二:こたつの中の小宇宙と、渇きの危機
午後二時。
冬の柔らかな日差しが、ヴァルハイト公爵邸の最上階寝室を照らしていた。
室内の空気は澄み渡り、完全な静寂が支配していた。
部屋の中央に鎮座するのは、いまや世界中の権力者から「神話の熱源炉」と恐れられている魔導こたつ。
その天板の縁に顎を乗せ、下半身をぬくぬくの極楽浄土へ沈めきったソラは、まさに人生最大の危機に直面していた。
(……喉が……渇いた……)
ソラは、死にそうな目で天板の上を見つめていた。
天板の反対側――ソラの手が届く限界距離から、およそ三十センチメートル先。
そこに、セレスティーナが淹れていった冷たい緑茶が入った、陶器の湯呑みがポツンと置かれていた。
遠い。
あまりにも遠すぎる。
手を伸ばせば、肩がこたつ布団の外に出てしまう。
そうすれば、冬の冷たい外気が首元から侵入し、せっかく温まった体温をコンマ数度奪っていくに違いない。
ましてや、身体を乗り出すなど論外。筋肉を使うし、腰を浮かせたらこたつ内の温風が逃げてしまう。
(届かない……。あと三十センチなのに……。
誰か……誰か僕の口元まで湯呑みを持ってきてくれ……。
エレノア……? セレスティーナ……? なんでこういう時に限って誰もいないんだ……?)
ソラは知らなかった。
エレノアとセレスティーナは現在、階下の広間で「マスターの安眠のため、帝都中の鳩の足音を消音化する特殊結界の敷設工事」に夢中になっており、最上階の警備が奇跡的なエアポケット(完全な無人状態)になっていたことを。
(……だめだ。動いたら負けだ。
耐えるんだ。唾液を分泌させて喉を潤すんだ……。
あ、でもミカンなら手元にあるな……)
ソラは、だるそうに右手の指先を動かし、天板の端に転がっていた一個のミカンを引き寄せた。
水分補給のために、これを食べるしかない。
ソラは指先を器用に使い、「最小限の筋力とストローク」でミカンの皮を剥き始めた。
幼少期、暗殺者の毒針を指先だけでミリ単位で受け流す訓練を狂ったように叩き込まれていたソラの指先は、本人の怠惰とは裏腹に、超音波メスすら凌駕する神速と精密性を発揮してしまう。
シュパパパパッ……!
わずか零点三秒。
果肉を一切傷つけず、白い筋までもが分子レベルで完璧に剥ぎ取られた、芸術品のように美しいミカンの粒が手のひらに現れた。
そして、剥ぎ取られた硬い外皮の破片が、四枚、天板の端に整然と並べられた。
「……もぐもぐ……ん、うまい……けど、やっぱりお茶が飲みたい……」
水分を少し得たことで、かえって緑茶への渇望が燃え上がってしまったソラ。
湯呑みをじっと睨みつけ、心の中で「念力でこっちに来い」と念じるだけの、完全な無駄骨を繰り返していた。
――その時である。
カチ……チチチ……。
天井の通気口、床板の隙間、そして壁の影から。
真鍮の歯車が噛み合う、極小の微細音が響き始めた。




