第6巻 『深淵の怠惰』
第一章:体幹支持の神託と、全次元抱き枕代理戦争
一:弛緩した肉体と、腕の置き場喪失事件
全宇宙の軍事力と最新技術を「二十四時間完全流動食サイクル」に注ぎ込ませ、全次元の知性体から争いの火種を完全消滅させてから三日。
ヴァルハイト公爵邸の最上階寝室は、完全なる沈黙と平和に包まれていた。
咀嚼筋が生まれたての赤子レベルまで退化し、顎の力を完全にオフにしたソラ・ヴァルハイトは、世界樹ベッドの真ん中で、左側を下にして横たわっていた。
胃袋は、天界の蜜、魔界のミルク、雲海魚介の黄金出汁、そして不死鳥のフレンチトーストによって寸分の狂いもなく満たされている。
血糖値は完璧。室温は十八度。湿度五十二パーセント。
本来ならば、このまま意識を飛ばして「七度寝」へと滑り込むだけの、何の障害もない黄金の二度寝ルートのはずだった。
――だが。
(……なんか……落ち着かない……)
ソラは、掛け布団の中でわずかに眉をひそめた。
横向きで寝る人間が、必ず一度は直面する「骨格構造上の不条理」にぶち当たっていたのだ。
横向きに寝ると、どうしても「上の腕」と「上の足」のやり場に困る。
胸の前に腕を垂らせば肩が内側に巻き込まれて窮屈になり、両足を重ねれば膝の骨同士がゴツゴツ当たって地味に痛い。
何より、完全に脱力しきった上半身の重みを支えるものが前方になく、胸元にぽっかりと「虚無の空間」が空いてしまっているのだ。
(……腕を……投げ出したい……。
足を……上からボフッと乗せて、体重を預けたい……。
硬いやつは嫌だ。肋骨に当たって痛い。
綿がスカスカの軽いやつもダメだ。抱きついた瞬間にペシャンコになって支えにならない……。
適度な重量があって……抱き心地がよくて……表面がひんやりしてて……ギュッと抱きしめても形が崩れないやつ……)
ソラは、だらしなく半開きになった唇から、寝息とともにその「怠惰極まる骨格アライメントの愚痴」をポロリと漏らした。
「……んぅ……なんか……抱き心地のいい……適度にひんやりして……重みのあるクッションが欲しい……。
腕と足を……だらーんと乗っけられるやつ……。
そこらへんにある適当なやつでいいから……持ってこいよ……zzz」
ただの抱き枕リクエスト。
無印良品で「体にフィットするソファ」か「ひんやり冷感抱き枕」でも買ってきて放り投げておけば五秒で解決する、単なる寝相の悩み。
しかし、その寝言をベッドサイドで聞き留めた筆頭監査官エレノアの眼鏡が、カチリと音を立てて青白く発光した。
「――全次元、至高神託コード・抱擁発令ッッッ!!!!」
エレノアは万年筆を床に突き刺し、全次元超空間ホットラインを開放した。
「マスターの第五神託を受信!
『抱き心地のいい、適度にひんやりして重みのあるクッション』! そして『腕と足をだらーんと乗っけられるやつ』!
これは全宇宙に対する、【至高の絶対添い寝権争奪令】です!
マスターの至高の体幹をミリ単位の歪みもなく支え、寝返りの衝撃を完全吸収する究極のクッションを献上しなさい!
