃に過ぎなかった……! 私たちが何日頭を悩ませようと、あのお方が靴先を一振りされるだけで、世界は平和を取り戻すのですから……!!」
二人は床に額を擦り付け、去りゆくソラの足音に向けて、魂の底からの平伏を捧げた。
地上へ帰還したソラを待っていたのは、静かな公爵邸のベッド……などでは決してなかった。
未踏の第七層をわずか数時間で単独踏破し、古代の厄災を「小石を一蹴するが如く」消滅させたという凶悪すぎる報告書が、帝都中を、そして皇宮を過去最大の激震で揺るがしていたのである。




