第4巻『深淵の怠惰』
第一章:神魔震撼の微睡みと、換気扇の暗殺者たち
一:天界の失禁と、魔界の胃潰瘍
地上全土、海路、地下鉱脈、機巧都市、さらにはエルフの不可侵樹海に至るまでを、こたつとミカンと寝返りだけで完全平定してしまった「人類史上最悪の自堕落神」ソラ・ヴァルハイト。
その結果として引き起こされた「帝都神域化現象」――大地の霊脈が分子レベルで浄化され、帝都の空から常時オーロラが降り注ぎ、ハゲた中年貴族の毛根が一夜にして黒々と大復活を遂げたという未曾有の超常現象は、ついに地上の枠組みを突き破り、高次元の世界へと破滅的なパニックを伝播させていた。
標高一万二千メートル、天空に浮かぶ黄金の神殿群――『天星郷アイテール』。
雲海を見下ろす最高評議院の白亜の広間では、純白の六枚翼を生やした最高神・主神ゼウスライラが、黄金の錫杖を取り落とし、神代の法衣を冷や汗でビッショリと濡らしながらガタガタと膝を打ち鳴らしていた。
「……あり得ん。絶対に、論理的にあり得んのだ……!」
主神の喉から、神の威厳をドブに捨てた悲鳴が漏れる。
その足元に転がっているのは、天界の高位観測水晶が弾き出した、地上の霊素密度測定グラフであった。
グラフの針は限界値をぶち破り、測定盤の外枠に深々と突き刺さってへし折れている。
「地上の全霊脈が、わずか一瞬で完全飽和……! 我ら天界の神々が数万年かけて信徒から搾取……ゲフン、集めてきた神聖エネルギーの総量を、ただの青年の『寝返り一発』が遥かに凌駕しただと!?
しかも報告書を見よ! 『世界樹の芯材で編まれたベッドの上で、左向きにコロンと転がった余波』だと……!?
莫迦を言うな! そんなデタラメが許されてたまるか! 我ら神族が何千年と座禅を組み、断食修行を重ねてようやく得られる神気循環を、布団の中でヨダレを垂らしながら達成するなど……神々に対する営業妨害にも程があるわッ!!」
「主神様、落ち着いてください! 冠がズレております!」
側近の大天使がオロオロと神酒を差し出すが、ゼウスライラはそれを叩き落とした。
「落ち着いていられるかァッ! このまま奴の昼寝空間(神域)が拡大を続ければ、あと数ヶ月で天界の床下まで奴の寝返りの波動に呑み込まれるぞ! 天界全土が奴の『二度寝用クッション』に改装されてしまうのだ!!
直ちに天界直属・隠密偵察部隊【白銀の羽風】を派遣せよ!
地上の怪物が熟睡している隙を突き、奴の魂の中枢へ『神罰の絶対睡眠麻痺針』を打ち込むのだ! 二度と目覚めぬ永遠の微睡みに封じ込めよッ!!」
一方――。
同じ刻、地下三万メートル。溶岩の滝が煮えたぎり、黒煙が渦巻く魔族の総本山――『奈落煉獄パンデモニウム』。
謁見の間の黒龍の玉座で、身の丈三メートルの漆黒の巨躯を折り曲げ、頭部の二本角を抱え込みながら吐瀉物のように紫の煙を吐いていたのは、魔界の頂点たる真祖の魔王――殲滅帝ディアボロスであった。
「……胃が痛ぇ。魔王になって三千年、初めて胃壁に穴が空きそうだ……」
ディアボロスの手元には、魔界特産の超強力胃薬の瓶がすでに二十本、無残に転がっていた。
背後に控える十柱の上級魔将たちも、歴戦の凶悪な形相をどこへやら、一様に顔面を真っ青にして小刻みに震えている。
「我が君……本当なのですか? 北方の氷雪竜師団を全滅させたのが『酸っぱいミカン一発』で、機巧都市の暗殺部隊を解体したのが『ミカンの皮二枚』だというのは……」
「本当だッ! 情報部の使い魔が三千匹ショック死したわッ!」
ディアボロスが爪を噛み、咆哮した。
「奴の魔力は観測不能! 殺気もゼロ! だが、ひとたび睡眠を邪魔されれば、天を引き裂き、海を割り、相手を全裸にして海へ叩き込むという理不尽の権化だ!
