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エピローグ:咀嚼筋の完全退化と、平和すぎる流動宇宙

二十四時間完全流動食サイクル――通称『絶対怠惰フルコース循環体制』が全次元で正式運用を開始してから、丸一週間。

帝都ルミナリア、ヴァルハイト公爵邸の最上階。

かつては一介の引きこもり貴族の私室であったはずの空間は、いまや全宇宙の代謝エントロピーが一点に集約される『超流動代謝プラント』へと昇華していた。

午前七時:天界の蜜と魔界のミルクによる『絶対怠惰プリン』。

正午:深海と雲海の奇跡のエキスを凝縮した『絶対怠惰黄金粥』。

午後七時:神峰の白金豚と暴竜の赤身を分子崩壊させた『超流動肉団子スープ』。

午前二時:不死鳥の卵と古代黄金麦をマグマ化させた『超流動フレンチトースト』。

この完璧すぎるローテーションを、専属の銀スプーン係(主神ゼウスライラ)とレンゲ支え係(魔王ディアボロス)の手により、一回あたり平均十五秒で吸引し続けた結果――。

世界樹ベッドの上で、シルクのパジャマを着崩したソラ・ヴァルハイトは、自らの両手で頬をペタペタと触りながら、死人のような顔で呆然と立ち尽くしていた。

「……あ……ご……」

ソラは、ゆっくりと口を開閉させた。

パカ、パカ。

鳴らない。

カチリとも言わない。

幼少期、父親の地獄特訓で岩をも噛み砕くほど鍛え上げられていたはずの屈強な咀嚼筋が――一週間で完全に、赤ちゃん生まれたてレベルまでフニャフニャに弛緩・退化していた。

「……僕の顎が……死んでる……」

ソラは戦慄した。

歯を食いしばろうとしても、上下の奥歯が「カチッ」と合わさる感覚すら曖昧。

顎の筋肉に力を入れるという行為そのものを、脳の神経伝達物質が「不要なバグ」として遮断しているのだ。

歯ブラシを口に入れるのすら重労働。いまのソラにとって、硬めの煎餅を一枚噛み砕くことは、素手で活火山をへし折るよりも不可能な重労働と化していた。

だが、恐ろしいのは自らの肉体の退化だけではなかった。

ソラは、ふらつく足取りで窓際へ歩み寄り、遮光カーテンを指先でチョンと開けた。

眼下に広がる帝都、そしてその上空に広がる天界と地底の境界面を見下ろす。

「……な、なんだよこれ……」

争いが、消えていた。

ただの一件の喧嘩も、一つの領土紛争も、一欠片の悪意すら、全宇宙から完全に蒸発していた。

街の広場では、かつて血で血を洗う殺し合いを演じていた屈強な帝国重騎士と魔界の有角悪魔が、エプロン姿で肩を組みながら、

「おい、明日の朝のプリンに使う蜜蜂の巣、採取枠が足りねえぞ!」「任せろ、俺たち悪魔小隊が死線を超えて巣穴から取ってきてやる!」

と、涙の熱い友情を交わし合っている。

空を見上げれば、天界の熾天使とエルフの弓兵が仲良く一つの巨大ミキサーのハンドルを回し、

「もっと滑らかに! ソラ様の咽頭を愛撫するように撹拌するのです!」「了解です、あと八千回転!」

と、満面の笑みでハイタッチを交わしていた。

世界中の軍備予算は、すべて「超高密度ミキサー」「ナノストレーナー」「無音冷却コンテナ」の開発へと注ぎ込まれ、核兵器や神話魔術の開発は「出汁を濁らせる危険性がある」という理由で全次元条約により永久全廃。

飢餓? ――ソラ様の流動食の余剰煮汁(※神代の超高密度栄養液)が下水を通じて全世界の農地に散布されたため、全土で農作物が爆発的に実り、完全消滅。

貧困? ――食材の採取と運搬に従事するだけで全市民に天界の金貨が配られるため、完全消滅。

病気? ――世界樹の生姜と不死鳥の卵液のアロマが常時大気中を循環しているため、全病原菌が死滅。

全宇宙が、ただ一人の青年の「噛むのダルい」というワガママを叶えるためだけにフル稼働した結果――。

人類、神族、魔族、亜人の全種族が、歴史上かつてない『絶対調和と完全平和』を達成してしまっていた。

「……一回も……噛んでないのに……」

ソラは両手で頭を抱え、窓枠に額をガツンと打ちつけた。

「一回も歯を使ってないんだよ!?

