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エピローグ:逃げ場なき玉座と、深淵の溜息

ガレリア海洋カルテルの特使団がパンツ一丁で帝都の港へ飛び込み、全裸で海を泳いで本国へ逃げ帰った奇行パレードから、三日。

帝都ルミナリアは、もはや一つの都市という枠組みを完全に超越していた。

大陸全土の測量士、魔導通信士、そして各国の全権使節団が昼夜を問わず走り回り、ヴァルハイト公爵邸の周囲十里には「ソラ様の睡眠波形を感知して振動を相殺する超巨大免震結界柱」が三百六十本、国庫の予算を湯水のように注ぎ込んで建立されていた。

中央広場に新設された巨大な大理石のモニュメントには、大陸の新たな地図が黄金のレリーフで刻まれている。

北は帝国の肥沃な大地。

東は聖皇国の霊峰と全修道院。

南の国境地帯には新発見の超巨大マナ結晶鉱脈。

そして西には、カルテルが全航路の通行権を無条件で差し出した果てなき大海原。

そのすべてを包括する領土の真ん中に、これ見よがしに彫り込まれた文字はただ一つ。

【神竜帝ソラ・ヴァルハイト閣下・絶対安寧統治領域】

(※注:本領域内における一切の騒音、不要な労働の強要、およびマスターの安眠妨害は、大陸統一法第一条により極刑に処す)

街行く民衆は、そのモニュメントの前に差し掛かるたびに恭しく平伏し、

「ああ、今日も世界が平和なのは、公爵邸でソラ様が健やかに寝返りを打たれているおかげだ……」

と涙を流して拝み倒すのが帝都の新たな朝の風物詩となっていた。

だが。

その「世界の中心」たるヴァルハイト公爵邸の最上階。

『天帝の涙硝子』で覆われ、完全無音と適正湿度五十五パーセントが保証されたはずのキングサイズベッドの上で――。

「……う、うう……うわぁぁぁぁぁぁぁんッッッッ!!!!」

ソラ・ヴァルハイト(十九歳・無職希望・大陸の絶対覇王)は、掛け布団を頭から被ったまま、枕に顔を埋めて本気の号泣をかましていた。

シーツを両手で激しく叩き、足をバタバタと暴れさせる。二十代手前の青年とは思えぬ、純度百パーセントの駄々っ子じみた絶望の雄叫びである。

「なんでだよぉぉぉぉぉッ!? なんでこうなるんだよぉぉぉぉぉッッ!!」

ソラは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を布団から引きずり出し、ベッドサイドの絨毯の上に広げられた「悪夢の縮図」を見下ろした。

床が見えない。

見渡す限り、金箔と白銀で縁取られた羊皮紙の巻物、各国の最高主権譲渡書類、そして教皇と皇帝とカルテル最高評議会の血判が捺された契約書の山、山、山。

『帝国北方三十万将兵・完全私兵化委譲書』

『聖皇国全教会・ソラ様直属宗教特区指定令』

『国境神代マナ結晶鉱脈・全利権永久帰属証』

『ガレリア海洋カルテル全商船団・マスター直属運搬船指定書』

「おかしいだろッ! 誰がどう見てもおかしいだろこれッ!!」

ソラは自らのボサボサ頭を両手で激しく掻きむしった。

「僕はただ……! 窓が割れて寒かったから『閉めろ』って言っただけだよ!?

そしたら聖女が泣きながら僕(しもべ)になって!

二人を部屋から追い出したくて適当な書類のチェックを投げたら、二つの国が合併して!

夢の中でポトフの焦げ付きが邪魔だったから『底の硬いやつ掘り出せ』って呟いたら、国境が爆破されて世界最大のマナ鉱山が湧き出て!

日向ぼこしてたら金ピカの服が眩しかったから『脱いで海で泳いでろ』って愚痴ったら……なんで海の商業覇権まで僕の財布に入ってきてるんだよぉぉぉッッ!!」

あまりの理不尽に、ソラの胃液が逆流しかけた。

一歩も外に出ていない。

指先を動かしたのは、小説を持ち上げたのと、空き瓶を足で小突いたのだけだ。

消費したカロリーは、通算してもアンパン一個分にも満たない。

それなのに、なぜだ。

なぜ、寝室のベッドの上でゴロゴロと芋虫のように転がっていただけで、「陸・海・宗教・経済・軍事のすべてを手中に収めた完全無欠の専制君主」になってしまっているのか。

(……逃げたい)

ソラは青ざめた顔で、部屋の隅を見つめた。

(もう無理だ。こんな恐ろしい場所に一秒もいられるか。

夜逃げだ。今夜、着替えのパジャマと財布だけ持って、人里離れた未開の無人島か深山幽谷の洞窟へ逃げよう。

そこで名前を捨てて、一生誰にも見つからずに、一人で静かに暮らすんだ……!)

