三:足先の冷気と、不機嫌な神
寝室の窓枠が、ピキピキと音を立てて凍結していく。
室内を温めていた暖炉の火が、高空から吹き下ろす異常な冷圧によってフッと消し飛んだ。
室温が、二十度、十度、五度と、恐ろしい速度で急降下していく。
そして――。
こたつ布団の奥深く。
至高の温もりに浸っていたソラの、無防備に投げ出されていた右足の爪先に。
ヒュッ……と、布団の裾のわずかな隙間から侵入してきた、一筋の冷たい隙間風が触れた。
ピトッ……。
「……………………っ!?」
こたつの中で、ソラの全身がビクゥッッ!!と跳ね上がった。
(つ、冷たっっっっっっっっっっっっ!!!!)
ソラは目蓋をカッと見開いた。
足の親指。ほんの爪の先。そこに、氷水を直接垂らされたような痛烈な冷気が直撃したのだ。
(何!? なんなの!? こたつの中に隙間風が入ってきたんだけど!?
どこから!? 布団がめくれてるの!? ていうか部屋の中、なんで息が白くなるほど寒くなってんの!?)
ソラはガバッと顔を上げ、周囲を見渡した。
窓ガラスは真っ白に凍りつき、部屋の隅の観葉植物はカチコチに凍結。
そして、頭上の天井を突き抜けて、外から「グオオオオオッ!!」という巨大なトカゲの咆哮と、鼓膜を揺らす猛吹雪の風切り音が轟いてきていた。
うるさい。
寒い。
何より、せっかく下半身を極楽の温度に保っていたのに、外気全体が冷え切ったせいで、こたつの熱が奪われ始めている。
(……許さん。絶対に許さんぞ)
ソラの脳内で、理性のタガが派手に弾け飛んだ。
第一巻の暗殺者? どうでもいい。
第二巻の窓割り特攻? 弁済させたから許した。
だが――「こたつに入っている人間の足先に隙間風を当てる」という行為だけは、人類の尊厳に対する宣戦布告であり、いかなる神仏であっても許されざる重罪であった。
ソラの顔面から、すべての生気が消え去った。
表情筋はマイナス四十度。
死んだ深海魚のような瞳に、底知れぬ漆黒の殺意が灯る。
「……おい」
低く、地を這うような怨嗟の声が、こたつの中から漏れ出た。
「ひっ……!?」
部屋の隅に控えていたセレスティーナとエレノア、そしてバルガスが、一斉に直立不動の姿勢を取った。
室内の気温は氷点下のはずなのに、ソラの周囲だけ、空間が熱ではなく「純粋な質量」で歪んでいるのが肉眼で見えた。
「マ、マスター……!?」
バルガスがガタガタと歯を鳴らす。
「北方の竜騎士帝国が、百頭の氷雪竜を引き連れて帝都の上空に――」
「……知るか」
ソラはバルガスの言葉をバッサリと切り捨てた。
誰が攻めてきたかなど、ミカン一個分の価値もない。
ソラにとって重要なのは、ただ一つ。
「足が冷えたんだよ」
その一言。
寝起きで喉が掠れていただけの、ただの不機嫌な愚痴。
だが、その声に含まれた純度百パーセントの怒りは、室内の空気を物理的に圧縮し、床の絨毯をギシギシと軋ませた。
ソラは、こたつから出る気など微塵もなかった。
一度入ったこたつから出るくらいなら、死んだほうがマシだ。
しかし、外の寒波をどうにかして止めないと、こたつの中が冷えてしまう。
ソラは、だるそうに右手をこたつ布団の隙間から引っ張り出した。
そして、天板の上に転がっていた「三個のミカン」のうち、一番皮が硬くて酸っぱそうなやつを一つ、無造作に手に取った。
(……あー、もう! 上の風を止めろ! 暖かい空気を逃がすなよ!!)
ソラは心底鬱陶しそうに、右手首をクッとひねり、持っていたミカンを、凍りついた窓の隙間――わずかに開いていた換気用の小窓へ向けて、ピッと放り投げた。
本当に、ただの八つ当たりだった。
部屋のハエを追い払うために丸めたティッシュを投げるような、完全なる脱力スナップ。
だが――。
幼少期の地獄訓練により、ソラの関節は「最小の筋力で最大の初速を生み出す」ように呪われていた。
さらに、ソラのスプーン一杯の極小魔力が、「ミカンを絶対に潰さず、空気抵抗をゼロにして最速で風穴を塞ぐ」というケチな一心から、ミカンの外皮の分子結合へと超高密度に浸透。
オレンジ色の果実が、ダイヤモンドの硬度と、神代の光速粒子砲の性質を同時に獲得した。
シュッ――。
音すらなかった。
ソラの指先から放たれた一個のミカンは、凍りついた小窓の隙間をすり抜け、重力と大気の摩擦を完全に無視した無回転の光条となって、五千メートル上空の成層圏へと一直線に消え去っていった。




