怠惰の極致、神域の謀略(承前)
膝の上に乗せられた辞書のような分厚さの作戦書から、ソラはじっと視線を外した。
紙が放つインクの匂いすら頭痛の種だった。
羊皮紙の縁には、エレノアが几帳面な極小文字で書き連ねた補足事項がびっしりと並んでいる。
『敵弓兵の交差射線域』『魔導地雷の誘爆連鎖予測半径』『風向きによる魔素停滞域の推移』――。
(……目が滑る。一文字も脳に入ってこない。なんで朝から他人の立てこもり事件を僕が解決しなきゃいけないんだ。正規軍の仕事だろ、こんなの……)
ベッドの上でソラが心底だるそうに虚空を見つめていると、横で構えていたバルガスが、ごくりと喉を鳴らした。
床を軋ませて身を乗り出し、漆黒の戦斧の柄をぎしりと鳴らす。
「マスター。ヴェルデ要塞を力押しで落とすなら、俺が先陣を切って地雷原を跳び越え、バリケードごと鉄門を叩き割るしかねえ。だが……背後の弓兵どもに蜂の巣にされるリスクは跳ね上がる。正面突破の第一案と、断崖からの強襲を狙う第二案……どっちでいくんで!?」
「待ちなさい、バルガス。脳筋の特攻など下策の極みです」
すかさずエレノアが冷徹な声で遮った。眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、手帳のページを鋭くめくる。
「要塞の周囲は風属性の魔導結界で覆われており、遠距離からの大質量魔法はすべて拡散・無力化されます。ならば第三案――工兵部隊による地中からの坑道掘削で、地下水路を経由して敵中枢へ毒煙を流し込むべきです。工期に三週間、ギルドの保有資金の二割を消費しますが、損害は最小限に抑えられます」
「三週間だと!? その間に人質が全員ミンチにされちまうだろうがッ!」
「人質交渉のための外交ルートも既に構築中です! 感情論で吠える暇があるなら数字を見なさい!」
二人の激論が、ソラの耳元でガンガンと反響する。
声がでかい。熱量が重い。何より、このままでは議論が平行線をたどり、夕方までこの二人が部屋に居座り続けるのは明白だった。
(……うるさい。帰れ。頼むから今すぐ出ていってくれ)
ソラは、掛け布団を首元まで引き上げながら、心の中で深く呻いた。
正面突破? 痛いのは嫌だ。
断崖クライミング? 疲れるから論外だ。
三週間の地下トンネル掘削? 三週間もこんな面倒な会議に付き合わされたら、こっちの精神が死ぬ。
(一歩も外に出たくない。血も見たくない。寒いのも嫌だ。……現場で適当に時間だけ潰して、勝手に事件が終わってくれないかな)
ソラの視線が、机の上に無造作に広げられた渓谷の全体地図へとふらりと落ちた。
ヴェルデ渓谷の本道から遥か五キロ下流。
要塞の防衛網からも、魔導地雷の敷設エリアからも完全に外れた、ただの干上がった泥地。水深は足首ほどしかなく、切り立った崖に囲まれた、何の戦略的価値もない行き止まりの湿地帯だ。
(あそこなら……敵の矢も届かない。地雷もない。何もないただの広い河原だ)
ソラは、だるそうに右手を布団の隙間から引っ張り出した。
人差し指を伸ばし、その何もない干潟のど真ん中を、トントンと気のないリズムで叩いた。
「……バルガス」
「は、はッ!」
巨漢が背筋を跳ね上げ、直立不動になる。
「戦闘部隊は全員寝かせておけ。甲冑を着る必要もない」
「……へ? 寝かせておく……?」
バルガスが目を白黒させた。
「出撃準備を整えてる精鋭たちを……全員、待機させろってんですかい!? 敵は五百の重武装集団だぞ!?」
ソラは心底鬱陶しそうに、半眼のまま言葉を垂れ流した。
頭に浮かんだ「最も省エネで、誰も怪我をせず、自分を巻き込まない時間稼ぎ」を、そのまま吐き出す。
「第三補給部隊の新米……そう、荷物持ちのガキどもを二十人くらい連れていけ。で、ギルドの地下倉庫に転がってる、一番安くて不味い酒樽を五十個くらい積んで、そこに並べろ」
「さ、酒樽……? 荷物持ちの新米に、酒を……?」
「ああ。あとは焚き火でもして、適当に干し肉でも炙ってろ。夜になったら酒をあおって、下品な歌でも歌いながら夜通し大声で騒いでろ。……それ以上、何かする必要があるか? アホらしい」
(寒い中で真面目に突撃するなんて馬鹿げてる。あいつらも酒でも飲んで適当に時間を潰していればいい。寒波が来て敵もやる気をなくしたら、勝手に解散するだろ)
