五:キャベツの温もりと、深すぎる絶望
夕暮れ時。
ひんやりとした秋の風が、中庭の木々を揺らしていた。
「……んぁ……寒っ……」
キャベツの葉っぱの隙間から、ソラがようやく目を覚ました。
顔の上に載っていたキャベツは、体温で温まってすっかりシナシナになっていた。
ソラはキャベツを放り出し、ハンモックの上でむくりと起き上がった。
よく寝た。耳栓をしていたおかげで、途中から驚くほど静かになり、夕方まで一度も起きずに済んだのだ。
(……ふぅ。静かになったな。やっぱり文句は言ってみるもんだ。あの金ピカのブタ、ちゃんと帰ったみたいだし)
ソラは満足げに伸びをしながら、ハンモックから足を下ろした。
スリッパを履こうとして――その動きが、完全に停止した。
「……は?」
ソラの視界に飛び込んできたのは、夕陽を浴びて黄金色にギラギラと輝く、中庭の芝生だった。
散乱する金糸の絹服。
転がる数十個の巨大な宝石の指輪。
山積みにされた金貨の袋。
さらには、百人分の黒鉄の甲冑とハルバードが、まるで戦勝記念のモニュメントのように美しく積み上げられていた。
「な……何これ……?」
ソラは呆然と立ち尽くした。
「え? 泥棒の隠れ家? なんで僕の家の庭に、服と宝石が散らばってんの……?」
恐る恐る足元の宝石を拾い上げようとした、その瞬間。
「マスター・ソラァァァッッッ!!!!」
廊下から駆け戻ってきたエレノアとセレスティーナが、満面の笑みでソラの前に滑り込んできた。
エレノアの手には、カルテルが残していった『無条件全権譲渡証書』が握られている。
「ご安心ください、マスター! ガレリア海洋カルテルの全特使、ただいま帝都の港から全員海へ飛び込み、禊を完了いたしました!」
「カルテルの全海路、および海洋銀行の資産三割が、マスターの『寝具アップグレード基金』として正式に組み込まれましたわ! これで、大陸の東も西も、海も陸も……すべてマスターの微睡みの掌の上です!」
「……へ?」
ソラの喉から、乾いた掠れ声が漏れた。
(海へ……飛び込んだ……?
全財産……?
海も陸も……僕の掌の上……?)
ソラは、手にしたシナシナのキャベツの葉っぱを見つめ、それから庭に積み上がった黄金の山を見つめた。
思考が、完全に停止した。
(……なんで????)
ただ、服が眩しかったから「脱げ」と言っただけだ。
ただ、うるさかったから「海で泳いでろ」と言っただけだ。
なぜ、昼寝をして起きたら『大陸の海運と国際金融の支配者』になってしまっているのか。
「あ、あのさ……エレノアさん……」
ソラはガタガタと震えながら、引き攣った笑みで尋ねた。
「僕……ただの……無職の引きこもりになりたいって……言ったよね……?」
エレノアは眼鏡をクイと押し上げ、神々しい笑みを浮かべた。
「ええ、重々承知しております! ですから、カルテルの全商船には『マスターの安眠を乱さぬよう、航行時は一切の汽笛を禁ずる』という国際法を適用いたしました!
世界中の海が、マスターのために静まり返っておりますので、どうぞ心ゆくまでお眠りください!」
「そういう意味じゃねええええええええええッッッッ!!!!」
少年の悲痛極まる絶叫が、夕暮れの空へと吸い込まれていった。
何もしないどころか、庭でキャベツを乗せて寝ていただけで、大陸の海を完全制覇してしまった深淵の怪物は、今夜もまた、増え続ける富と権力に怯えながら、冷え切った布団へと逃げ込むしかなかったのである。




