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幕間其の二:魔導結社『深淵の瞳』の戦慄

帝都の地下、一般市民の立ち入りが固く禁じられた禁呪街。

三大ギルドの三つ目、古代魔法と魔導兵器の研究を独占する狂気の学者集団『深淵の瞳(アビス・アイ)』の総本山。

青白い燐光が揺れる実験室で、最高指導者たる大魔導士バルトロメウスが、水晶球に映し出されたソラの姿を凝視していた。

長い白髭を蓄え、百歳を超えるこの老魔導士は、帝国内で最も神話に近いとされる男だった。

「……あり得ん。あり得んのじゃ……」

水晶球がパキリと音を立てて細かな亀裂を走らせる。

バルトロメウスの傍らに控えていた高弟たちが、狼狽して叫んだ。

「総帥!? 遠隔視の水晶が耐えきれないと……!? たかが少年の映像を投影しているだけですぞ!」

「愚か者めが、何も見えておらんのか!」

バルトロメウスが怒声混じりに叫び、杖を床に打ち鳴らした。

「この男の立ち姿を見よ! 重心がどこにも存在せん! 天地自然の理と完全に同調し、風が吹けば柳のように流れる。武芸の達人が一生をかけて目指す『空(くう)』の境地……それを、この若造は息をするように体現しておる!」

老魔導士の眼窩の奥が、歓喜と絶望に爛々と光る。

「さらにあの魔力の制御じゃ。手首のツボ一つを突き、紙切れを飛ばして結界を破る……。莫大な魔力をド派手に撒き散らすなど三流のすることよ。真の化け物とは、極限まで研ぎ澄まされた水滴一滴で、山を穿つ者を言うのじゃ!

ヴァルハイトの小僧……奴の体内を巡っておるのは、人間が扱ってよい魔力ではない。神の領域……否、太古の巨竜が凝縮されたような『不可視の特異点』じゃ!」

高弟たちが息を呑み、顔を見合わせる。

「では……我らが進めている『ヴェルデ渓谷』の盗賊連合への武器横流し計画は……」

「中止じゃッ! 即刻中止せい!!」

バルトロメウスは唾を飛ばして怒鳴りつけた。

「奴が『銀翼の天秤』の頭に座ったのじゃぞ!? あの底知れぬ怪物の目が光っている前で小細工など弄してみろ、手拍子一つでこの地下要塞ごと消し飛ばされるわ!!」

幕間其の三:帝宮・深奥の密議

同じ刻、帝都の中心に君臨する巨大な皇宮。

歴代皇帝の肖像画が並ぶ「紫金の間」には、帝国軍の最高幹部たちが集結していた。

円卓の上座に座るのは、帝国宰相カルル・フォン・リヒター。

冷徹な政治手腕で帝国を牛耳る男が、一枚の報告書を指先で弾いた。

「……騎士団第一練兵場でのガレスの敗北。そして今朝のギルドマスター就任劇。軍部はこの事態をどう見ているのかね、大将軍」

円卓の反対側、全身に勲章を佩用した筋骨逞しい老将――帝国軍総司令官のゼノス大将軍が、重々しく腕を組んだまま唸った。

「……ヴァルハイト公爵に問いただしたが、『倅が勝手にやったことだ』と惚けおった。だが、あり得ん。あれは偶然や若気の至りで出せる芸当ではない」

ゼノスは自らの太い首筋を撫でた。戦場を何十年も生き抜いてきた野生の勘が、骨の髄から警鐘を鳴らしていた。

「試験官のガレスは、一撃で魔力循環を遮断されてから丸一日、指一本動かせなんだ。あの精密すぎる魔力撃……もし我が軍の重装歩兵連隊に撃ち込まれれば、鎧ごと中身の神経を焼き切られて全滅だ。兵法において最も恐ろしいのは、兵力でも火力でもない。『こちらの攻撃が一切当たらず、相手の一撃が全て急所を穿つ』……完全なる個の武だ」

「つまり、軍部としても敵に回したくない、と?」

宰相が目を細める。

「敵に回すだと? 冗談ではない」

ゼノス大将軍は苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。

「あのような規格外、軍の一軍団をぶつけたところで壊滅させられるのが関の山だ。幸いにも、奴はギルドマスター就任の際、『自分は部屋で寝ていたいだけだ』と言い放ったそうだな」

「ええ。周囲の報告によれば、極度の怠惰、あるいは無気力に見える言動が多いようですが……」

「莫迦めが」

ゼノスが低く笑った。その瞳には深い警戒が宿っていた。

「『寝ていたい』だと? それはつまり、『帝国が余計な真似をして俺の安寧を乱すなら、いつでも国ごと叩き潰すぞ』という、国家に対する無言の脅迫状だ。触れてはならんのだよ、あの男には。ヴァルハイトの怪物が眠っているうちは、帝国は平和だ。だが、ひとたび本気で起こせば……帝都の地図が書き換わるぞ」

