第二章:神域の破壊者
ヴェルデ渓谷における「五百人の盗賊連合・無血完全制圧」の凶報――否、帝国市民にとっては奇跡の福音――が帝都ルミナリアに轟いてから、丸二日が経過していた。
街の空気は、もはや正常な温度を保っていなかった。
中央広場の大噴水前では、三文詩人どもが即興で作った『神竜帝ソラ様の御神徳』なる下品な賛歌を絶叫し、集まった大衆が熱狂的に銀貨を投げ込んでいる。曰く、「ソラ様が虚空へ向かって指を一本パチンと鳴らせば、荒れ狂う天候すら平伏し、五百の逆賊は母親の胎内に還ったかのように安らかな眠りへ落ちた」とのことだった。
無論、当の「生ける天災」は――。
「……んあー……ふぁぁぁぁぁ……」
ヴァルハイト公爵邸の最上階。レースの天蓋が吊るされた特注キングサイズベッドの真ん中で、ソラは涎の染みがついた枕に顔を押し付け、深々としたあくびを噛み殺していた。
南向きの巨大な窓から差し込む陽光は、すでに黄昏の色を帯び始めている。時計の針は午後三時半。
一日二十四時間のうち、十八時間を睡眠と惰眠に捧げるソラにとって、ようやく「朝の微睡み」から「昼下がりの怠惰」へとシフトする時間帯だった。
(……静かだ。最高だ。完璧な休日だ)
ソラは布団の中で芋虫のように身悶えしながら、毛布の端を鼻先まで引き上げた。
ヴェルデ渓谷の一件はどうやら無事に終わったらしい。バルガスとエレノアが昨日「大勝利です!」と喚き散らしに来た気もするが、眠気のピークだったソラは「あー、よかったね、じゃあ帰って」とドア越しに告げて追い払ったはずだった。
(これでいいんだ。現場で酒飲んで帰ってきただけの連中も、無事に任務を果たした気になってる。親父も僕がギルドの仕事をしたと勘違いして満足してる。……つまり、僕はこの先一ヶ月、誰にも邪魔されずにこのベッドの上で娯楽小説を読めるってわけだ)
完璧な引きこもりプラン。
冷えた林檎水でも飲もうかと、ソラがだらしなくシーツから右腕を伸ばした――その瞬間だった。
――ズズズズズズンッ……!!
地鳴りのような重低音が、公爵邸の基礎を直接揺らした。
(……地震? いや、違うな……)
続いて響いてきたのは、石畳を削るような無数の硬質な足音だった。
規則正しく、一切の乱れがない行軍の響き。重装歩兵の甲冑が擦れ合う「チャリ……チャリ……」という威圧的な金属音。そして、中庭全体を震わせるように轟いた、男たちの野太い斉唱。
『――起てよ、帝国の栄光! 至高の玉座に座すカルル皇帝陛下が御名において! ヴァルハイト公爵令息ソラ殿への【親書勅命】を奉持せりッ!!』
「ぶっ、げほっ、ごほっ……!?」
林檎水を口に含みかけていたソラは、肺腑の底から激しくむせ返った。
ベッドから転がり落ちそうになりながら、パジャマの胸元を手で押さえ、窓際へ這い寄る。カーテンの隙間から、片目だけで中庭を覗き見た。
そこに広がっていたのは、悪夢を煮詰めて固めたような光景だった。
広大な中庭を埋め尽くしていたのは、真紅のマントを翻す「禁裏近衛重装騎士団」の精鋭五十名。全員が儀礼用ではない、実戦用の黒鉄プレートメイルを着込み、抜刀した巨剣を垂直に掲げて整列している。
その中央に鎮座するのは、純白の巨馬四頭に引かれた、白銀と黄金の装飾が施された帝室専用の儀装馬車。
そして、その馬車の前で――感極まって地面に膝をつき、貴族用の正装を泥で汚しながら号泣している中年男がいた。
ソラの実の父親、ヴァルハイト公爵その人である。
「おおお……っ! おおおおっ! なんという果報……なんという栄光だッ! 我がヴァルハイト家の歴史において、皇帝陛下自らの勅命の親書が、これほど丁重な儀仗兵を伴って下されたことがあろうかッ! おい、誰かソラを呼べ! 首に縄をつけてでも、ベッドごと叩き起こして連れてまいれッッ!!」
(親父ィィィィッッ!? なにしてんの!? 追い払ってよ! 「倅は今、猛烈な下痢で死にかけてます」とか言って追い返してよ今すぐ!!)