しかも先日の帝都神域化で、我が魔界の瘴気吸い上げパイプが八割逆流した! 帝都の地下から押し寄せてきた『超絶アロマの浄化波動』のせいで、我が軍のゾンビ兵どもが全員『お肌がツルツルになって成仏』しちまったんだぞッ!!」
「な……なんという恐るべき兵器……! ゾンビをスキンケアで消滅させるだと……!?」
魔将たちが戦慄する。
「このままでは魔界が奴の『アロマ加湿器の燃料』にされてしまう!
行くぞ、影魔暗殺連隊! 公爵邸の寝室へ潜入し、奴の首を刎ねろ!
奴が目覚めてあくびを一発かましただけで、我が魔界全土が『日曜日の昼下がりの日だまり広場』に強制浄化されてしまうのだァッッ!!」
天界と魔界。
光と闇、相反する二大勢力が、まったく同じ「睡眠を邪魔された怪物の逆鱗への恐怖」によって突き動かされ、帝都の公爵邸最上階寝室という、世界で一番危険な一点へ向けて最精鋭の刺客を放った瞬間であった。
二:平和すぎる寝室と、初夏の微風危機
午後一時十五分。
初夏の訪れを告げる、爽やかな風が吹き抜ける帝都ルミナリア。
神域化の影響により、公爵邸の周囲には五百万人の巡礼者が詰めかけていたが、エレノアの敷設した「音波逆位相キャンセラー魔導陣」と、セレスティーナの手配した「神聖無音結界」により、寝室内部は奇跡的な静寂が保たれていた。
室温は二十四度、湿度四十八パーセント。
中央の世界樹ベッドの上には、初夏用の「冷感接触アイスシルク毛布(エルフ族が三千頭の氷蚕から紡いだ国宝)」に包まり、完全脱力状態で横たわるソラ・ヴァルハイトの姿があった。
「……んぁ……すぅ……」
ソラは、幸せだった。
外が五百万人の狂信者で埋め尽くされているという悪夢には、すでに「見なかったことにして部屋から一歩も出ない」という究極の現実逃避でフタをしていた。
ベッドは涼しく、肌触りは極上。
冬のこたつも良かったが、初夏のひんやりしたシーツに素肌を擦り付ける瞬間の快楽もまた、捨てがたいものがあった。
だが――。
そんな至福の微睡みの中で、ソラの卓越した感覚器官が、微細な不快感を感知した。
(……ん……? なんか、空気が……淀んでる……?)
ソラは、毛布の中でわずかに眉をひそめた。
完全防音、完全密閉を追求しすぎた結果、部屋の中の空気がわずかに籠もり始めていたのだ。
人間、寝苦しさを感じる最大の原因は「室温」ではなく「空気の循環の滞り」である。
(……風が欲しい。
クーラーの風みたいな人工的なやつじゃなくて、窓からスッと通り抜けていくような、涼しくて乾いた自然の風が……顔のあたりを撫でてほしい……)
起き上がるのは嫌だ。窓を開けに行くなんてもってのほか。
ソラは、半開きの目で天井の隅を見上げた。
そこには、前回の機巧都市との一件の後、ガリレオが「換気用」として取り付けていった、直径三十センチほどの小さな木製の換気ダクト(自然給気口)があった。
(……あそこ、蓋が閉まったままだったな。
誰か……風通しを良くするために、あの換気扇のつまみ、回してくれないかな……)
ソラは心底鬱陶しそうに、冷感毛布からだらりと右手を投げ出した。
手元には、先ほど水分補給のために飲んだ「氷入り冷水」のグラスから溶け落ちた、親指大の「透明な氷の欠片」が一つ、結露したコースターの上に転がっていた。
三:換気ダクトの鉢合わせ
同じ刻。
公爵邸最上階、ソラの寝室へと繋がる天井裏の換気ダクトの内部。
ヒタ……ヒタ……。
音もなくダクトの金属管を這い進んでいたのは、天界が誇る最高位隠密特務天使――『神風のセラフィナ』であった。
純白のレオタードめいた潜入装束に身を包み、背中の六枚翼をステルス魔力で完全に透明化させた絶世の美貌の天使。手には、神の魂すら永久凍結させる【天帝の麻痺針】が鈍く光っている。
(ふふ……チョロいものですわ。地上を統一した神竜帝とやら、いかに強大な力を誇ろうと、睡眠中の無防備な首筋にこの針を撃ち込めば終わり……!)
