二:国境会談の緊迫と、国家元首たちの胃痛
同じ刻。
帝国とロストキア聖皇国の国境線上に位置する中立都市――『聖竜の天秤座』。
両国の国旗が翻る迎賓館の最上階「水晶の間」には、胃に穴が空きそうなほどの重苦しい沈黙が立ち込めていた。
テーブルの西側に座るのは、帝国宰相カルル・フォン・リヒター。
帝国全土の政治を牛耳る冷徹な鉄血宰相だが、現在の彼の顔色は、まるで一週間水に浸かった死体のように青白かった。手元の胃薬の包み紙が、すでに机の上に小山を作っている。
対する東側に座るのは、ロストキア聖皇国の最高指導者――教皇インノケンティウス七世。
八十歳を超える高齢でありながら、大陸最大の信徒数を束ねる聖なる権力者。しかし、純白の法衣に身を包んだその老躯は、まるで冬の枯れ木のようにガタガタと小刻みに震えていた。
「……カルル宰相」
教皇が、掠れたしわがれ声で沈黙を破った。震える指先で、胸の銀のロザリオを握りしめている。
「単刀直入に問う。我が聖皇国の最高戦力たるセレスティーナ聖女が、貴国のヴァルハイト公爵邸に潜入したきり、消息を絶って三日……。我が情報部によれば、彼女はあの男……『空を割った怪物』ソラ・ヴァルハイトの寝室に幽閉され、精神を完全に組み替えられたとの報が入っておるが……これは事実か?」
「幽閉……? 組み替え……?」
カルル宰相は苦虫を十匹噛み潰したような顔で、こめかみを強く揉みほぐした。
「我が方の報告では、貴国の聖女殿はマスター・ソラの部屋の窓を派手に粉砕して突入し、文庫本の角で一撃のもとに調伏された後、自ら『僕になります』と叫んで公爵邸に住み着いたと聞いているが?」
「な、なんじゃと……!?」
教皇の背後に控える枢機卿たちが、一斉に泡を食ってざわめいた。
「文庫本で……神代の大十字架を……!? あ、あり得ん……! 我が聖皇国の至宝たる聖女を、市販の紙束で洗脳したというのか……!?」
「洗脳されたのはこっちの優秀な筆頭監査官も同じだッ!」
カルル宰相が耐えかねて机を叩いた。
「あいつら二人、今や『どちらがよりマスターの睡眠を甘やかせるか』という狂気の宗教戦争を屋敷の中で始めおったのだぞ! 皇帝陛下すら『ソラ様の安眠を妨げるな』と怯えきり、軍部も手が出せん! そのせいで、帝国の政務機能の三割が麻痺しているのだ!!」
「お、恐ろしい……」
教皇が脂汗を流し、十字を切る。
「自らは一歩もベッドから出ず、敵対国の最強戦力と自国の最高頭脳を同時に信徒化し、手駒として手元に侍らせるとは……。ソラ・ヴァルハイト……なんという魔性の深淵……!!」
両国のトップが、互いに自国の胃痛の種をぶつけ合い、絶望の深淵を分かち合っていた――その時だった。
ドガァァァァァァァンッッッッ!!!!
迎賓館の重厚な二重扉が、蝶番ごと弾け飛んだ。
吹き飛ばされた扉の破片が、近衛兵たちの頭上を飛び越えて壁に深々と突き刺さる。
「ヒッ……!? 敵襲かッ!?」
「防壁を展開――」
混乱する室内。だが、硝煙と木屑の煙を突き破って堂々と闊歩してきた二つの影を見た瞬間、カルル宰相と教皇は、揃って目を剥いた。
「……セ、セレスティーナ……!?」
「エレノア……!? なぜ貴様らがここに――!?」
三:怪文書の炸裂と、大併合の悪夢
姿を現した二人は、一言で言えば「完全な修羅」だった。
ボサボサの髪、血走った眼、ボロボロの衣服。
しかし、その全身から立ち上る魔力と気迫は、神魔大戦の覇王すら圧倒するほどの純度を誇っていた。
ドォォォォンッ……!!
エレノアが、抱えていた辞書大のバインダーを、カルル宰相と教皇のちょうど中間のテーブルへ、親の仇のように叩きつけた。
大理石の机にピシリと亀裂が走る。
「……両国の指導者の方々、お初にお目にかかります」
エレノアが、狂気の笑みを浮かべて眼鏡を光らせた。
「我が主、神竜帝ソラ・ヴァルハイト様より、貴方がた現世の矮小な権力者たちへ向けて、至高の託宣を預かってまいりました」
「な……託宣……?」
カルル宰相が喉を鳴らし、震える手でその分厚い書類を引き寄せる。
教皇も身を乗り出し、老眼鏡を鼻先に引っ掛けながらその表紙を覗き込んだ。
「ひっ……!?」
表紙の題名を見た瞬間、教皇の喉から引き攣った悲鳴が漏れた。
『神竜帝の絶対不可侵的微睡みを永劫に担保するための、帝国・聖皇国包括的法制宗教完全合一令(案)』
「な……なんじゃ……なんじゃこの題名はァッ!?」
「お読みなさい、教皇猊下」
セレスティーナが、神々しい(そして狂気に満ちた)笑顔で一歩前に出た。
「我が敬愛するマスター・ソラ様が、ベッドの上で欠伸を噛み殺しながら下された至高の命令です。
『二人の意見が一言一句狂いなく一致するまで、書類を持ってくるな。邪魔したらクビだ』と……!」
セレスティーナの透き通るような美声が、迎賓館に厳かに響き渡る。
しかし、その内容は聞く者すべての脳髄を粉砕する破壊力を持っていた。
「マスターは仰せになられました! 帝国と聖皇国が、くだらぬ国境線や教義の違いで小競り合いを続け、騒音を立てる現世の愚かしさを憐れまれたのです!