そう決意し、ソラがベッドから足を下ろそうとした――その刹那。

カチャリ……。

音もなく、特注の防音扉が開いた。

現れたのは、もはや神話の女神官のような神々しいオーラを放つセレスティーナと、帝国の真の支配者めいた冷徹な笑みを湛えたエレノアだった。

二人の背後には、最新の世界地図を広げたバルガスが、肩を怒らせて控えている。

「おはようございます、我が至高の主よ」

セレスティーナが深々と頭を垂れ、翡翠の盆に載せられた黄金の鍵を差し出した。

「マスターの深遠なる御指示により、大陸全土の街道、港湾、航路の整備計画が完了いたしました。これにより、マスターが世界のどこへ行幸されようとも、半径百キロ以内の全生物が沈黙し、最上の羽毛ベッドが即座にテレポート配備される【全大陸・即時睡眠インフラ】が完成いたしましたわ」

「……は?」

ソラの足が、床の数センチ上でピタリと止まった。

エレノアが眼鏡のブリッジをキチ……と押し上げ、無慈悲な事実を告げる。

「なお、マスターの偉大なる御威光を恐れた未開地帯の蛮族諸侯、および深山幽谷の隠者集団、南海の孤島に潜む海賊連盟に至るまで……今朝方、マスターの『絶対不可侵領域』への無条件服従誓詞を提出いたしました。

現在、この大陸および周辺海域において、マスターの主権と監視が及ばない土地は、文字通り『一平方センチメートルたりとも存在しません』」

「………………………………え?」

ソラの視界が、真っ白に明滅した。

無人島? ――すでにソラの領土である。

深山幽谷の洞窟? ――ソラの安眠のために暖房設備が完備されている。

隣国? ――昨日、無血合併された。

逃げ場が、ない。

どこへ逃げようと、そこは自分の土地であり、一歩足を踏み出せば数万の民衆と騎士団が「ソラ様が我が辺境へ微睡みに来られたッ!!」と狂喜乱舞して平伏してくるのだ。

完全なる包囲網。

退路の完全消滅。

世界を征服し尽くしてしまったがゆえに、世界中のどこにも「ただの無職」として隠れ潜む場所がなくなってしまったのだ。

「……マスター?」

セレスティーナが小首を傾げ、心配そうにエメラルドの瞳を潤ませる。

「どうかされましたか? そのように虚空を見つめ、全身の力を抜かれて……」

「……ふふ、セレスティーナ、貴女にはまだ見えないのですか」

エレノアが恍惚のため息をもらし、手帳を胸に抱きしめた。

「マスターのあの虚無の眼差し……。全世界を掌中に収め、あらゆる争いを地上から消滅させたというのに、歓喜すら浮かべない……!

そう……あのお方にとって、大陸統一など『ただの通過点』に過ぎないのです!

あのお方の深淵の御心は、すでに現世の枠組みを越え、星々の運行、天上の神々の領域へと向けられているのですよ……!!」

「まあ……! なんという深遠……なんという果てなき怠惰の極致……!!」

二人の狂信の炎が、寝室の中で美しく燃え上がっていく。

その狂気の讃美歌のただ中で。

ソラは、ゆっくりと、力なくベッドの上へと崩れ落ちた。

掛け布団を鼻先まで引っ張り上げ、ミノムシのように固く固く身を丸める。

(……もう、いい……)

ソラの目から、一筋の諦めの涙がツツツとシーツへと吸い込まれていった。

(……僕は、寝る。

外で世界がどうなろうと知るか。

誰がひれ伏そうと、何が併合されようと……僕は絶対に、このベッドから一歩も出ないぞ……。

頼むから……頼むから、明日の朝は……静かに目覚めさせてくれよ……)

少年の切実極まる祈りは、しかし、枕元に控える狂信者たちによる「明日はどの国を併合してマスターに捧げましょうか」というヒソヒソ声の謀議によって、無慈悲にも掻き消されていくのだった。

世界最強の無気力青年が、サボりたい一心で世界を統べる神になってしまう受難の物語――その泥沼の覇道は、まだまだ終わる気配を見せない。

あとがき

全国津々浦々の「休日にアラームを全解除してベッドの中で液体化している同志」の皆様、お待たせいたしました! そして平日から身を粉にして働いておられる崇高な社会人の皆様、肩の力を抜いて今すぐ布団にダイブしてください、こんにちは!

本作『深淵の怠惰 〜無能と蔑まれた公爵子息、適当に動いたら絶対無敵の怪物として崇拝される〜』第2巻を最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました!!