ただし、マスターの肌に汗を一滴でもかかせた素材、あるいは抱きしめた際に肋骨に一ミリの不快圧力を与えた愚か者は……その銀河ごと、マスターの寝返りの下敷きにして圧殺消滅いたしますわッッ!!」
「「「我が肉体こそが、至高の抱き枕ンンンッッッッ!!!!」」」
公爵邸の周囲に控えていた天界、魔界、エルフ、聖皇国の首脳陣およびヒロインたちが、一斉に理性と着衣をかなぐり捨てて立ち上がった。
二:狂乱のプレゼンテーション(生体クッション選考会)
「そこらへんにある適当なクッション」という至高神の言葉は、全次元の権力者たちを「いかに自分がソラ様の抱き枕として機能的に優れているか」を競い合う地獄の品評会へと駆り立てた。
【天界陣営:主神ゼウスライラの神聖冷感肉体論】
公爵邸の扉を蹴破って現れたのは、黄金の甲冑を脱ぎ捨て、純白の冷感シルクローブを纏った主神ゼウスライラであった。
「退けい、下等生物どもッ!」
ゼウスライラは自らの胸板をバンバンと叩きながら、血走った目で叫んだ。
「マスターは『適度にひんやりして重みがある』と仰せだ!
我が神体は、天界の霊峰の万年氷晶を骨格に宿し、体温は常時十五度を完全維持!
さらに神聖筋肉の密度は鋼鉄の十倍、でありながら表面の脂肪層は天界の白金豚の如くモチモチと柔らかい!
神竜帝の腕と足を二十四時間支え続ける重量と耐久性において、この主神の肉体を超えるものなど全宇宙に存在せぬわッ!!」
【魔界陣営:魔王ディアボロスの超柔軟スライム変態論】
「ガハハハハ! 筋肉なんぞ抱いて寝られるか鳥頭がァッ!!」
床を割って現れた魔王ディアボロスは、漆黒の巨躯をドロドロと液体化させながら嘲笑した。
「ソラ様が求めておられるのは『抱き心地』だ!
見よ、我が魔界秘伝の肉体変異術!
全身を骨なしの超高密度ゲル状スライムへと相転移させ、ソラ様の四肢の形状に合わせて分子レベルで包み込む【形状記憶・冥府クッション】!
内部には地底の冷却ガスを循環させ、抱きしめた瞬間に極上の吸熱反応を引き起こす!
俺の腹の上にソラ様の足を乗せたまえ! 永遠に沈み込む底なしの快楽を教えてやるぞォッ!!」
【エルフ陣営:始祖樹海の植物性超反発マット】
「不潔ですわ、筋骨隆々の男やドロドロの魔族をマスターの寝室に転がすなど!」
防衛指揮官ルーディスが、緑の髪を振り乱しながら割って入った。
両手に抱えているのは、世界樹の葉から抽出した天然ラテックスを編み上げた巨大な抱き枕。
「我が樹海が誇る【世界樹の超反発抱き柱】!
中身は樹齢五千年の霊草の種子! 抱きしめる力に応じて反発力を自動調整し、ソラ様の背骨のアライメントを完全な直線へと矯正いたします!
さらに、抱きつくだけで自律神経を整えるマイナスイオンを毎秒五億個放出!
マスターの腕を預けるべきは、大自然の静寂そのものですわッ!!」
【聖皇国陣営:セレスティーナの直訴】
「皆様、醜い言い争いはおやめなさい」
純白の修道服の前をはだけ、大十字架を背負ったセレスティーナが、神々しいまでの狂気の笑顔で進み出た。
「マスターが求めておられるのは、無機質な枕でも、筋肉質な神でもありません。
神への信仰と、無条件の従順さを兼ね備えた、生きた聖女の温もりですわ。
私の体温は、マスターの神域の呼吸と同調して自在に冷却・昇温が可能。
マスターが右足を私の腰に乗せ、左腕を私の首筋に回されるその瞬間こそ、聖皇国数万年の祈りが成就する奇跡の刻……!