「ば、馬鹿な……! 敵の要塞の前で、新米どもに酒盛りをさせろってのかよ!? そ、そんなことをして一体何になるってんだ!?」
バルガスが理解の限界を超えて頭を抱え、叫びそうになった――その瞬間だった。
「――っ!!」
横で羽ペンを握りしめていたエレノアの息が、喉の奥で鋭く凍りついた。
眼鏡のレンズの奥で、青い瞳が異様な光を放ち始める。
「……ま、さか……!?」
エレノアの手が激しく震え、羽ペンが羊皮紙の上を狂気じみた速度で滑り始めた。
「バルガス、貴方はこの地図の『地勢と音響の連動構造』が見えていないのですか!?」
「あぁ!? 音響だぁ!?」
「ヴェルデ渓谷は、上流の要塞から下流に向かってラッパ状に広がる天然の巨大反響洞です! 特にマスターが指し示されたこの窪地……ここは玄武岩の断崖が音波を中央へ収束させ、上流へ向けて数十倍の指向性メガホンとして反響させる『鳴き砂の咽喉』……!
そこに二十人の部隊を配置し、大声で酒盛りをさせれば……要塞の中に籠もる盗賊たちには、『数千の包囲軍が勝利を確信し、前祝いの宴を始めながら夜襲の機を伺っている』という、逃げ場のない心理的重圧となって届くのです……!!」
「な……なんだってぇぇぇッ!?」
バルガスが顎が外れそうなほど口を開け、目を剥いた。
「それだけではありません!」
エレノアの興奮は留まる気配を見せず、白皙の頬を朱に染めながら熱弁を振るう。
「敵首領のボルコフは元・軍人……猜疑心の塊です! 自軍の要塞の鼻先で繰り広げられる『無防備極まりない大酒盛り』を見せつけられれば、百パーセントこう深読みします! 『これは明らかな罠だ。打って出れば左右の断崖から伏兵に挟み撃ちにされる』と!
結果、敵は一歩も要塞から出られず、夜通し鳴り響く大歓声の幻影に精神をすり潰され、一睡もできずに極限の猜疑心で自滅していく……! 戦闘部隊を一人も危険に晒さず、敵の指揮系統を根底から麻痺させる、神話級の心理包囲陣……!!」
バルガスは全身に鳥肌を立て、太い首筋から滝のような脂汗を流してソラを見つめた。
「お、おいおいおい……! 戦闘部隊を一歩も動かさず、新米二十人と安酒五十樽で……五百人の重武装集団を金縛りにするってのかよ……!? なんだその悪魔みてえな采配は……!!」
一方、ソラは――。
(……なんかすごい早口でまくし立ててるけど、全然頭に入ってこないな……。早く終わらないかなこれ……)
エレノアの甲高い声を子守唄代わりに、意識を微睡みの海へプカプカと漂わせていた。
だが、まだ目の前にもう一人、重大な障害が残っている。エレノア自身だ。この生真面目すぎる監査官を部屋から追い出さない限り、本当の安眠は訪れない。
ソラは、だるそうにエレノアへ顔を向けた。
「……おい、エレノア」
「は、はいッ!!」
エレノアが背筋をピンと伸ばし、殉教者のような熱い眼差しで直立した。
「お前は、ギルドの地下倉庫にある……一番古くてホコリを被ってる発煙筒を三本持ってこい。で、西の風穴の頂上に置いてこい」
「……発煙筒を、三本……?」
エレノアが怪訝そうに小首を傾げる。
「ああ。火は点けるなよ。絶対に点けるな。ただ地面に転がして、置くだけだ」
「火を……点けない……? 点火せずに、ただ山頂に置くだけ、ですか……?」
「そうだ。……もういいだろ。僕は死ぬほど眠いんだ。二人とも、今すぐこの部屋から出ていけ」
ソラはそれ以上一言も発さず、掛け布団を頭の天辺まで完全に引き上げ、毛布の塊となって丸まった。
完全なる職務放棄。これ以上一言でも話しかけたら絶対に返事しないぞという、固い拒絶の意思表示。
だが――。
エレノアはその場に崩れ落ちそうになる膝を、執務机に手をついて必死に支えていた。
その瞳孔は限界まで見開かれ、唇が小刻みに痙攣している。
「……あ、あ、ああ……」
「ど、どうしたエレノア!? 発煙筒を置くだけって、一体何の冗談だ!?」
狼狽するバルガスに対し、エレノアは震える指先で窓の外――北西の空を指差した。
「……気圧よ。バルガス、昨夜の天候観測記録を思い出して……!」
「あ? 天候?」
「今夜未明、北方から大陸規模の局地寒波――『ヴェルデの青嵐』が吹き荒れます。その突風が西の風穴を通過する際、断熱膨張によって凄まじい気圧低下と、大気中の魔素による高速摩擦が発生する……!