さて、第1巻のあとがきで「第2巻では聖女様が窓を破って突入してきますよ!」と予告いたしましたが……フタを開けてみたら、第1巻を遥かに上回る大惨事(※主にソラの胃腸と安眠的な意味で)になってしまいました。作者自身、書きながら「おいおい、第2巻にして早くも大陸の半分がソラの私有地になっちまったぞ!? これ全8巻の構成どうすんだよ!?」と頭を抱え、冷や汗をダラダラ流しながらキーボードを連打しておりました。

今巻のMVPを挙げるなら、間違いなく新ヒロイン(?)のポンコツ退魔聖女セレスティーナ様でしょう。

初登場時は「神罰の刻は満ちたり!」と身の丈ほどもある大十字架を担いで窓ガラスを粉砕(※弁済額:金貨百枚)し、歴代最強の霊媒として超カッコよくキメてくれたはずだったのですが……ソラが「寒風除け」に掲げた三文小説のハードカバーの角で渾身の剛撃を受け止められた瞬間、彼女の信仰心と理性のブレーカーが派手に消し飛びました。

そこからの転落……否、狂信のアクセルベタ踏み暴走劇は、もはや作者の手にも負えませんでした。

エレノアとの不毛極まりない「どっちの飲み物が二度寝に適しているか」マウント合戦に始まり、ソラが「うぜえから部屋から出ていけ」と投げた適当な宿題を「帝国と聖皇国の完全法制合一令」という国家解体レベルの怪文書へ昇華させ、最後には自国の最高指導者である教皇猊下に「逆らったら王都ごと地図から消しますよ?」と爽やかな笑顔で脅迫をかます始末。聖女様、あなたの清廉潔白な教義は一体どこの次元へログアウトしてしまったのですか!?

そして、第2巻のハイライトといえば、間違いなく第四章の『寝室スルー型(ドライブスルー形式)拝謁式』と、第五章の『キャベツ日向ぼこ事件』です。

パジャマ姿でサナギのように丸まって寝ている青年の足元を、歴戦の将軍や大貴族たちが息を殺してベルトコンベアのように通り過ぎ、「寝返りの角度に神託を見た!」「寝息のリズムから軍略を悟った!」と涙を流して国家主権をバスケットに放り込んでいく光景……。書いていて「これ何の儀式だよ!!」とセルフツッコミが止まりませんでした。

さらに、ソラが夢の中で「ポトフの底の焦げ付きが邪魔だから掘り出せ」と呟いた寝言が、なぜか国境の古代大鉱脈爆破発掘へと超解釈され、庭でキャベツを頭に乗せて寝ていただけなのに、海の商業カルテルの大商人が「強欲の皮を脱げという神の啓示だァッ!」と勘違いして全裸で港へ激走していく始末。

ソラ「寒いからどいて」(意訳:マジで視界から消えて)

セレスティーナ「『貴様の光など私の深淵を照らす価値もない』という神の宣告……ッ!?(平伏)」

ソラ「底の硬いやつ掘り出せ」(意訳:鍋の焦げ付き邪魔)

両国工兵隊「国境の岩盤を発破しろォォッ!!(大油田発見)」

ソラ「全部脱いで海で泳いでろ」(意訳:金ピカの服が眩しいあっち行け)

大商業連合「全裸で海へ飛び込みますゥゥッ!!(海の全利権接収)」

……ソラくん、君は前世でどんな大罪を犯したら「寝言と八つ当たりだけで世界を統一してしまう」という呪いにかかるんだい?

エピローグで判明した通り、もはや逃げようにも「地球上のすべてが自分の土地」になってしまい、夜逃げすら物理的に不可能となったソラくんの哀愁漂う涙には、作者からも心からの同情(と爆笑)を禁じ得ません。

さて、怒涛の勢いで幕を閉じた第2巻ですが、物語の歯車は止まるどころか、もはや摩擦熱で発火しながら回転しております!

続く第3巻では――陸と海と宗教を制覇されたことで危機感を募らせた「大陸北方の極寒の竜騎士帝国」と、古代文明の遺産を信奉する「狂気の機巧都市国家」が、ソラの安眠を脅かすべく連合軍を結成して攻め込んできます!

もちろん、当のソラは「こたつから一歩も出たくない」という理由だけで、またしても世界を揺るがす適当采配を炸裂させる予定です。

最後に、ソラのどうしようもない自堕落と、周囲のブレーキの壊れた勘違い劇を温かく笑って見守ってくださった最高の読者の皆様に、心からのビッグ・サンクスを!

皆様の応援のおかげで、ソラくんの二度寝の旅はまだまだ続きます!

それでは、また第3巻の『こたつの中の絶対神編』でお会いしましょう!

(私もこれから、ソラを見習って頭にキャベツを乗せ、ハンモックで丸二日ほど意識を飛ばしてまいります。探さないでください……zzz)

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