さあ、エレノア! 直ちに私をマスターの世界樹ベッドへ搬入なさいッ!!」
「却下です、発情した退魔聖女」
エレノアが万年筆の先でセレスティーナの額を突き戻した。
「貴女の心拍数は現在毎分百四十。そんな高周波で脈打つ生肉をマスターの胸元に置けば、振動でマスターの睡眠深度が零点五パーセント低下します。論外です」
「な……なんですってェッ!?」
三:ベッドの上の窒息危機と、無意識の払いのけ
寝室の外で繰り広げられる、全次元の首脳陣による「誰が抱き枕になるか」の血みどろのプレゼン合戦。
だが、その時。
世界樹ベッドの上で、ソラの不快感は限界に達していた。
(……なんか……部屋の外が……暑苦しい……)
防音壁を透過して伝わってくる、ゼウスライラの神聖熱気、ディアボロスの魔気、セレスティーナの異常な信仰オーラ。
それらが混ざり合い、寝室の気圧がジワジワと上昇していたのだ。
何より、抱き枕が来ない。
腕の置き場がない。
左肩が内側に巻き込まれて、胸が圧迫されて息苦しい。
(……息が……しづらい……。
胸の上が重い……。
誰か……この胸の前の空間を……埋めてくれ……。
いや、違う……邪魔な熱気を……どっかへやれ……)
ソラは、だるそうに右腕を持ち上げた。
そして、ベッドサイドの棚の手前に引っかかっていた、昨冬に使ったまま放置されていた「真鍮製の細長い湯たんぽ(※中身は空っぽでカランカランに冷え切っている)」に指先が触れた。
冷たい。
金属特有のヒンヤリとした感触。
そして、適度な重み。
(……あ、これでいいや)
ソラは、その空っぽの真鍮製湯たんぽを、寝ぼけ眼のまま無造作に引き寄せた。
そして、胸の前に抱え込み、右腕をだらーんとその上に乗せ、右足をボフッと覆いかぶせた。
――ピトッ。
「……あ〜〜……これこれ……。この冷たさと……適度な硬さ……」
ソラは満足げに息を吐き、湯たんぽに顔をスリスリと擦り付けた。
求めていたのは、神の肉体でも、悪魔のスライムでも、聖女の温もりでもない。
ただの「冷え切った金属の筒」だったのだ。
だが――。
ソラが湯たんぽを抱きしめた、その瞬間。
幼少期の地獄訓練により、ソラの関節は「抱え込んだ物体の重心と自らの体幹を完全に同調させる」ように呪われていた。
さらに、ソラの体内に眠る、スプーン一杯の極小魔力。
それが、「外部からの暑苦しい気配をすべて遮断し、この冷たさを永遠に維持したい」という究極の拒絶反応と同調。
真鍮の湯たんぽの内部空間へ、ソラの極小高密度魔力がズドォォンッ!!と逆流した。
キィィィィィィィィィィィィンッッッッ!!!!
湯たんぽが、神代の魔導触媒へと強制変質。
外気中の熱エントロピーを強制的に吸い尽くし、周囲十メートルを絶対零度へと叩き落とす【超局所的・絶対保冷ブラックホール】が、ベッドの上でパカリと口を開けたのだ!
四:冷気放射と、神魔の完全粉砕
バキバキバキバキバキッッッ!!!
「――ぎゃああああああああっっ!?」
寝室の扉の隙間から覗き込んでいたゼウスライラ、ディアボロス、セレスティーナ、ルーディスの四人が、一斉に悲鳴を上げて吹き飛んだ。
寝室から噴出してきたのは、ソラの抱える湯たんぽから漏れ出た「絶対零度の拒絶波動」。
ゼウスライラの自慢の神聖筋肉が一瞬でカチコチに凍結して霜柱が立ち、
ディアボロスのスライム肉体がマイナス百度の極冷気でカチンコチンの氷細工へと凝固し、
セレスティーナの修道服が凍りついてパリパリに割れ、
ルーディスの世界樹抱き枕が凍結破砕して粉々になった。
「ば……馬鹿な……ッ!?」
ゼウスライラが、凍りついた顎をガチガチと鳴らしながら廊下の床に這いつくばった。
「我が神体を……悪魔の肉体を……聖女の抱擁すらも……一瞬で凍結破砕しただと……!?
