三:狂気の一夜(ヴェルデ要塞の崩壊)
陽が完全に沈んだヴェルデ渓谷は、底冷えのする濃密な闇と、肌を突き刺すような夜風に覆い尽くされていた。
標高八百メートルの断崖に楔を打ち込むように建設されたヴェルデ要塞。
元は帝国辺境軍の防衛拠点だったその堅牢な石組みは、今や五百人の武装盗賊連合――『黒い角笛』の絶対防衛圏と化していた。
本道に当たる狭隘な隘路『首括りの咽喉』には、分厚い鉄板を貼り付けた三重の防壁。その手前には、魔力を感知して連鎖爆発を起こす地脈暴走型の魔導地雷が無数に埋設されている。両脇に切り立つ高さ五十メートルの玄武岩の岩壁には、突風に乗せて矢を射掛ける風属性の魔導弓兵が百名、鏃に猛毒を塗りたくって配置についていた。
要塞の司令塔、風が吹き抜ける物見櫓の上。
首領のボルコフは、熊の毛皮を裏打ちした重装歩兵用の黒鉄鎧に身を包み、夜間視の遠眼鏡を握りしめていた。元・帝国正規軍の精鋭歩兵隊長。数々の死線を潜り抜け、隻眼と顔面の肉を削がれながらも生き延びてきた歴戦の軍人だ。
「おい、頭……! 下流の干潟を見なせえ! 妙な灯りが見えやす!」
見張りの斥候が震える声で指差した。
ボルコフは遠眼鏡のピントを絞る。
要塞から約五キロ下流――泥水が澱む、戦略的価値など皆無の干上がった湿地帯。
暗闇の中に、ぽつり、ぽつりと赤黒い篝火が立ち上っていた。一箇所ではない。円を描くように五つの巨大な火柱が焚かれ、寒空の下でバチバチと火の粉を撒き散らしている。
そして、その火に照らされた影を見て、ボルコフは隻眼を極限まで見開いた。
「……何だ、あれは?」
そこにいたのは、重装歩兵でも、突入を控えた魔導強襲部隊でもなかった。
鎧すら身につけていない、麻のシャツと革ズボンだけの若い荷物持ちの少年たちが二十人ほど。
彼らは巨大な木樽の栓を木槌で乱暴に叩き割り、銀のジョッキに並々と注いだ濁り酒を、あろうことか頭から浴びるように呷っていたのだ。
ジュウジュウと分厚い干し肉が網の上で脂を弾けさせ、香ばしい煙が夜空に漂う。
『おいおい、本当に飲んでいいのかよ!? 副マスターから「朝まで騒ぐのが仕事だ」って言われたぞ!』
『知るかよ! 倉庫の一番古い樽を全部空けろってのがマスターのご命令だ! 飲め飲めーッ!!』
『うおおおっ、肉食わせろ肉ーッ! 帝国軍のクソ野郎どもに乾杯だァッ!!』
風に乗って、下品極まりない酒盛りの喚声が、切れ切れに要塞の櫓まで届いてくる。
「頭、ありゃ『銀翼の天秤』の兵ですぜ!」
副官の男が唾を飛ばし、腰の曲刀をジャキリと鳴らした。
「だが、武器一つ持ってねえ! わずか二十人の新米のクズどもが、俺たちの目の前で酒盛りを始めてやがりやす! 完全に舐め腐ってやがる! 崖を下りて奇襲をかければ、五分で皆殺しにしてやれますぜ!」
「待てッ!! 莫迦者がッ!!」
ボルコフの怒号が櫓を震わせた。
振り上げた太い腕が、副官の胸板を乱暴に突き飛ばす。
歴戦の経験と、戦場で培われた死の直感が、ボルコフの頭蓋の奥で狂ったように警鐘を乱打していた。
「考えろ! 敵の総指揮を執っているのは誰だ!? 帝都の試験官ガレスを一撃で屠り、特級暗殺者三名を紙切れ数枚で返り討ちにしたという、あのヴァルハイト公爵家の『生ける神話』……ソラ・ヴァルハイトだぞ!?」
ボルコフは遠眼鏡を睨みつけ、額に滲み出た脂汗を手の甲でぬぐった。