ソラが音のない悲鳴を張り上げた、まさにその刹那。
ドガァァァァンッッ!!!
寝室の頑丈なオーク材の扉が、凄まじい轟音とともに吹き飛んだ。
蝶番がねじ切れ、粉々になった木片が絨毯の上に散らばる。
「失礼いたします、マスター・ソラッ!!」
突風のように部屋へなだれ込んできたのは、銀髪を鋭く揺らしたエレノアだった。
指先には、今まさに扉の鍵穴と閂を原子レベルで消滅させたばかりの魔導光がパチパチと燻っている。
その後ろから、身の丈二メートルの巨漢バルガスが、肩幅ほどの分厚い胸板を露わにした戦闘用レザーアーマー姿で乱入してきた。床を踏み抜かんばかりの勢いである。
「マスター! とんでもねえことになりやしたぜ! 帝室の筆頭侍従長が、皇帝直筆の親書を抱えて直々に乗り込んできやがった!」
「あ、あのさ……エレノアさん……」
ソラはベッドのシーツを首まで引き上げ、引き攣った顔で後退りした。
「ドア……ノブ回せば開いたんだけど……。なんで蝶番ごと吹き飛ばしたの……?」
「一刻を争う事態です。マスターへの奏上をコンマ一秒でも遅らせるなど、ギルド監査官としての職務怠慢に他なりません」
エレノアは眼鏡のブリッジをクイと押し上げると、真顔で言い放った。
「それに、公爵閣下が『扉ごと粉砕してでもあの豚を引きずり出せ』と仰いましたので、遠慮なく最大出力の分解術式を行使させていただきました」
(実家のセキュリティと家族愛が崩壊してるんだけど!?)
ソラが内心で絶望の頭抱えをしていると、エレノアは恭しく膝をつき、紫の絹布に包まれた巨大な羊皮紙の巻物を両手で掲げた。
そこには、帝室の象徴である「双頭竜の黄金封蝋」が、毒々しいまでの威光を放ちながら鎮座していた。
「お納めください、マスター。ヴェルデ渓谷における貴方の『神話的無血制圧』……帝室上層部は完全に度肝を抜かれたようです。昨夜、皇宮で緊急の最高軍事会議が招集され、宰相府、軍部、魔導学術院、そして皇帝陛下ご自身が満場一致で貴方を指名されました」
「……指名?」
ソラの眉間がピクリと跳ね上がった。嫌な予感しかしない。
「帝都南西三十キロ……太古の旧文明が遺した禁忌の遺構――通称【黄昏の地下宮殿】。未踏破の地下第七層において、古代兵器が突如として活性化。周囲の地脈を吸い上げ、暴走の兆候を見せております」
エレノアは手帳を素早くめくり、冷徹な声音で詳細を読み上げる。
「一昨日、帝室学術院が派遣した特級魔導調査隊は全滅。昨日、事態を重く見た近衛騎士団の一個中隊が突入するも……入り口の防衛機構に触れただけで、わずか三分で壊滅いたしました。負傷率八割、生存者も全員が重度の魔力火傷を負い、戦線離脱を余儀なくされています」
「おいおいおい、近衛の一個中隊が三分でスクラップだぜ?」
バルガスが嬉しそうに獰猛な笑みを浮かべ、背中の巨大な大斧をガチリと鳴らした。
「帝国最強を自称する『白銀の聖堂』のジークフリートの野郎も、魔導結社『深淵の瞳』のジジイどもも、ビビって調査の受託を拒否しやがった! 『あそこは人の立ち入る領域ではない』とよ! だが……皇帝陛下は仰ったそうだ。『空前絶後の智謀と、観測不能の魔力を誇るあのソラ・ヴァルハイトにしか、この災厄を鎮めることは叶わぬ』とよォッ!!」
「陛下直々の勅命です」
エレノアが青い瞳を崇拝の熱で潤ませ、ソラを見つめる。
「受託報酬は白紙の小切手、さらに成功の暁には公爵位の繰り上げ継承と、帝国名誉元帥の称号が約束されております。三大ギルドの頂点として、我が『銀翼の天秤』の武威を大陸全土に知らしめる絶好の機会です!」
二人の熱苦しい視線が、ベッドの上で丸まるパジャマ姿のソラへ集中した。
一方、ソラの精神は、凍りつくような虚無の底へと叩き落とされていた。
(……未踏の古代ダンジョン? 近衛中隊が三分で全滅? 三大ギルドの他所がビビって逃げ出すレベルの魔境……?)