あのお方が抱きしめておられるのは……な、なんだあの禍々しい楕円形の金属体はッ!?」
エレノアが、凍りつく廊下の中で、冷酷に眼鏡を押し上げて寝室の隙間を凝視した。
その瞳に宿ったのは、全宇宙を戦慄させる狂気の啓示。
「……お分かりになりませんか、愚かな肉塊ども」
エレノアが氷のように言い放つ。
「マスターは……生々しい生命の体温など、最初から一切求めておられなかったのですよ。
生体である以上、体温が変動し、汗をかき、心拍を刻む……。
あのお方が求められたのは、完全なる無機物!
一切の感情を持たず、一切の鼓動を立てず、ただ冷徹にマスターの体幹の重量のみを受け止め続ける、【絶対零度の無機物添い寝】……!!」
「な……なんという……!」
魔王ディアボロスが、凍結した角からオイルの涙を流して絶叫した。
「俺たちの肉体なんぞ……あのお方の至高の抱き枕の足元にも及ばねえ……!
生きてること自体が……呼吸してること自体が……あのお方の安眠に対する不純物だったんだァッッ!!」
「ああ……神よ……!」
セレスティーナもまた床に額を打ち付け、悔し涙を流した。
「私の愛など……あの冷たい真鍮の筒の純粋な硬度と冷たさの前には、ただの生温かいノイズに過ぎなかったのですわ……!!」
五:静寂の抱擁と、真鍮の神格化
数分後。
公爵邸の最上階寝室には、再び完璧な静寂が戻っていた。
世界樹ベッドの上で、ソラは真鍮の湯たんぽを両手両足でガッシリと抱き抱え、
「……んふぅ……冷たくて……気持ちいい……zzz」
と、至福の涎を垂らしながら完全に熟睡していた。
胸の前の空間は完璧に埋まり、肩の巻き込みも解消。
右足を乗せたことで骨盤の歪みもゼロになり、真鍮のひんやりした感触が、ソラの体温を心地よい適温へと導き続けている。
ソラにとっては、ただの「部屋の隅に転がってた湯たんぽ」を抱っこしただけ。
しかし。
寝室の外、廊下の床に平伏した全次元の首脳陣の前で、エレノアは手帳に新たな宇宙法を刻み込んでいた。
【全宇宙絶対添い寝令:最終布告】
マスターは、全生命体の肉体的抱擁を『不要な体温の押し付け』として一蹴され、無機物の金属円筒(湯たんぽ)を唯一の正妻として選定された。
本日より、機巧都市は全宇宙の金属鉱山を総動員し、熱伝導率ゼロ、表面硬度絶対、常時摂氏十二度を維持する『至高の神聖真鍮抱き枕』の量産体制に入ること。
これに違反し、マスターのベッドへ自らの肉体をねじ込もうとした生体は、その場で絶対零度凍結刑に処す。
「……全員、直ちに撤退しなさい」
エレノアが冷酷に告げる。
「マスターと、正妻たる真鍮枕の至高の微睡みを邪魔することは、宇宙法第一条により死罪です」
「「「は、はいッッ!! 爪先立ちで退却いたしますゥッッ!!」」」
神と悪魔と聖女とエルフが、涙を拭いながら、音もなく廊下を這って逃げ出していった。
ベッドの上で、ソラは「……むにゃ……なんか、冷えすぎてお腹痛くなってきたかも……zzz」と小さく身悶えした。
本人はただ「横向きで寝るのにちょうどいいクッションが欲しかっただけ」なのに、全宇宙の美女と神々の求愛が一瞬にして物理的絶対零度で粉砕され、ただの空っぽの湯たんぽが「全次元の筆頭正妻」へと祭り上げられてしまった――。
一歩も動かず、一回も起き上がることなく、ただ抱きつくだけで全宇宙のヒロインレースを強制終了させた深淵の怪物の伝説は、冷え切った金属の輝きとともに、更なる深淵へと突き進んでいくのであった。