「その男が、たかが二十人の非戦闘員を、何の防壁もない干潟に晒すだと? 武器も持たせずに酒を飲ませるだと? ……あり得ん! 断じてあり得ん!!」
「で、では……あれは一体……?」
「『撒き餌』だ……!!」
ボルコフは自らの思考の深さに戦慄し、歯をギリリと噛み鳴らした。
「奴は俺たちを誘い出そうとしているのだ! あんな無防備な姿を見せられれば、誰だって討って出たくなる。だが飛び出せばどうなる!? あの干潟を取り囲む葦の茂みの中、泥の底、背後の断崖の影……そこに、バルガス率いる『銀翼』の特級重装歩兵と、エレノアの魔導砲列が潜んでいないと誰が言い切れる!?」
「ひっ……!?」
「出撃すれば最後、左右から十字砲火を浴びて全滅だ! 奴は……ソラ・ヴァルハイトは、俺たちの血気と傲慢を逆手に取り、一歩でも要塞の外へ踏み出させようと罠を仕掛けているのだ……! 動くな! 全員、防壁の隙間に身を潜め、一歩たりとも外へ出るなッ!!」
ボルコフの厳命が要塞全域に下された。
だが――それこそが、ソラが無意識に敷設した「精神の蟻地獄」の第一歩だった。
夜が更けるにつれ、ヴェルデ渓谷の異様な地形が牙を剥き始めた。
下流の干潟は、両岸を切り立った玄武岩の巨壁に挟まれた、すり鉢状の特殊な窪地。
そこで新米冒険者たちが無邪気に上げる大歓声、木樽を叩く音、泥酔した歌声――それらが岩肌を跳ね回り、共鳴し、重なり合いながら、上流の要塞へ向けて恐るべき変貌を遂げて押し寄せてきた。
ゴオオオオオオオ……ッ!!
『……オラァッ……!!』
『……まだ飲むぞ……!!』
『……皆殺しだァァッ……!!』
ラッパ状の谷がメガホンの役割を果たし、二十人の歓声は、要塞の石壁にぶつかる頃には「数千、数万の軍勢が鬨の声を上げているような地鳴りの轟音」へと増幅されていた。
城壁にへばりつく盗賊たちの顔から、急速に血の気が引いていく。
「お、おい……聞いたか今の音……!?」
「全方位から響いてくるぞ……! 数千……いや、万を超える大軍が谷を埋め尽くしてるんじゃないのか!?」
「前祝いだ……! 奴ら、明日の夜明けに俺たちを肉片一つ残さず皆殺しにする気で、勝利の祝宴を挙げてやがるんだ……!!」
逃げ場のない反響音は、深夜の一時、二時と時間が進むにつれて、盗賊たちの脳髄を休む間もなく削り取っていった。
弓兵たちは強風の中で弦を引き絞ったまま指先を痙攣させ、一歩も持ち場を離れられない。
目を閉じれば、今にも大軍が崖をよじ登ってくる幻聴が聞こえる。
横になろうとすれば、腹の底を揺さぶる酒盛りの重低音が石畳を震わせる。
猜疑心。恐怖。疲労。寒冷。
極限の緊張状態に置かれた五百人の武装集団は、戦端が開かれる前から、すでに精神の限界を迎えて錯乱寸前に追い込まれていた。
「頭……! 頼む、撃たせてくれ! 闇の中に向かって、魔導矢を一斉射撃させてくれ! このままじゃ狂っちまう!!」
半狂乱になった弓兵隊長がボルコフに縋り付く。
「莫迦を言えッ! 音だけで位置も分からん闇に矢を撃ち込めば、こちらの残弾と魔導射程を晒すだけだ! 耐えろ! 夜が明ければ敵の配置が見える……それまでの辛抱だッ!!」
ボルコフは怒鳴り散らしたが、自らの心臓も早鐘のように跳ね上がっていた。
(ソラ・ヴァルハイト……! なんという冷酷な男だ! 刃を交えず、言葉すら交わさず、ただ音の亡霊だけで五百人の軍勢を座敷牢に閉じ込め、精神をすり潰す気か……!!)