ソラは震える指先で、掛け布団の縫い目を強く握りしめた。
(行きたくねええええええええええええええッッ!!!!)
心の中で、魂の絶叫が木霊する。
なぜだ。なぜ僕がそんな死地へ行かなければならない。
古代遺跡なんて、どうせ地下だからカビ臭くてじめじめしているに決まっている。太陽の光も届かない薄暗い通路を何キロも歩かされ、埃を吸い込んで喉を痛め、罠を踏んで手足が吹き飛ぶかもしれないのだ。
そもそも、ソラの魔力量は「スプーン一杯分」である。
相手は国を滅ぼしかねない古代兵器だ。そんなものに遭遇したら、威圧感だけで胃液を吐いてしまう。
名誉元帥? 公爵位? そんなものをもらったら最後、一生書類仕事と国家行事に縛り付けられて、昼寝をする時間など永遠に消滅してしまうではないか。
断固として拒否しなければならない。
皇帝の勅命だろうが親父の面子だろうが知ったことか。
「僕はただの無能です、怖くてお漏らししそうなので行けません」と泣きついてでも辞退する。それがソラの出した唯一無二の結論だった。
ソラは、ゆっくりと掛け布団を跳ね除けた。
寝起きの気だるさと、心底からの拒絶、そして「面倒くさい」という感情が臨界点を突破した結果――ソラの顔面筋肉は完全に脱力し、冷え切った氷細工のような無表情へと変貌していた。
その半開きの黒い瞳には、この世のあらゆる栄華と脅威をゴミのように見下ろす、絶対の虚無が宿っていた。
「……おい、エレノア」
低く、掠れた声が寝室に落ちる。
寝起きのガラガラ声だったのだが、室内の空気は一瞬で極北の氷河のように張り詰めた。
「はッ!」
エレノアが即座に直立不動の姿勢を取る。
「……古代遺跡の調査なんて、埃っぽくて服が汚れるだけだろ。僕は部屋で本を読んで寝ていたい」
ソラは心底うんざりしたため息をつきながら、心からの本音を吐き捨てた。
(頼むから僕を巻き込むな。行きたがってる近衛の生き残りでも送り込んでおけ)
だが――。
室内を満たしたのは、沈黙だった。
息を呑む音すら許されない、極限の緊張。
エレノアの眼鏡の奥の瞳が、カッと見開かれた。
その白皙の頬が、戦慄と狂信によって急速に紅潮していく。
(……『埃っぽくて服が汚れるだけ』……!?)
エレノアの脳内で、超解釈の嵐が吹き荒れた。
(近衛中隊すら三分で壊滅させた神話の防衛機構……! 一国を滅ぼしかねない古代兵器の暴走を前にして、この御方は……『服が汚れる程度の埃』と言い放った……!?
つまり……! ソラ様にとって、あの地下宮殿の古代兵器など、机の上に積もった埃を払う程度の児戯に過ぎないということ……!?
そして『本を読んで寝ていたい』……! それは暗に、『余計な雑兵を連れて行けば足手まといになる。私一人で即座に終わらせて帰ってくるから、無駄な大部隊など編成するな』という……絶対強者の冷徹なる警告……!!)
バルガスもまた、額から滝のような汗を流し、息を荒らげていた。
(す、すげえ……! 国中の英雄たちが震え上がってる禁忌の地を、ただの『掃除の手間』だと切り捨てやがった……! どこまで底が知れねえんだこの男は……!!)
「……承知いたしました、マスター」
エレノアは胸元に手を当て、狂信者の笑みを浮かべて深々と頭を垂れた。
「帝室の儀仗兵やギルドの戦闘部隊など、貴方の前には邪魔な『埃』に過ぎませんね。我がギルドからは、荷物持ちと記録係の私、そして露払いのバルガスのみが随行いたします。マスターの手を煩わせることなく、最速で第七層までご案内いたします!」
「……は?」
ソラがぽかんと口を開けた。
「行くぞ野郎どもッ!! マスターの神話をこの目に焼き付ける準備をしなッッ!!」
バルガスが雄叫びを上げ、部屋を飛び出していった。
「待っ……え? なんで? 行く流れになってるの……? 埃っぽいから嫌だって言ったよね僕!?」
ソラの悲痛な叫びは、階下から響き渡る近衛兵たちの「ソラ様出陣ッ!!」という地鳴りのような歓声にかき消されていった。