セラフィナがダクトの出口――寝室を見下ろす通気口グリルへと手をかけた、まさにその瞬間。
ズザザザッ……!!
ダクトの反対側、闇の奥から、ドロリとしたコールタールのような黒煙が噴き出してきた。
煙の中から姿を現したのは、魔界屈指の暗殺集団『黒影の爪』の頭領――百の触手と刃を持つ上級影魔『アラクネ・ノワール』だった。
「キキキッ! いただきだぜ、神竜帝の首は我が魔王軍が――って、あァん!?」
「なっ……!? なぜ魔族がこんな神聖な場所にッ!?」
二つの暗殺部隊の視線が、わずか三十センチの狭いダクトの管内で激しく激突した。
バチバチバチッッッ!!!
「どきなさい、ドブネズミのような魔族! 神竜帝を討ち、天界の安寧を守るのはこの私です!」
「ハッ! 抜け抜けとほざきやがるぜ鳥頭の天使め! 貴様こそ魔界の領土拡張の邪魔だ、ここでミンチにしてやるわッ!!」
天界と魔界の精鋭が、暗殺の直前という最悪のタイミングで、通気口の真上で一触即発の魔力衝突を起こした。
高密度の神聖気と、禍々しい暗黒闘気が、狭いダクトの中でぎゅうぎゅうに圧縮され、今にも大爆発を起こさんばかりに膨張していく。
だが――。
その真下、ベッドの上で転がっていたソラにとっては。
(……あー、もう! なんか換気扇のあたりがモゴモゴしてて、全然風が入ってこないんだけど!!)
ソラのイライラは、限界に達していた。
涼しい風を期待して待っていたのに、通気口の奥から伝わってくるのは、なぜか生温かい熱気と、ピリピリとした静電気のような不快な摩擦感だけ。
これでは部屋の空気が余計に悪くなる。
(詰まってるのか? 埃か? 鳥の巣でも作られたのか!?
邪魔だ! 風の通り道を塞ぐなッ!!)
ソラは心底からの八つ当たりを込めて、コースターの上の「氷の欠片」を、右手の人差し指と親指でパチンと弾いた。
本当に、ただの八つ当たりだった。
洗面所で鏡についた水滴を指で飛ばすような、脱力したデコピン。
だが――。
ソラの体内に眠る、スプーン一杯の極小魔力。
それが、「換気口の詰まりを吹き飛ばして、冷たい外気を部屋に引き込みたい」という純粋な怠惰の欲求と同調。
親指大の氷の粒の内部へ、分子レベルの超高密度冷却圧が極限注入された。
シュンッッッ――!!
音すら置き去りにした。
ソラの指先から放たれた氷の粒は、重力も空気抵抗も無視し、直角に跳ね上がって天井の通気口グリルへと吸い込まれていった。
四:大消滅と、極上の風
ダクトの内部で、まさにセラフィナの神聖剣とアラクネの暗黒爪が激突しようとした――そのコンマ零零一秒前。
通気口の金属網をすり抜けて、下から「小さな透明な光の粒」がヒュンと飛び込んできた。
「……え?」
「あん?」
天使と悪魔が同時に目を丸くした、その刹那。
――パキィィィィィィィィィィィィンッッッッ!!!!
天球が割れるような、澄み切った絶対零度の破砕音がダクト内に響き渡った。
ソラの放った氷の粒が、二人がせめぎ合わせていた「神聖魔力と暗黒魔力の衝突点」――物理法則の特異点へ、寸分の狂いもなく突入したのだ。
氷に込められていた極小高密度の冷却魔力が、両者の魔力を一瞬にして凍結・結晶化。
そして――。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
暴発。
しかし、それは外へ吹き飛ぶ爆発ではなかった。
ソラの「外の風を部屋に引き込みたい」という吸引のベクトルが働いた結果、ダクト内の空間そのものが猛烈な勢いで収縮する【超重力インプロージョン(内爆現象)】が発生したのだ!