スプーンですくって、喉に流し込んで、寝て、起きて、また流し込んだだけだよ!?

なんでそれで、数万年続いた光と闇の聖戦が手打ちになってんの!?

なんで世界平和が達成されてんの!?

おかしいだろ! 宇宙の理ってそんなに安っぽいものなのかよぉぉぉッッ!!」

ソラの悲痛な絶叫。

しかし、その声を聞き咎めた扉が、スッと音もなく開かれた。

現れたのは、黄金のお盆に「昼用の黄金粥」の土鍋を載せたエレノア、セレスティーナ、そして割烹着姿の主神ゼウスライラと魔王ディアボロスだった。

「マスター、お目覚めになられましたか」

エレノアが眼鏡の奥の瞳を恍惚に潤ませ、深々と一礼する。

「全次元流動食ネットワークの稼働率は百パーセント。宇宙の全知性体は現在、貴方様の胃袋を健やかに保つという単一の崇高な目的のもと、完全なる一致団結を果たしております」

「ええ……!」

セレスティーナも両手を組み、歓喜の涙を流す。

「マスターは自らの咀嚼を放棄されることで、全生命が抱える『争い(噛み砕き、奪い合うこと)』の業そのものを浄化されたのですわ!

ただ飲み込み、慈愛の胃袋で全次元を包み込む……! これぞ真の絶対救済……!!」

「ソラ様! 本日の黄金粥、塩分濃度をコンマ零零一パーセント微調整いたしました!」

「出汁のイノシン酸も完璧だ! どうぞ、一噛みもせずにお召し上がりくださいッ!!」

神と悪魔が、命を削って煮出した究極の一匙を差し出してくる。

ソラは、引き攣った笑みを浮かべながら、後退りした。

ベッドのヘッドボードに背中が当たる。

(……逃げられない。

僕が『やっぱり固いステーキが食いたい』とか言ったらどうなる?

『神竜帝が咀嚼を再開された! 噛み砕くための敵国を探せ!』ってなって、また銀河大戦が始まるんじゃないのか……!?

もう……一生、離乳食を食い続けるしかないのか……!?)

ソラは震える手で銀スプーンを受け取った。

黄金に輝くトロトロの出汁粥を一口すくう。

唇に触れた瞬間、噛む間もなく胃袋へとジュワッと消え去っていく。

五臓六腑に染み渡る、圧倒的な美味。

そして、その美味に比例してズシリと重くのしかかってくる「宇宙平和の責任」。

「……うまいよ……チクショウ……。

うますぎて……涙が出てくるよぉぉぉ……zzz」

少年は泣きながらお粥を飲み干し、咀嚼筋の完全に退化したフニャフニャの顔で、再び世界樹のシーツへと沈み込んでいく。

一歩も動かず、一回も噛むことなく、ただ胃袋の蠕動運動だけで全宇宙を平和にしてしまった深淵の怪物――。

彼の「絶対に噛みたくない戦い」は、もはや後戻りのできない完全流動の銀河を飲み込みながら、どこまでも、どこまでも続いていくのであった。

(第五巻・完)

あとがき

全国一億三千万人の「平日の昼休み、コンビニのサンドイッチのレタスを噛むのすらダルくて『点滴でカルボナーラを直接血管に流し込んでくれねえかな』と一度でも妄想したことのある筋金入りの自堕落同志」の皆様、お待たせいたしました! そして今日も今日とて固い現実を奥歯でガリガリと噛み締めながら戦い続けている全人類の皆様、すべての噛み合わせを解除して今すぐプリンを一気飲みしてください、こんにちは!

本作『深淵の怠惰 〜無能と蔑まれた公爵子息、適当に動いたら絶対無敵の怪物として崇拝される〜』第5巻を最後までお読みいただき、本当に、本当に、胃袋の底からの特大の感謝を申し上げます!!