――そして、運命の深夜二時三十分。
天候すらも、怠惰なる怪物の「適当な一言」の前に完全に平伏した。
ヒュオオオオオオオオオオッッ――!!
北西の空が裂けたかのような突風が吹き荒れた。
大陸規模の局地寒波――『ヴェルデの青嵐』。
零下十度を下回る氷の突風が、ヴェルデ渓谷の最高峰、切り立った西の風穴を猛烈な勢いで通過した。
その山頂の岩肌。
夕刻、エレノアがソラの命ずるままに「火を点けず、ただ地面に転がしておいた」三本の旧式魔導発煙筒。
パキィィィン……!
突風が狭い風穴を通り抜ける際に発生した、凄まじい断熱膨張と大気の急減圧。
さらに、岩肌を高速で擦過する夜風が、大気中に漂う高密度の天然魔素を激しく励起させ、凄まじい摩擦熱を発生させた。
火など点ける必要はなかった。
劣化し、ひび割れていた発煙筒の外殻――劣化魔導銀が、その摩擦熱によって音もなく融解した。
シュウウウウウウ……。
火花も飛ばない。白煙も上がらない。
ただ、筒の内部に固形封入されていた古代の遺物――「百日眠の蒼鉱石」の超微粒子が、高熱で一瞬にして気化し、無色無臭の不可視のガスとなって噴出した。
そして、そのガスは――西の風穴から要塞へ向けて吹き下ろす、最大風速三十メートルの局地突風の気流に、一ミリの狂いもなく吸い込まれた。
「ん……?」
要塞の城壁の上。極限の寒さと恐怖で思考が焼き切れかけていた弓兵の一人が、ふと鼻を鳴らした。
風の匂いが、わずかに変わった。
火薬の匂いもしない。毒物の腐敗臭もない。ただ、春の陽だまりのような、どこか懐かしく温かな香気が、冷たい夜風の底にひとひら混ざっていた。
「……あ……れ……?」
弓兵の指先から、張り詰めていた弓が滑り落ちた。
全身の関節から、急速に鉛のように重たい脱力感が這い上がってくる。
「おい、寝るな……! 持ち場を……離れる、な……」
隣の戦友を揺り起こそうとした別の盗賊も、膝がガクガクと震え、そのまま石畳へ崩れ落ちた。
「な……何だ……!? 身体が……動か……」
一人、また一人。
要塞の銃眼に張り付いていた弓兵たちが、糸の切れた操り人形のように次々と崩落していく。
城壁の上だけではない。要塞の広間に控えていた抜刀隊も、バリケードの裏に潜んでいた槍兵も、全員が抗いようのない神話級の睡魔の津波に飲み込まれていった。
「毒……!? 違う……これは……催眠……!?」
司令塔のボルコフは、自らの太ももに短剣を突き刺そうとした。
激痛で意識を保とうとしたのだ。
だが、短剣を握る指先には、もはや羽毛一本を持ち上げる力すら残っていなかった。
ポロリと短剣が床に落ちる。
視界が急激に回転し、石畳が顔面に迫ってくる。
薄れゆく意識の淵で、ボルコフの脳裏に、すべてのピースが狂気的なまでの精度で噛み合った。
(……火を……点けなかった、だと……?)