宰相カルルは深く息を吐き、静かに頷いた。

「……宜しい。直ちに皇帝陛下へ上奏する。『銀翼の天秤』新マスター、ソラ・ヴァルハイトに対しては、いかなる軍事的・政治的干渉も行わず、最大限の治外法権と便宜を図るように、とな」

密室の重鎮たちが、一様に蒼白な顔で沈黙を共有した。

帝都全土が、ソラという未知の天災を前にして息を殺し、戦々恐々としながらその次の一手を注視していた。

そして、まさにその時――。

ヴァルハイト公爵邸の豪華な寝室では、当の「生ける天災」が、よだれを垂らしながら羽毛布団に顔を埋めていた。

「……むにゃ……あと五分……いや、あと半日寝かせて……」

世界中を震撼させていることなどこれっぽっちも知らず、ただ「朝食のスープが冷める前に起きられるか」という極小の葛藤と戦いながら、ソラは気持ちよさそうにいびきをかいていた。


----------------------------------------



ヴァルハイト公爵邸の最上階。

南向きの巨大な窓から差し込む陽光が、天蓋付きのキングサイズベッドを燦々と照らしていた。

「……ん、んぅ……」

羽毛布団の山から、ボサボサの黒髪が這い出てくる。

ソラは重たい目蓋を擦りながら、深々とした欠伸を一発かました。時計の針は既に正午を回っている。

(よく寝た……。やっぱり人間、十二時間は寝ないと頭が回らないな)

昨日までの悪夢のようなドタバタが嘘のように静かな部屋。

試験官を適当にいなして、ギルドの変な筋肉男と眼鏡女に適当なハンコを突き返して帰ってきたのだ。これで「やる気のない無能」として見限られ、晴れて平穏無事な引きこもり生活に戻れたはずだった。

「よし、起きて冷たい林檎水でも飲んで、また昼寝するか……」

満足げに伸びをしながら、ソラはベッドから足を下ろした。

だが、その足先が――床に敷き詰められた極上のペルシャ絨毯ではなく、ガサリと音を立てる「硬い紙の山」にめり込んだ。

「……痛っ。なにこれ?」

目を凝らしたソラは、その場で完全に凍りついた。

寝室の床が、見えない。

それどころか、部屋の半分が天井近くまで積み上がった新聞の束と、金銀の紐で几帳面に縛られた分厚い羊皮紙のバインダーの山で埋め尽くされていた。

「……は?」

呆然と立ち尽くすソラの足元で、一番上に置かれていた新聞の見出しが、特大の極太フォントで目に飛び込んできた。

【帝都日報・特大号外】

『神竜の化身、ついに目覚む!! ヴァルハイト公爵令息ソラ様(19)、銀翼の天秤ギルドマスターに電撃就任!』

『特級暗殺者三名を紙切れ数枚で粉砕! 帝都を震撼させた“神話のゼロ・スタンス”とは!?』

(……へ?)

ソラは瞬きを三回した。

頭の中の思考回路が完全にショートする。

(し、神竜……? ゼロ・スタンス……? なにこれ、新手の風刺小説? 僕の名前が書いてあるんだけど……?)

震える手で別の新聞を拾い上げる。

【週刊冒険者ギルド通信】

『空前絶後の十九歳! あの武闘派バルガスと鉄の女エレノアが揃って平伏!』

『新マスターの第一声は「全部お前たちでやれ」――全ギルドを震撼させた、絶対強者による冷徹なる統制宣言!!』

「い、意味が分からない……!!」

ソラは頭を抱え、ベッドの上に逆戻りしてシーツを引っ張り上げた。

「なんで!? 僕、昨日断ったよね!? 『興味ない』って言ったよね!? 『部屋で寝ていたい』ってハッキリ言ったよね!? なんでそれが『冷徹なる統制宣言』になるの!?」

