四:限界突破の脱力と、暴走の結末
そして、ついに運命の瞬間が訪れた。
『――体内水分ノ過剰ヲ検知。排泄シークエンスヘ移行。空間転移ドレン、吸引圧……最大――』
ゴオオオオオオオオオッッッ……!!
ソラのパジャマのズボンの後ろ、尾てい骨のあたりに、ブラックホールのような漆黒の空間歪曲門がパカリと口を開けた。
凄まじい大気の吸引力。
直腸どころか、内臓全体が異次元へと吸い出されそうな、恐るべき真空圧がソラの臀部を襲う。
「――っっっっっっ!!!!」
声すら出なかった。
ソラの全身の毛穴が、一瞬にして逆毛立った。
(……死ぬ。このままじゃ、僕の尊厳と内臓が、丸ごと異次元の彼方へ吸い込まれて消滅する……!!)
睡眠を邪魔された?
そんな次元は疾風の如く通り過ぎていた。
いま、ソラの前に突きつけられていたのは――「人間としての尊厳の完全崩壊」という、人生最大のデッドラインだった。
ソラの中で、幼少期から封印され続けていた「生存本能」のリミッターが、カチリと音を立てて完全に外れた。
(……壊れろ。こんな鉄屑、今すぐ粉微塵に消え去れええええええッッッ!!!!)
ソラは、四肢を金属アームに拘束されたまま。
歯を食いしばる気力すら捨て去り、全身の筋肉の緊張を、プラスからマイナスへと一気に振り切った。
完全なる脱力。
筋肉の収縮率、ゼロパーセント。
骨の軋み、腱の引っ張り合い、血液の循環抵抗すらも極限までゼロへと近接させる、伝説の『虚無の弛緩』。
そして――ソラの体内に眠る、スプーン一杯の極小魔力。
それが、ソラの背中を通じて、マットレスに敷き詰められた六万四千個のアクチュエータの金属回路へと、音もなく逆流した。
その魔力は、破壊の衝撃波ではない。
「摩擦をゼロにする」という、ソラの究極の省エネ意識の具現化。
――スッ……。
アクチュエータの内部で超高速回転していた歯車、ピストン、油圧バルブ。
そのすべての金属同士の摩擦係数が、ソラの魔力によって、一瞬にして「完全なゼロ」へと書き換えられた。
摩擦がゼロになった機械はどうなるか。
空転である。
噛み合うべき歯車が一切の抵抗を失い、油圧シリンダーがオイルの粘性を失ってすっぽ抜け、高周波バイブレーションのエネルギーが行き場を失って内部で暴発した。
ギチ……ギチギチギチ……ドスンッ!!
『――エ、エラー……? 摩擦係数、消失……!? 荷重分散、不能……!?
負荷ガ……逆流……ア、熱イ……内部回路ガ……融解ス――』
プスン……。
黒い煙が、ベッドの四隅からモクモクと立ち上った。
けたたましく点滅していた真紅のインジケーターが一斉に消灯。
ソラを拘束していた金属アームが、プシュー……と脱力したように開き、天井からのゼリーノズルがポロリと床へ落ちた。
静寂。
部屋を支配したのは、焦げた絶縁油の匂いと、完全なる静止だった。
五:木造ベッドへの帰還と、神話の深淵
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
解放されたソラは、ベッドから転がり落ちるようにして床の絨毯へと這い出した。
口の周りはベタベタのイチゴ味ゼリーまみれ。
目はチカチカして涙が止まらず、お尻は冷たい風に晒されている。
(……ひどい目に遭った……。本当に、死ぬかと思った……)
ソラはフラフラと立ち上がると、黒煙を吹き上げて沈黙した『涅槃Mark-IV』を、心底からの憎悪を込めて睨みつけた。
そして、部屋の隅に控えていたエレノアとセレスティーナへ向けて、掠れた声で言い放った。
「……おい」
ヒュッ、と部屋の空気が凍りついた。
二人は息を呑み、直立不動の姿勢を取る。
ソラは、だるそうに頭を掻きながら、心からの本音を吐き捨てた。
「……こんな鉄屑、二度と持ってくるな。僕の前のベッド……あの、ちょっとギシギシ言う古い木造のやつを、今すぐ戻せ。……あと、口をゆすぐ水を持ってこい」
ソラはそれだけ言い残すと、部屋の隅の暖炉の前へトボトボと歩いていき、床の絨毯の上に直接丸まって、ミノムシのように目を閉じた。
もう怒る気力すら残っていなかった。ただ、普通の静かな部屋で眠りたかった。
だが――。
背後に残されたエレノアとセレスティーナ、そして廊下から覗き見ていたガリレオ総統は――その場に崩れ落ち、ガタガタと全身を痙攣させていた。
「……っ……!!」
ガリレオの義眼から、火花とともにオイルの涙が吹き出した。
震える手で、破損したベッドの内部ログをスキャンする。
「ば、馬鹿な……! 我が機巧都市の粋を集めた六万四千個のアクチュエータが……物理的な破壊ではなく……『摩擦係数の完全消去』によって、無力化されただと……!?」
ガリレオは頭を抱え、床に額を叩きつけた。
「神竜帝は……あのお方は、身じろぎ一つせず、ただ背中を預けただけで……熱力学の基本法則そのものを書き換えてしまわれたのだ……!
『こんな鉄屑、二度と持ってくるな』……!
それはつまり……『人間が小細工で作った機械仕掛けの安寧など、我が深淵の怠惰の前には児戯にも等しいゴミ屑だ』という、人類の科学文明に対する絶対の否定……!!」
「ええ……!」
エレノアが手帳を胸に抱きしめ、狂気の笑みを浮かべた。
「『古い木造のベッドを戻せ』……!
なんという崇高な原点回帰……! 人智を超えた神竜帝が求められるのは、冷たい金属の機械などではなく、大地が育んだ自然の木々の温もり……!
科学に驕る機巧都市に対し、自然との調和こそが真の安寧であると、その身をもって説かれたのですわ……!!」
「ああ……神よ……!」
セレスティーナもまた涙を流し、大十字架を掲げた。
「急ぎなさい、ガリレオ総統! マスターの御言葉通り、今すぐ帝国の全森林から最高樹齢の神木を切り出し、釘の一本も使わぬ純木造の至高の寝台を建造するのですッ!!」
「は、ははッ!! 直ちに全工兵を森へ派遣いたしますゥッッ!!」
ガリレオは煙を吹く『涅槃Mark-IV』を引きずりながら、脱兎の如く部屋を飛び出していった。
再び、完全なる静寂が戻った寝室。
暖炉の前の絨毯の上で、ソラは「……うぅ……腰が痛い……」と小さく身悶えしながら、ようやく訪れた静寂の中で、深い深い眠りへと落ちていった。
――まさか、自分が「ハイテク拷問器具にブチギレて壊しただけ」で、機巧都市連合が科学信仰を捨ててエコロジー自然回帰運動へと舵を切り、世界中の木材価格が高騰することになるとは、夢の中のソラには、知る由もなかったのであった。