そこに、放置された旧式の魔導発煙筒があれば……火など点けずとも、大気摩擦熱によって外殻の劣化魔導銀が自然融解し、内部の催眠鉱石が気化して風下へ散布される……!!」
「な……ッ!?」
「無着火だからこそ、敵の哨戒網には絶対に引っかからない! 煙も立たず、火花も飛ばず、音も匂いもない……! 吹き下ろす夜風そのものが、五百人を一瞬で眠らせる『不可視の神気』へと変貌するのよ……!!」
エレノアは両手で顔を覆い、感極まった涙を眼鏡の隙間から零した。
「火を点ければ敵の魔導感知に察知される。だから『火を点けるな』……!
突風の通過時刻、大気中の魔素摩擦係数、旧式発煙筒の金属疲労度……そのすべてが、マスターの頭の中では秒単位で計算されていた……!
私たちは……私たちは、神の領域の軍略を目の当たりにしているのよ……!!」
バルガスは息を呑み、ベッドの上で丸まっている「毛布の塊」を見つめた。
そこには、世界を揺るがす絶対の覇気など微塵も感じられない。ただの、朝寝坊を貪る無気力な少年の姿があるだけだ。
だが――それこそが、何よりも恐ろしかった。
「……『それ以上、何かする必要があるか?』……かよ」
バルガスがゴクリと唾を飲み込み、深々と頭を垂れた。
「何千もの軍勢を動かす必要もねえ。血を一滴も流す必要もねえ。ただ酒を飲み、風の悪戯を一つ仕掛けるだけで……難攻不落の要塞を丸ごと飲み込む。これが……これが『無敵』って奴の戦い方かよ……!!」
「急ぎましょう、バルガス!」
エレノアが涙を拭い、鋭敏な軍略家の顔へと戻った。
「マスターの崇高なる策動、一秒の狂いも許されません! 私みずから風穴へ発煙筒を運びます! 貴方は下流の二十人を手配しなさい!」
「おうよッ!! 誰一人として死なせねえ、マスターの描いた完全勝利の絵図……完璧に仕上げてやるぜッ!!」
バタンッッ!!
寝室の扉が、凄まじい気迫とともに閉まった。
二人の荒々しい足音が、廊下の彼方へと猛スピードで遠ざかっていく。
静寂が、寝室に戻った。
(…………ふぅ)
毛布の中から、ソラがおずおずと顔を出した。
部屋にはもう誰もいない。邪魔な文字だらけの書類だけが、ベッドの脇に放置されていた。
(……やっと行った。なんか喚いてたけど、まあいいや。北の渓谷まで行って酒飲んで帰ってくるだけなら、あいつらも怪我しないだろ)
ソラは満足げに枕の位置を整え、再び目を閉じた。
柔らかな羽毛が頬を包み込み、心地よい睡魔が全身を包み込んでいく。
(さーて……夕方まで、誰にも邪魔されずに寝るぞ……)
――まさか、自分が適当に思いつきで口走った「酒盛り」と「ゴミ捨て」が、今夜、五百人の精鋭盗賊たちを阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とすことになるとは、ソラ自身、これっぽっちも思っていなかった。