現実逃避のために布団を頭から被ろうとしたその時、寝室の扉がノックもなしに音もなく開いた。

「失礼いたします、マスター・ソラ」

澄み渡るような冷徹な美声とともに現れたのは、銀髪をきっちりと結い上げ、完璧な仕立てのスーツに身を包んだエレノアだった。

後ろには、なぜか冷や汗をだらだらと流しながらガチガチに直立不動の姿勢を取っているバルガスが控えている。

「……え、エレノアさん? なんで僕の寝室にいるの? ここ僕の実家なんだけど……」

布団の中から顔だけ出して引き攣った声をあげるソラに、エレノアは眼鏡のブリッジを押し上げ、深々と一礼した。

「公爵閣下には既にご許可をいただいております。『愚息を一人前の漢にしてやってくれ』と、合鍵ごと執務権限を委託されました」

「親父ィィィィッッ!!」

ソラが内心で絶叫する横で、エレノアは執事のように優雅な手つきで、部屋の中央にそびえ立つ羊皮紙の山を指し示した。

「本日の第一陣です。帝国全土から届いた緊急案件、三大貴族からの調停要請、および周辺ダンジョンの調査申請書、計三百四十二件。すべて選別を終え、マスターの決裁をお待ちしております」

「さ、三百……?」

「なお、こちらは最優先の特急案件です」

エレノアがトスと音を立ててソラの膝の上に置いたのは、真紅の封蝋が施された辞書のように分厚い書類だった。

「昨日ご報告申し上げた『ヴェルデ渓谷』の盗賊連合五百名による要塞占拠事件。現在、帝室からも『新マスターの手腕を見せてもらおう』と期待の親書が届いております。我が精鋭部隊の投入計画書、第一案から第七案までございます。どれを実行に移すか、あの一瞬で暗殺者を仕留めた神がかりの戦術眼で、ご指示を仰ぎたく」

横でバルガスが、ごくりと唾を飲み込みながらソラを見つめていた。その巨体は、まるで凶暴な肉食獣が絶対の捕食者を前にしたかのように、微かに武者震いしている。

(……この眼差しだ)

バルガスは内心で身震いしていた。

(ベッドから起き抜けだというのに、瞳の奥に一切の動揺がねえ……! 三百件を超える難題を前にして、眉一つ動かさず、布団に包まったまま完全に力を抜いている……! まるで『この程度の雑事、私の眠りを妨げるに値せん』とでも言わんばかりの圧倒的な覇気……!!)

一方、ソラは――。

(……死ぬ。これ、サインしたら僕の人生終わる)

膝の上の分厚い書類の重み。

文字がびっしりと並んだ羊皮紙。

「五百人の盗賊」「要塞」「帝室の期待」――どれ一つとして、ソラの平穏な睡眠ライフと両立できる単語が存在しない。

現場に行くのも嫌だ。

戦略を考えるのも頭が割れそうに面倒だ。

そもそも、文字を読むことすらだるい。

ソラは冷汗を必死に抑え込みながら、表情筋を完全に脱力させた。

幼少期の訓練のせいで、極度の拒絶反応が出ると「完全に感情を遮断した無表情」になってしまうのだ。それが二人には「深淵を湛えた氷の静止」に見えていることなど露知らず。

「……エレノア」

低く、気だるげな声が寝室に落ちた。

寝起きで喉が掠れていただけなのだが、室内の空気が一瞬でピンと張り詰める。

「はっ!」

エレノアが背筋を伸ばす。

「これ、全部……僕が読まなきゃダメなのか?」

(文字見るだけで吐きそうなんだけど)

エレノアは息を呑んだ。

その青い瞳に、凄まじい勢いで「深読みの光」が宿っていく。

(……『全部読まなきゃダメなのか』……!?

そうか……! この御方にとっては、こんな下々の者が書いた浅薄な作戦書など、目を通す価値すらないゴミ屑同然……!

戦術の初動から結末まで、すでにこの御方の頭の中には『唯一無二の最適解』が描かれているのだわ……!!)

「め、滅相もございません……! 浅学な私たちの拙い案で、マスターの貴重な思考を煩わせようとした非礼をお許しください……!」

エレノアは床に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。

「……えっ?」

(いや、普通に読みたくないって言っただけなんだけど)

困惑するソラを余所に、バルガスが身を乗り出して尋ねてくる。

「マスター! なら、どう攻めるんで!? ヴェルデの隘路には魔導地雷が敷き詰められてやす! 正面から叩き潰すか、それとも夜陰に乗じて崖上から急襲を仕掛けるか……!?」

二人の猛烈なプレッシャーが、ベッドの上のソラを押し潰さんばかりに迫る。

早くこの二人を部屋から追い出したい。

外は天気がいい。窓から涼しい風が入ってきている。

北の渓谷? 寒くて風が強い場所に突撃?

(……行きたくねえええええええ!! 一歩も部屋から出たくない!! なんでわざわざ危険なところに突っ込むの!? 適当に下流で酒でも飲んでサボってればいいじゃん!!)

ソラは心底うんざりしたため息をつきながら、書類の端に載っていたヴェルデ渓谷の地図の「一番安全そうで、何もない場所」を、だるそうに指先でツンと突いた。

――ここから、あの「神がかりのサボり采配」が炸裂することになる。







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