「キャアアアアアッ!? 神聖障壁が……凍りついて砕ける……!?」
「ギャアアアッ!? 触手が……俺の影の身体が、掃除機みたいに吸い込まれるゥッ!?」
二つの暗殺部隊の魔導具、武器、結界、そして自慢の装甲が、ソラの放った氷粒の中心核へと一瞬で圧縮・粉砕された。
さらに!
氷粒がダクトの奥の排気ファンを「カツンッ!」と弾いた瞬間、固着していた金属ファンが猛烈な勢いで回転を始めた。
ヒュオオオオオオオオオオッ……!!
ダクトの向こう側――標高一万メートルの成層圏から、澄み切った極上の天然冷気が、ダイレクトに寝室へと吹き込んできた。
そして、その風に巻き込まれたセラフィナとアラクネは、すべての魔力と武装を剥ぎ取られ、白目を剥いて痙攣しながら、ダクトの換気スリットから寝室の床へと――ポトッ、ポトッと間の抜けた音を立てて転がり落ちた。
部屋を満たしたのは、高原の避暑地を思わせる、最高に爽やかで冷涼な初夏のそよ風だった。
五:床の生ゴミと、深淵の宣告
「……あ〜〜〜……涼しい……」
ソラは、毛布の中で満足げに身悶えした。
顔元を撫でる、サラサラとした乾燥した冷風。
淀んでいた室内の空気が一瞬で入れ替わり、完璧な睡眠環境が再構築されたのだ。
(……ふぅ。やっぱり換気扇を回して正解だったな。
適当に氷投げたら、ファンのスイッチに当たったみたいだ。僕って天才かもしれない……)
ソラは満面の笑みを浮かべ、再び冷感毛布を引き上げようとした。
――だが、その時。
カサリ……と、ベッドの足元の床から、何かが身じろぎする微かな音が聞こえた。
ソラは、だるそうにベッドの縁から首だけを傾げて見下ろした。
そこには――。
純白の翼をもがれ、装束をボロボロに引き裂かれて涙目で震える絶世の金髪天使と。
全身の触手を丸坊主に刈り取られ、ただの黒いスライムのように縮こまってガタガタと歯を鳴らす上級悪魔が。
床のペルシャ絨毯の上で、重なり合うようにして倒れていた。
「……は?」
ソラは眉をひそめた。
(……何これ?
鳥? と……タコ?
換気扇の奥に挟まってた、ゴミが落ちてきたのか……?)
ソラには、彼女たちが天界と魔界の誇る最高位の暗殺者であるなど、夢にも思えなかった。
ただ「ダクトを詰まらせていた鳥の死骸か何かのゴミが、風の勢いで部屋に落ちてきた」としか見えていなかったのだ。
不快だった。
せっかく部屋が涼しくなったのに、足元の絨毯の上に得体の知れない生ゴミが落ちている。
これでは汚くて二度寝に集中できない。
ソラは、冷え切った、死んだ深海魚のような瞳で、床の二人(一匹と一人)を冷酷に見下ろした。
寝起きの掠れた低音で、ボソリと言い放つ。
「……おい」
ヒュッッッ――!!
寝室の空気が、絶対零度を超えて凍結した。
ソラから放たれたのは、「早くゴミ箱へ行け」という純粋な嫌悪のオーラ。
だが、それはあらゆる生体本能を麻痺させる、神話の覇気となって二人の頭蓋へ叩きつけられた。
「ヒッ……!?」
「ギッ……!?」
セラフィナとアラクネの魂が、恐怖のあまり悲鳴を上げた。
ソラは、だるそうに人差し指をピッと扉の方角へ向け、心からの本音を吐き捨てた。
「……汚いから、部屋の隅に転がってろ。邪魔なんだよ」
(掃除は後でエレノアにやらせるから、とりあえず目に入らない部屋の隅っこに寄ってろ。僕の視界に入るな)
ソラはそれだけ言い捨てると、再び冷感毛布を頭から被り、完全にベッドの中へと引きこもった。
「これでよし、寝よう」という、ただの放置である。
だが――。
その言葉を聞いた、天界の特務天使と魔界の暗殺頭領の脳内では、銀河系が崩壊するレベルの超絶解釈の天変地異が炸裂していた。
六:神魔合一の信徒たち
「……っ……!!」
セラフィナの青い瞳から、止めどない涙が溢れ出した。
全身が激しく痙攣し、床に爪を立てて平伏する。
(……『汚いから部屋の隅に転がってろ』……!?