『私の眠りを邪魔するな』……それはすなわち、『貴様ら両国が一切の争いをやめ、完全に一つに融合して恒久の平和を差し出せ』という、絶対神の無血統治宣言に他なりません!!」
「ご、ご、合一……!? 両国の完全融合だとォッ!?」
カルル宰相が叫び、バインダーのページを狂ったようにめくった。
そこに書かれていた条文は、あまりにも緻密で、あまりにも悪魔的だった。
第一条: 帝国および聖皇国の全関税を即座に撤廃し、通貨を『神竜帝ソラ様印の金貨』に一本化する。
第十四条: 聖皇国の全修道院および教会の保有地を、ギルドの治外法権特区とし、税率を零とする。
第四十二条: 両国の軍事最高指揮権を『銀翼の天秤』ギルドマスターに永久委譲し、両国軍は『マスターの安眠警備隊』として再編する。
第百八条: 本法案に違反し、マスターの半径十里以内で騒音を立てた者は、国家反逆罪および神託冒涜罪により即座に終身刑とする。
「な……な……な……ッ!?」
カルル宰相の手が激しく痙攣し、書類を落としそうになった。
「ば、馬鹿なッ! これは……これは平和条約などではない! 帝国と聖皇国の主権を同時に解体し、ソラ・ヴァルハイトというたった一人の青年の下に、大陸の半分を丸ごと無血併合する悪魔の国家解体法案ではないかッ!!」
「その通りです、宰相」
エレノアが冷酷に告げた。
「文句がおありですか? マスターは『一言一句狂いなく一致させろ』と命じられました。すでに私と聖女の署名は完了しております。あとは貴方たち両国の元首が調印するだけです」
「できるわけがあるかァッ!!」
教皇が立ち上がり、唾を飛ばして叫んだ。
「我が聖皇国の千年の信仰を……軍の指揮権を……全て一人の公爵子息に差し出せというのか!? 拒否する! 断じて拒否するぞッ!!」
その瞬間――。
セレスティーナの瞳から、すべての感情が消え失せた。
冷え切ったエメラルドの瞳が、自国の最高指導者である教皇を射抜く。
「……教皇猊下。貴方は、マスターのお怒りを買いたいのですか?」
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
セレスティーナの全身から、聖皇国の全戦力に匹敵する神聖魔力が暴風となって吹き荒れた。
迎賓館のガラスがビリビリと激しく軋み、机の上の書類が舞い散る。
「マスターは……あのソラ様は、文庫本一冊で私の神代十字架を受け止め、指先を水に浸しただけで結界を粉砕し、ただの八つ当たりで帝都上空の魔神結界を空ごと両断された御方ですよ……?」
セレスティーナは一歩、教皇へと歩み寄った。
その顔には、狂気的なまでの「慈悲」の笑みが浮かんでいた。
「マスターは仰いました。『邪魔したらクビだ』と……。
猊下……あの御方が本気で『邪魔なものを消す(クビにする)』と決断された時、この地上に何が残るとお思いですか?
聖皇国の王都など、あのお方が朝の寝返りを打つ片手間で……地図から消滅しますよ?」
「ヒィィィィィッッッ!!!!」
教皇の喉から、蛙が潰れたような悲鳴が上がった。
八十年の人生で培った威厳が、完全に決壊した。
目の前にいるのは、かつて自国が誇った清廉なる聖女ではない。
完全なる破壊神の使徒。逆らえば国ごと灰にされるという、確信に満ちた死の宣告。
「わ……分かった……! 分かったから……その殺気を収めてくれ……!」
教皇は涙と鼻水を流しながら、震える手で羽ペンを握りしめた。
「調印する……! 調印するから……どうか、どうか我が民をお救いくだされ……! ソラ様……ソラ様にお伝えしてくれ……『聖皇国は、喜んで貴方様の寝床の敷布となります』となァッッ!!」
教皇は卒倒寸前の震える手で、合一令の署名欄に血判を押しつけた。
「さあ、カルル宰相。貴方の番です」
エレノアが、氷のような笑みを浮かべてカルルを見下ろす。
「皇帝陛下はすでに『ソラ様の望むがままに』と仰せです。貴方に拒否権があるとでも?」
「う……ぐ……っ……!」
カルル宰相は胃の激痛に耐えかねて腹を押さえ、机の上に崩れ落ちそうになりながら、掠れた声で呻いた。
「……怪物め……。十九歳にして……武力も使わず、兵も動かさず……ただ女二人を部屋に呼び出し、適当な宿題を投げただけで……二つの大国を一度に呑み込みおったか……!!」
カルル宰相は自らの政治家生命の終わりを悟り、涙を流しながら、震える手で帝国の国璽をペタリと捺印した。
「……できたぞ……。これで満足か……悪魔どもめ……」
「ええ、大変よくできました」
エレノアは満足げに書類を回収すると、胸元に抱きしめた。
「これでようやく、マスターに気持ちよく二度寝していただけます」
「急ぎましょう、エレノア! マスターが目を覚まされる前に、この平和の果実をベッドサイドにお届けしなければ!」
二人は満足げに頷き合うと、気絶寸前の両国元首を放置し、疾風のように迎賓館を去っていった。
静寂が戻った水晶の間。
残されたのは、机に突っ伏してピクリとも動かないカルル宰相と、白目を剥いて泡を吹き、枢機卿たちに介抱されながら痙攣している教皇の姿だけだった。
大陸の歴史が、わずか数十分の狂乱によって、不可逆的に書き換えられた瞬間であった。




