三:深淵の行政改革(狂気の超解釈)
「……っ……! あ……あああ……ッ!!」
エレノアはその場に崩れ落ちそうになる膝を、執務机に手をついて必死に支えていた。
その青い瞳の瞳孔は極限まで開き、全身の毛穴から冷汗が噴き出している。
眼鏡の奥で、知性の回路が焼き切れんばかりの勢いでスパークしていた。
「エレノア……? 貴女、何をそんなに震えて……」
怪訝そうにするセレスティーナに対し、エレノアはガタガタと歯の根を鳴らしながら、震える指先で二つの書類の山を指し示した。
「……理解できないのですか、聖女……!? マスターが今、下された神託の真意が……!!」
「え……? し、神託……?」
「『ギルドの全案件を聖皇国の倫理基準で精査させろ』……! そして『聖皇国の全貢物をギルドの監査基準で脱税精査させろ』……!
これの意味が分からないのですか!?
帝国と聖皇国……数百年間にわたって対立し、互いの利権と宗教観の違いから血で血を洗う小競り合いを繰り返してきた二大勢力……!
その両国の行政、法、経済、宗教のすべてを、私と貴女という『両陣営の最高実務責任者』に直接擦り合わせさせることで……!!」
エレノアは両手で顔を覆い、感極まった狂乱の涙を流した。
「『帝国と聖皇国の完全なる法制統合』を、この部屋の書類仕事だけで成し遂げろと仰っているのよ……ッッ!!!!」
「な…………なんだってぇぇぇぇぇぇッッッ!?!?」
セレスティーナの絶叫が、防音ガラスの部屋に木霊した。
世界最強の退魔聖女は、大十字架を取り落とし、自らの頭を抱えて石畳へと跪いた。
「そ、そんな……! 二つの大国の法と宗教を、完全合一させる……!?
そんなこと、過去のいかなる英傑も、神魔大戦の英雄たちすら成し遂げられなかった、大陸統一の神業です……!!
それを……『意見が完全に一致するまで持ってくるな』……!?
つまり……『貴様らのくだらぬ宗派争いや利権の足引っ張り合いなど、私の前で見せるな。二国の法を完全に融合させ、真の恒久平和の盤面を完成させてから書類を持ってこい』という……!!」
セレスティーナのエメラルドの瞳から、ボロボロと大粒の悔悛の涙が溢れ出した。
「ああ……神よ……! 私は……私はなんて愚かだったのでしょう……!
『パジャマがどう』だの『飲み物がどう』だの、目先の小さな世話焼きに現を抜かしていた自分が恥ずかしい……!
マスターは……ソラ様は、寝室のベッドの上にいながらにして……大陸全土の平和秩序を、私とエレノアの二人に託してくださっていたのですね……!!」
「その通りです、セレスティーナ!」
エレノアが眼鏡を正し、凄まじい覇気を纏って立ち上がった。
「マスターは仰いました。『邪魔したらクビだ』と!
これは私たちに対する最終試験……! 二国の法制統合という至高の試練を達成できぬ無能など、ソラ様の傍らに侍る資格はないという、冷徹なる足切り宣告です!」
「受けて立ちますッ!!」
セレスティーナが聖なる光をその身に滾らせ、立ち上がった。
「行きましょう、エレノア! ギルドの会議室へ! 聖皇国の全法典と教義書を今すぐ転送させます! 貴女の持てる全知略と、我が聖皇国の全信仰をぶつけ合い……マスターが目覚められるその時までに、完璧なる『大陸統一法案』を完成させてみせましょうッ!!」
「望むところです! 三日三晩、一睡も挟まずに徹底的に叩き合いますよッ!!」
バタンッッッッ!!!!
二人は二つの巨大な書類の山を怪力で抱え上げ、まるで戦場へ赴く戦士のような凄まじい形相で、部屋を飛び出していった。
扉が閉まり、廊下の彼方へと猛スピードで遠ざかっていく二人の怒号と足音。
そして――。
完全なる、絶対的な静寂が、寝室に戻ってきた。
(………………え?)
羽毛布団の隙間から、ソラがおずおずと顔を出した。
部屋には、もう誰もいない。
耳障りな口論も、紫の静電気も、押し付けがましい飲み物のグラスも、何一つ残っていなかった。
(……行っちゃった。
え、本当に? あんな適当な無茶振りで、本当に二人とも出ていってくれたの……?)
ソラは呆然としながら、誰もいなくなった静かな部屋を見渡した。
窓の外は穏やかな秋晴れ。
防音ガラスのおかげで、帝都の喧騒は一ミリも届かない。
ベッドは温かく、空気は澄み切っている。
(……やった。やったぞ……!!)
ソラは歓喜のあまり、ベッドの上で激しくシーツをバタバタと蹴り上げた。
(大成功だ!! めんどくさい仕事を押し付けたら、本当に二人でどっか行ってくれた!!
法がどうとか統一がどうとか、また何か喚き散らしてた気がするけど、まあいいや!
あの二人が五百件の書類を全部擦り合わせるなんて、どう考えても最低一ヶ月はかかるだろ!
つまり……向こう一ヶ月間、僕はこの部屋で誰にも邪魔されずに寝放題ってことだァッッ!!)
完璧な策略。
完全なる勝利。
ソラは満面の笑みを浮かべると、枕を最高のポジションにセットし直し、羽毛布団を肩まで引き上げた。
心地よい睡魔が、全身の関節を甘やかに溶かしていく。
(あー……幸せだ……。おやすみ、僕の平穏な世界……)
ソラは満足げにいびきをかき始め、深い深い、底知れぬ微睡みの淵へと沈んでいった。
――まさか、自分が「部屋から追い出すためだけに放った適当な宿題」が、数日後、帝国と聖皇国の両政府を未曾有の大混乱に陥れ、歴史の教科書に太字で刻まれる『ヴァルハイトの大宗教経済合一令』という怪文書を生み出すことになるとは、夢の世界へと旅立ったソラには、知る由もなかったのである