『邪魔なんだよ』……!?)
セラフィナの脳裏で、戦慄の真実が組み上がっていく。
(神聖なる天界の天使と、冒涜なる魔界の悪魔……!
数万年にわたり血で血を洗う聖戦を繰り広げてきた我ら両陣営の宿業を……!
あのお方は……『汚いゴミ』と一喝し、氷の粒ひとつで両者の魔力ごと消滅させてみせた……!
そして『部屋の隅に転がってろ』……!
それは……『貴様らのくだらぬ光と闇の争いなど、私の微睡みの前には等しく塵芥に過ぎぬ。争いをやめ、世界の隅で大人しく私の安寧を見守っていろ』という……絶対唯一神の冷徹なる審判……ッッ!?)
「ギ……ギギギ……ッ!」
隣で黒いスライム状に縮んでいたアラクネもまた、魔界のプライドを粉々に砕かれ、オイルのような涙を流して床に額を擦り付けた。
(勝てるわけがねえ……!
氷の欠片ひとつで、俺たちの空間衝突を逆位相で吸収し、成層圏の風を引き込む推進力に変えやがった……!
俺たち特務部隊ですら、あのお方にとっては『換気扇のスイッチを入れるための道具』に過ぎなかったんだ……!!
主よ……ディアボロス魔王様……! 俺たちは触れちゃならねえ、天界と魔界の創世主そのものに刃を向けてしまったんだァッッ!!)
ガチャリ……。
その時、寝室の扉が音もなく開いた。
部屋の空気の入れ替わりを感知し、お茶を運んできたエレノアとセレスティーナが、盆を手に現れた。
二人が目にしたのは――。
涼やかな風が吹き抜ける、完璧な環境の寝室。
世界樹ベッドの上で、スースーと幸せそうにいびきをかいて眠るソラ。
そして――部屋の隅の壁際で、神聖な天使と凶悪な悪魔が、互いに肩を寄せ合い、涙を流しながら直立不動で「正座」しているという、天地創造以来あり得ない光景だった。
「……あら?」
セレスティーナがエメラルドの瞳を丸くし、大十字架の石突きを床にトンと突いた。
「天界の隠密天使と、魔界の影魔……? なぜ光と闇の不倶戴天の敵同士が、仲良く部屋の隅で体育座りをしているのかしら?」
エレノアが眼鏡のブリッジをキチ……と押し上げ、冷酷な笑みを浮かべた。
「……ふふ。聞くまでもありませんね。
マスターが、初夏の爽やかな微睡みを楽しまれるついでに……氷の粒ひとつで、天界と魔界の数万年に及ぶ宗教戦争を、一瞬で完全終結させられたのですよ」
「まあ……!」
セレスティーナが胸の前で手を組み、恍惚の涙を流した。
「『汚いから隅にいろ』……! なんという至高の調停!
天界の独善も、魔界の悪意も、マスターの深淵なる怠惰の前には等しく無力!
さあ、天界と魔界の哀れな使者たちよ!
マスターがお目覚めになられた時、極上の団扇で心地よい風をお送りできるよう、二人仲良く仰ぐ練習を始めなさいッ!!」
「「は、はいッッ!! 喜んで仰がせていただきますゥッッ!!」」
天使と悪魔が涙を流して敬礼し、世界樹ベッドの足元で、無音で必死に団扇を仰ぎ始める。
光と闇の最終戦争は、こうして「寝室の換気扇を回す」という極小の日常動作によって、誰にも知られることなく、完全なる不戦勝で幕を閉じたのであった。