城壁の外には、煙一つ立っていない。
敵の魔導感知器も、毒素警戒結界も、何一つ反応しなかった。
火を点けず、風穴の摩擦熱と局地寒波の気流を利用して、無色無臭の催眠素粒子を風下へ流し込んだのだ。
下流の酒盛りによる極度の精神疲労。
要塞に閉じ込められ、深呼吸を繰り返していた盗賊たちの呼吸器官。
そして、秒単位で計算された寒波の到達時刻と、自然発火の摩擦係数――。
(すべて……最初から……あの男の……盤面の上だったのか……)
ボルコフの隻眼から、一筋の戦慄の涙がこぼれ落ちた。
兵を一人も危険に晒さず。
血を一滴も流さず。
天候を、地勢を、敵の心理を、大気の摩擦すらも完全に掌握し、五百人の精鋭を赤子のように眠らせる。
(……神だ……。あれは、人間が敵対していい……存在じゃねえ……)
ドサリ。
『黒角の狂犬』と恐れられた歴戦の巨漢が、白目を剥き、安らかな寝息を立てながら床へと崩れ落ちた。
夜明け前のヴェルデ要塞には、静寂だけが支配していた。
防壁の上にも、広場にも、物見櫓にも、五百人の重武装集団が折り重なるように泥のように眠りこけている。
血の一滴も流れず、矢の一本も放たれず、帝国の難攻不落の要塞は、完全に沈黙した。
翌朝。
朝露が草木を濡らす頃、エレノアとバルガスは、二十人の新米冒険者たちを引き連れて要塞の大門をくぐった。
軋んだ音を立てて開いた鉄門の先には、武器を手放し、幸せそうな顔で眠りこける五百人の盗賊たちの山。
「……おいおいおい」
バルガスはバトルアックスを構えることすら忘れ、顎が外れそうなほど口を開けて立ち尽くしていた。
足元に転がるボルコフの巨体を見下ろし、ゴクリと唾を飲み込む。
「本当に……一人残らず、寝てやがる……。傷一つ負ってねえ。俺たちも、敵も……誰一人として血を流してねえぞ……!」
横に立つエレノアは、震える両手で手帳を胸に抱きしめ、天を仰いでいた。
眼鏡の奥の青い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
「……完璧です。一分の狂いも、一秒の遅れもなく……マスターの描かれた神話の軍略が、現実の事象を支配しました……」
エレノアは膝をつき、帝都の方角――ソラが今なお眠っているはずの公爵邸へ向けて、祈るように両手を組んだ。
「武力を用いず、ただ自然の摂理と人間の心理を指先一つで調律し、争いそのものを無へと帰す……。これこそが、我が主ソラ様の『深淵の怠惰』……! 争うことすら愚かしいと、世界を憐れむ絶対強者の慈悲なのです……!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
バルガスが狂喜の咆哮を上げ、拳を天に突き上げた。
「聞いたか野郎どもッ!! これが俺たちのマスター、ソラ様の力だァッ!! ソラ様万歳ッ!! 『銀翼の天秤』に栄光あれェッッ!!」
「「「ソラ様万歳ッ!! 神竜帝ソラ様ァッッ!!!」」」
二十人の新米たちが、そして目を覚まし始めた五百人の捕虜たちまでもが、その神業への底知れぬ畏怖に震え上がりながら、帝都の方向へ向かって平伏した。
――そして、その同じ時刻。
帝都ヴァルハイト公爵邸の寝室では。
「……ふわぁ……」
ソラが呑気に大あくびをしながら、羽毛布団の中で心地よく寝返りを打っていた。
「……よく寝た……。やっぱり人間、十四時間は寝ないと肌荒れするよな。……あいつら、北の渓谷でちゃんと酒飲めたかな。まあ、風邪引いてなきゃいいけど」
まさか、自分が「寒いから行きたくない」という理由だけで放った適当な言葉が、帝国の歴史に刻まれる伝説の無血開城劇を生み出し、五百人の猛者たちを完全な信者へと仕立て上げたことなど――。
目覚めの林檎水をだるそうに飲むソラには、知る由もなかったのである。




