四:成層圏の怪異と、ミカン一発の神話
上空五千メートル。
まさに百頭の氷雪竜が、帝都を壊滅させる【凍滅の氷息】を一斉に放とうとした――そのコンマ零秒前。
巨竜ベオウルフの背上で氷槍を振り下ろそうとしていたヴァルキール皇子の視界に、下方から猛スピードで上昇してくる「小さなオレンジ色の点」が飛び込んできた。
「……ぬ? 何だ、あの光は……?」
ヴァルキールが目を凝らした、その刹那。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
大気圏が割れるような、耳を劈く大爆音。
ソラが放った一個のミカンが、百頭の巨竜が展開していた絶対零度の冷気結界の「魔素循環の中心核」へ、一ミリの狂いもなく垂直に突入したのだ。
ミカンに込められていたのは、ソラの「早く温まりたい」という執念の極小圧縮魔力。
それが、マイナス五十度の氷結魔素と接触した瞬間――超高密度の熱核融合反応に似た、壊滅的な【魔素極性の大反転】を引き起こした。
バキバキバキバキバキッッッ!!!
「ギャオオオオオオオオンッッ!?」
百頭の氷雪竜が一斉に悲鳴を上げた。
吐き出そうとしていた氷息が、口腔の奥で一瞬にして「超高熱の温風」へと強制変換され、逆流したのだ。
氷を操る竜たちが、自らの体内で発生したサウナのような熱波に耐えきれず、白目を剥いて次々と痙攣を起こす。
さらに、軌道を曲げたミカンは、空気抵抗ゼロのまま天空を縦横無尽に跳び回り、百頭の巨竜の額にある「感覚器官の急所」を、まるでピンボールのように超音速でポコポコポコポコと叩いて回った。
ポコンッ!「グエッ!?」
ポコンッ!「ギャンッ!?」
ポコンッ!「ピギャァッ!?」
わずか一秒。
目にも留まらぬ速度で百頭の竜の脳震盪を引き起こしたミカンは、最後にヴァルキール皇子の白銀の兜の眉間へ、カツン……と軽く当たって、そのまま虚空へと飛び去っていった。
兜にヒビが入り、ヴァルキールの脳髄が激しく揺れる。
「な……ななな……ッ!?」
ヴァルキールは氷槍を取り落とし、手綱を握る手を激しく震わせた。
上空五千メートルを覆っていた極北の暗雲が、ミカンが通過した軌跡に沿って円形に吹き飛ばされ、ぽっかりと巨大な青空の穴が開いていた。
そこから降り注ぐのは、凍てつく吹雪などではない。
春の陽だまりのような、ポカポカとした心地よい熱気と――どこからともなく漂う、甘酸っぱく爽やかな柑橘類の香りだった。
「……ば、馬鹿な……」
ヴァルキールは額から血を流しながら、眼下の帝都を見下ろし、ガタガタと歯の根を鳴らした。
「地上五千メートルの我が軍を……地上から……武器すら使わず……ただの果実ひとつで……全滅させただと……!?
吹雪を消し去り……空に春の陽光を取り戻し……我が竜たちを、ただの柑橘の投擲ひとつで手懐けおった……!
あ、あれが……あれが南方の怪物……神竜帝ソラ・ヴァルハイトの力だというのかァァァッッッ!!」
竜たちは完全に戦意を喪失し、お腹を出して成層圏をプカプカと漂い始めていた。
あまりの温かさと柑橘のアロマに、竜たちまでもが眠気に襲われ、手綱を引いてもビクとも動かない。
「退却だ……! 全軍、直ちに退却せよッ!!」
ヴァルキールは自らの完敗を悟り、涙を流しながら絶叫した。
「あれは戦っていい相手ではない! あの男の眠りを妨げれば……次は帝国ごと、果実の弾幕で粉微塵に消し飛ばされるぞォォッッ!!」
北方の最強師団は、一発の矢を放つこともなく、ただ一個のミカンによって壊滅させられ、尻尾を巻いて極北の彼方へと逃げ去っていった。
五:ぬくもりの勝利と、ミカンの行方
地上――ヴァルハイト公爵邸の最上階。
小窓から差し込む陽光が、再び部屋の中を暖かく照らし始めていた。
外の風の音は完全に止み、室温は穏やかな二十二度へと回復。
「……ふぅ。やっと静かになった」
ソラは、こたつ布団を顎の下まで引き上げ、満足げに目を細めた。
足先を確認する。
うん、温かい。隙間風はもう入ってこない。
こたつの中は、再び完全無欠の極楽浄土へと戻っていた。
(……あー、よかった。窓閉めるの面倒だったけど、適当にミカン投げて窓枠に挟まったのかな? 風が止んで本当によかった……)
ソラは天板の上を見下ろした。
ミカンが二個に減っている。
(一個投げちゃったな……。まあいいや、食べるの面倒だったし。夕飯まで、あと四時間は寝よう……)
ソラは再び脱力し、天板の上に突っ伏して、心地よい微睡みの海へと沈んでいった。
その背後で。
エレノア、セレスティーナ、そしてバルガスは――床に額を擦り付け、声にならない感動の嗚咽を漏らしていた。
「……見ましたか、エレノア」
セレスティーナが震える声で囁く。
「地上から五千メートルの成層圏へ、果実の弾丸を撃ち込み、気象そのものを書き換えて敵の師団を無力化されましたわ……。しかも、一歩もあの四角い聖域から出ることなく……!」
「ええ……!」
エレノアは手帳を胸に抱きしめ、狂気の笑みを浮かべた。
「『足が冷えたんだよ』……! なんという深淵の神託……!
あのお方にとって、一国の軍勢による空爆作戦など、足先の温度をコンマ数度狂わせる『不快な雑音』に過ぎなかったのです!
そして、あのミカン……! 敵を殺害せず、温風とアロマで戦意を喪失させて追い返すという、絶対強者の圧倒的なる慈悲……!!」
「うおおおおおおおおっ……!」
バルガスが漢泣きし、床を拳で叩いた。
「ついていくぜ……! 俺は一生、あのお方のこたつの番犬として生きていくぜェッッ!!」
狂信者たちの誓いが、静かな部屋に熱く満ちていく。
――だが、眠りについたソラは、まだ知らなかった。
北方竜騎士帝国をミカン一発で撃退したという凶報が、今度は西方の古代文明信奉国家『クロックワーク機巧都市連合』を震撼させ、「神竜帝の保有する未知の熱源兵器(※こたつ)を強奪すべく、無人カラクリ軍団が帝都へ進撃を開始した」という更なる厄災を引き寄せることなど。
こたつから一歩も出たくない少年の、世界を巻き込んだ超省エネ防衛戦は、まだ始まったばかりだった。




