第二章:狂信の侍女たちと、眠れぬ至高神
一:居座りの聖女と、二人の狂信者
ロストキア聖皇国の至宝たる世界最強の退魔聖女が、文庫本の角ひとつで完全調伏されてから、わずか三日。
ヴァルハイト公爵邸の最上階は、かつてないほどの凶悪な緊張感に包まれていた。
粉々に砕け散ったはずの寝室の特大窓は、セレスティーナが本国の実家(公爵家相当の聖名家)を脅迫同然に動かして調達させた、聖皇国国宝級の資材――『天帝の涙硝子(あらゆる物理衝撃を無効化し、紫外線と赤外線を百パーセント遮断する神代の防魔遮光板)』によって、すでに完璧な修復を終えていた。
外からの騒音は完全にゼロ。
隙間風も一筋たりとも入らない。
理論上、ここは今や大陸で最も快適な「引きこもりシェルター」へと進化を遂げていたはずだった。
――そう、この部屋に『二人の女』さえ居座っていなければ。
「……ふふ。おどきなさい、眼鏡の女狐。マスターの喉を潤す目覚めの飲料は、このセレスティーナが聖皇国の至高霊峰より毎朝転送させている『白聖樹の露水』こそが至高です。貴女が淹れたような、カフェインで神経を昂らせるだけの安雑な紅茶など、マスターの神聖なる微睡みを冒涜する泥水に過ぎません」
ベッドの左脇。
純白の修道服の袖を優雅に捲り上げ、銀の小瓶から翡翠色のグラスへと清らかな聖水を注ぎながら、セレスティーナは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
その背後には、かすかに「キィィィン……」と神聖なオルゴールのような癒やしの幻聴が鳴り響いている。本人の魔力による環境音サービス(自動再生)である。
一方、ベッドの右脇。
漆黒の執事風スーツに身を包んだエレノアが、冷え切った青い瞳の奥に殺意の魔力光を灯しながら、眼鏡のブリッジをキチ……と中指で押し上げた。
「……耳障りな羽虫が囀っていますね。信仰しか能のないポンコツ聖女が、我が主ソラ様の深遠なる生態系を理解できるはずがありません。マスターが睡眠前に求めておられるのは、喉の渇きを潤すことなどではなく、『胃腸への負荷を零にするための、極限まで還元された糖分と電解質の超微細バランス』です。私が三日三晩かけて錬金調合したこの『無刺激・浸透圧ゼロ果汁』こそが、マスターの至高の臓腑を甘やかす唯一の解です」
「あら? 科学などという下等な人間の小細工で、神竜帝たるマスターの神域の肉体を測ろうなどと片腹痛いですね。マスターの肉体はすでに神の領域。求めるのは現世の糖分ではなく、魂を休める純粋な霊素の供給です!」
「神の領域だからこそ、肉体の恒常性を物理的に甘やかすのが侍従の義務でしょう! 精神論で誤魔化すカルト教徒は本国の修道院へお帰りなさい!」
バチバチバチバチッッッ!!!
二人の視線がベッドの真上で交差した瞬間、室内の大気がイオン化して紫色の静電気が弾け飛んだ。
片や、数々の邪神や魔獣を消滅させてきた大陸最強の聖女。
片や、三大ギルドの頂点を頭脳で牛耳る鉄の監査官。
帝国と聖皇国の最高峰の知性と武力が、「どっちの飲み物がより二度寝に適しているか」という、世界で一番くだらない理由で全力の魔力衝突を起こしていた。
そして、その激戦区のど真ん中――。
二人が差し出すグラスの挟み撃ちに遭い、羽毛布団の中でミノムシのように丸まっているソラは。
(………………死ぬ)
ソラは、掛け布団を頭の天辺まで引き上げ、シーツを噛み締めながら心の中で血の涙を流していた。
(死ぬ。確実に胃潰瘍で死ぬ。
なんで!? なんでこの聖女、僕の部屋に住み着いてるの!?
『罪を償うために一生お仕えします』とか言って、朝の五時から枕元に正座してるんだけど!?
しかもエレノアまで張り合って、執務机を僕の寝室に持ち込んできてるし……!!
うるさい! 静寂がない! 二人の殺気が凄すぎて、肌がチクチクして一秒も熟睡できないんだけどおおおおおおッッ!!)
部屋の温度は完璧。
窓も直った。
だが、人間関係のストレス指数が過去最大値を叩き出していた。
どちらか一方のグラスを受け取れば、もう片方が「マスター……! 私の忠誠では足りなかったのですね……!」と部屋の隅で世界滅亡レベルの鬱オーラを放ち始めるか、あるいは「やはり力ずくで排除するしかありませんね」と室内で戦争を始めかねない。
だからといって両方無視して寝ようとすれば、「マスターが起きられないのは室温のせい!」「いえ、枕の傾斜角度のせいです!」と、二人してベッドを寄ってたかって弄り回してくるのだ。
(頼むから……頼むから二人とも消えてくれ……! 一人で、一人だけで寝かせてくれよ……!)
ソラは疲労困憊の身体を引きずり、のっそりと上体を起こした。
寝不足で目の下にはうっすらと隈が浮き、表情筋は完全な脱力状態。
その死んだ魚のような虚無の双眸が、左右の狂信者たちを捉えた。
「……っ!」
「マスターが、起きられた……!」
セレスティーナとエレノアが、弾かれたように直立不動の姿勢を取る。
二人の眼差しには、もはや崇拝を通り越した狂気の情熱が宿っていた。