……さて、読者の皆様。

第5巻を読み終えた今、皆様の脳裏にはきっと、巨大な宇宙の真理(ツッコミ)が渦巻いていることとお察しいたします。

「第5巻まるまる一冊使って、主人公が一回も『咀嚼』してねえぞどうなってんだコレ!!!!」

作者自身、原稿の最終チェックをしながら腹筋がよじ切れるほど笑い転げておりました。

全8巻構想の第5巻。普通ファンタジー小説の第5巻といえば、主人公が新たな奥義を覚醒させたり、宿敵との因縁の決着をつけたり、世界崩壊の危機に立ち向かったりするクライマックス直前の激アツ巻のはずなんですよ。

それが本作はどうですか。

「プリン」→「お粥」→「肉団子」→「フレンチトースト」。

主人公がやったことといえば、ベッドの上で寝返りを打ちながら「噛むのダルい」「しょっぱい出汁」「肉」「ドロドロのパン」と寝言を垂れ流しただけ。

それに対して、天界の最高神と魔界の真祖がエプロンと割烹着を着て、超新星爆発レベルの食材強奪戦を繰り広げ、最終的に「主人公の咀嚼筋が完全に退化して世界が平和になる」という前代未聞の結末を迎えました。

改めて第5巻の「超流動・被害総額ダイジェスト」をご覧ください。

第一章(絶対怠惰プリン):

ソラ「噛むの疲れる。スプーン一杯ですくえて勝手に溶ける甘いやつ食わせろ」

全次元「咀嚼の完全否定! 全宇宙総力動員令だァッ!」

被害「天界の太陽蜜蜂の巣全滅、魔界の深淵牛が集団搾乳、世界樹の桃が根こそぎ収穫、機巧都市のナノミキサー限界突破」

第二章(絶対怠惰黄金粥):

ソラ「甘いの飽きた。しょっぱい出汁のお粥。海の底の美味いやつ全部煮込め」

全次元「全水系に対する総力漁獲令だァッ!」

被害「深海三万マイルの海王蟹が地引き網で捕獲、雲海の神魚ツナが天使の集団ダイブで一本釣り、深淵クラーケンがタワシで揉み洗い」

第三章(超流動肉団子スープ):

ソラ「次は肉団子。割る必要すらないやつ。山の上の強いやつ丸めて煮込め」

全次元「全銀河無差別狩猟令(ジェノサイド・ハント)発令ッ!」

被害「天界霊峰の白金豚が生け捕り、魔界の古代ティラノスが十トンハンマーで餅つきミンチ、神薬生姜のすり鉢超音速回転」

第四章(超流動フレンチトースト):

ソラ「深夜に炭水化物食いたい。ドロドロのパン。天辺の鳥の卵落として甘い蜜で浸せ」

全次元「絶対甘味炭水化物徴発令ッ!」

被害「太陽神鳥フェニックスの巣荒らし、魔界の堆積黒蜜採掘、真空脱気チャンバーによるパンの強制カスタードマグマ化」

……ソラくん、君の胃袋のワガママ、もはや銀河系規模のイナゴの大群よりタチが悪くて本当に最高です。

エピローグで判明した通り、本人はただ「顎を動かしたくない」という極限のズボラを発揮しただけなのに、世界中の軍隊が「料理の下ごしらえ部隊」へと転向させられ、核兵器が全廃されて完全な世界平和が訪れてしまうという、史上最も平和的で最も情けないディストピア(?)の完成には、作者も涙を流して爆笑いたしました。

さて、怒涛の勢いで胃袋を満たした第5巻ですが、物語はいよいよ終盤戦――第6巻へと突入いたします!

全宇宙を制覇し、完全流動食によって顎の筋力すら失ったソラくんを待ち受ける次なる試練とは……!?

続く第6巻では――全次元が平和になり、あまりにも退屈と静寂が極まったことで、今度は天界、魔界、地上の全ヒロイン&首脳陣たちが、

「ソラ様の至高の添い寝(抱き枕)の権利を勝ち取るのは誰か!?」

という、これまた世界一スケールがデカくて世界一IQの低い【全宇宙・絶対添い寝権争奪トーナメント】を勝手に開幕させてしまいます!

もちろん、当のソラは「夏はひんやりして、冬はあったかい、適度な重みのある抱き枕が一個あればそれでいい」としか思っていません。果たしてソラの安眠ベッドの隣を勝ち取るのは誰なのか……!?

最後に、ソラの救いようのない自堕落と、全宇宙を巻き込んだブレーキ崩壊の勘違い劇を、誰よりも熱く、温かく愛し続けてくださる最高の読者の皆様に、魂の底からの特大の感謝を!!

皆様の笑い声と応援がある限り、ソラくんの「絶対に噛みたくない、絶対に働きたくない覇道」は、まだまだ止まりません!

それでは、また第6巻の『全宇宙抱き枕大戦争編』でお会いしましょう!

(私もこれから、ソラを見習って顎の筋力を完全にオフにし、ストローで飲むタイプのプリンを喉に直接流し込みながら、丸二日ほど泥のように眠りたいと思います。探さないでください……zzz)

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