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二:布団の怪異と、平伏する列強

寝室の中央。

天蓋付きのキングサイズベッドの上には、頭からすっぽりと掛け布団を被り、まるで茹で上がったサナギのように丸まったソラの姿があった。

見えるのは、ボサボサに跳ねた黒髪の毛先数センチと、シーツの上に投げ出された無防備な右足の親指だけである。

「……すぅ……すぅ……」

規則正しく、ひどく平和な寝息が部屋に微かに響いている。

(……うるさいな。なんか外がカサカサ言ってるけど……まあ、部屋の中は静かだからいいや……)

ソラは完全に夢の世界の住人だった。

昨夜、エレノアが「寝たままでいい謁見式を作りました!」と喚いていた記憶はあるが、起きる気など微塵もないソラは「勝手にしろ、起こしたら殺す」とだけ言い残して意識を手放したのだ。

まさか本当に、自分のベッドの足元を、国家の最高権力者たちが数千人規模で行列を作って通り過ぎているとは夢にも思っていなかった。

「お、おお……っ……!」

最初にベッドの脇を通過したのは、ロストキア聖皇国の筆頭枢機卿――御年七十の厳格な大聖職者だった。

彼は指示通り、息を限界まで止め、足裏を床に擦り付けるようにしてベッドの横へと進み出た。

そして、布団の隙間から覗くソラの「無防備な寝相」を目にした瞬間――老枢機卿の魂は、強烈な衝撃波に貫かれた。

(な、なんという……なんという神々しさだ……ッ!)

老枢機卿の目から、止めどない涙が溢れ出た。

しかし、声を出せば即座に首が飛ぶため、彼は自らの唇を血が出るほど噛み締め、両手で口を覆いながら必死に嗚咽を押し殺した。

(呼吸が……完全に自然の大気循環と一致している……!

身じろぎ一つせず、ただ丸まっているだけに見えて、その実、あらゆる急所を羽毛布団の厚みで完全に隠蔽し、四方八方からの暗殺線を受け流す『無の構え』……!

これこそが……聖典に記されし、天地創造の前の『太古の混沌の微睡み』……!!)

老枢機卿は、持参していた「聖皇国領内の金鉱山三カ所の無償譲渡証書」を、震える手でベッド脇の黄金バスケットへ音もなく滑り込ませた。

そして、床に額を擦り付けるような超低姿勢の摺り足で、感動に肩を震わせながら出口へと去っていった。

続いて現れたのは、先ほど不敬を働きかけた帝国北方軍のブラッドレイ大将だった。

彼は疑心の目を隠さずにベッドへ視線を向けた。

(フン……どれほどの怪物かと思えば、ただの若造がパジャマで寝ているだけではないか。天下の軍部がこのような茶番に――)

そう思い、足を踏み出した、まさにその刹那。

モゾッ……。

ソラが、掛け布団の中でわずかに寝返りを打った。

ただの寝返りだった。

右肩が少し凝ったので、左側へ体重を移動させただけ。

だが――ソラの身体は、幼少期の過酷な実戦訓練により「無意識の動作ですら、大気の抵抗を完全にゼロにする最短螺旋軌道」を描いてしまう。

シュッ……。

寝返りの拍子に、布団の裾がわずかに持ち上がり、そこから漏れ出た「極小の寝起きの余剰魔力」が、微風となって室内の空気をわずかに揺らした。

「――ッッ!?」

ブラッドレイ大将の足が、その場に縫い止められた。

背筋を、巨大な氷の竜の爪で撫で下ろされたような、圧倒的な死の悪寒。

(ば、馬鹿なッ!? 今の身じろぎ……!

我が北方軍団の必殺陣形『蒼氷の鶴翼』の弱点である、左翼第七中隊の展開角の死角を……完全に突く角度で足先が動いたぞ……!?

無意識の寝返り一つで、我が軍の戦術ドクトリンを完膚なきまでに論破してみせただと……!?)

百戦錬磨の将軍の額から、大粒の汗がドッと噴き出した。

膝がガクガクと震え、立っていることすら困難になる。

(底が知れん……! この男、眠りながらにして……帝国の全軍の配置を、頭の中のシミュレーションで一瞬にして解体し、再構築しているのか……!!)

ブラッドレイ大将は恐怖と敬服のあまり白目を剥きかけながら、懐から「北方軍団全軍の緊急出兵要請権を委ねる白紙委任状」を取り出し、バスケットへ震える手で放り込んだ。

そして、這いつくばるようにして部屋を脱出していった。

こうして、各国の王族、大貴族、歴戦の勇士たちが、

「寝息のリズムから神託を読み取った」

「布団の皺の寄り方に大陸統一の軍略を見た」

と勝手に打ちのめされ、涙を流しながら金銀財宝と主権譲渡書類を山積みに投函していくという、狂気のパレードが延々と続いた。

三:奇跡の寝言と、泥沼の深読み

謁見開始から三時間が経過した、午後二時。

すでに黄金バスケットは溢れかえり、ベッドの周囲には各国の最高機密書類や領地目録が、まるで供物の壁のように積み上がっていた。

通過者の数は八百人を超え、列の最後尾には、疲れ果てた帝国宰相カルルと、神聖空気清浄器の香煙でラリりかけた教皇インノケンティウス七世が並んでいた。

その時である。

「……んぅ……」

ベッドのサナギが、不意にもぞもぞと身悶えを始めた。

ピキィィィンッ……!!

室内の空気が一瞬で凍結した。

エレノアが息を呑み、セレスティーナが大十字架を構え直す。

列をなしていた貴族たち数百人が、一斉に心臓を止めてベッドを凝視した。

(お、お目覚めになられるのか……!?)

(神竜帝の口から、ついに大陸の未来を決定づける第一声が下されるのか……!?)

誰もが息を殺し、唾を飲み込むことすら忘れていた。

部屋全体が、世界の命運を分ける臨界点へと突入する。

そして――。

羽毛布団の隙間から、ソラの、寝ぼけ眼の掠れた声が、ぽつりと零れ落ちた。

「……むにゃ……あぁ……もう……」

ソラは、夢を見ていた。

夢の中で、彼は最高に美味しそうなポトフを煮込んでいた。

しかし、鍋の底をかき混ぜようとした瞬間、おたまの先が何かに引っかかって動かなくなってしまったのだ。

不快だった。具材が焦げてしまう。早く何とかしたかった。

夢の中の苛立ちのまま、ソラは掛け布団を鼻先まで引っ張り上げ、心からの寝言を呟いた。

「……底の……硬いやつを……全部、掘り出せよ……。邪魔なんだよ……」

(鍋の底の焦げ付き、邪魔だから早くゴリゴリ削り落としてくれよ、母さん……)

そう呟くと、ソラは満足げに「ふぁ……」と小さく息を吐き、再び深い深い眠りの底へと沈んでいった。

静寂。

寝室を支配したのは、あまりにも意味深で、あまりにも不気味な沈黙だった。

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