第2巻 第一章:窓から破滅の聖女が降ってくる
一:硝子片の洗礼と、最悪の目覚め
秋晴れの穏やかな正午過ぎ。
帝都ルミナリアの最高級貴族街、ヴァルハイト公爵邸の最上階。
遮光カーテンが完璧に閉ざされた天蓋付きキングサイズベッドの中で、ソラはまさに「極上の微睡み(まどろみ)」の深淵へと意識を沈めきっていた。
皇帝から「絶対不可侵の神竜帝」などという大仰な肩書きを押し付けられたものの、結果として「誰も部屋に近づいてこない」「政務も軍務も完全免除」という、実質的な超特権的ニート生活を勝ち取ったのだ。
室温は二十二度、湿度五十パーセント。羽毛布団の柔らかさは雲の如く、枕の沈み込みは神の配剤。
(……幸せだ。完璧だ。人生のピークが今ここにある。もう二度と布団から出ないぞ……)
ソラが涎を垂らしながら寝返りを打ち、シーツのひんやりした部分へ頬をすり寄せた――その、至福の零点五秒後だった。
――ズガァァァァァァァァンッッッッ!!!!
鼓膜を破らんばかりの轟音。
特注の防弾・防音・魔導多重強化ガラス(一文字一枚あたり金貨百枚相当)が、まるで紙風船のように内側へ向かって派手に弾け飛んだ。
鋭利な硝子の破片がキラキラと陽光を反射しながら部屋中に散乱し、突風とともに吹き込んできたのは、神聖すぎて目が眩むような純白の燐光と、これ見よがしに焚かれた高級な白檀の香煙だった。
「――神罰の刻は満ちたり!! 帝都の闇に蠢く深淵の邪竜、魔神の化身ソラ・ヴァルハイトッ!!」
天蓋のカーテンを乱暴に引き裂いて降り立ったのは、一人の少女だった。
年の頃は十七、八。
背中まで届くプラチナブロンドの長髪をなびかせ、白磁のような肌とエメラルドの瞳を持つ絶世の美少女。身に纏っているのは、細かな金の鎖帷子を裏打ちした純白の修道服――ではなく、ロストキア聖皇国の至宝たる【祓魔式典礼装】。
手には身の丈ほどもある白銀の大十字架(メイスとしても機能する鈍器)を軽々と担ぎ、背後には六枚の光の翼めいた退魔結界がこれ見よがしに展開されていた。
ロストキア聖皇国が誇る歴代最強の霊媒にして、数々の神話級魔獣を調伏してきた『天啓の退魔聖女』――セレスティーナ・フォン・ロストキアその人である。
セレスティーナは、大十字架の切っ先をベッドの中央へビシッと突きつけ、喉も裂けんばかりの凛々しい美声で宣告した。
「我が名はセレスティーナ! 大陸の平穏を揺るがす貴様の悪行、すべて天の瞳は見通しております!
魔力測定器を欺く観測不能の邪気! 迎賓館にて剣聖ジークフリート殿を精神崩壊に至らしめた呪詛! そして……帝都上空の魔神結界を自作自演で両断し、愚かな民衆を欺いた偽りの神威!
この退魔の神銀槌にて、貴様の邪悪なる魂を根源より浄化してくれましょうッ!!」
ビシィッ!!と効果音が鳴りそうなほどの完璧な決めポーズ。
背景に背負った聖なる光輪が、神々しく部屋中を照らし出す。
だが――。
ベッドの上で、シーツを頭から被ったままの「邪竜」は。
(………………寒っ)
ソラは、心底からの激怒と寒気で全身をガタガタと震わせていた。
(寒い。信じられないくらい寒い。何なの? なんで窓が開いてるの? ていうか割れたの?
風が……秋の冷たい風が、僕の暖まった布団の隙間からダイレクトに侵入してきてるんだけど……!?)
セレスティーナの長い名乗り口上など、一文字も耳に入っていなかった。
ソラの脳内を占領していたのは、ただ三点。
一、せっかく二度寝に入ったのに大音量で起こされたこと。
二、お気に入りの遮光カーテンと窓ガラスが粉微塵になり、直射日光が眩しいこと。
三、何より、部屋が急速に冷え切って足先が凍えそうなこと。
(……許さん。誰だか知らないけど、絶対に許さない……!)
ソラは布団の中で、のっそりと身体を起こした。
その顔面は、怒りと睡眠不足、そして「寒さ」によって完全に血の気が引き、表情筋はマイナス二十度の氷点下で完全に凍結。
死んだ魚の目を限界まで細めた、この世のすべての生命をゴミ屑を見るような「絶対零度の眼差し」が、天蓋の隙間から現れた。
「……っ!?」
セレスティーナの息が、喉の奥で詰まった。
(な……何という、底知れぬ威圧感……!?)
聖女の背筋を、冷たい氷の針が駆け抜けた。
目の前に現れた黒髪の青年は、武器すら持たず、寝癖だらけのパジャマ姿。
しかし、その立ち姿には力みが欠片も存在しない。
殺気すら放っていないのに、ただそこに「座っている」というだけで、部屋全体の空間密度が数十倍に跳ね上がったかのような息苦しさを感じる。
(動じていない……!? 私が聖皇国の至宝たる光属性結界を展開し、間合いを完全に制しているというのに……眉毛一本動かさないだと……!?
これが……帝国を震撼させた、深淵の虚無……!!)
セレスティーナは額に滲み出た汗を悟られまいと、大十字架を両手で握り直した。
「くっ……! 虚勢を張るのもそこまでです! 我が聖銀の大十字架は、いかなる邪悪の魔力障壁をも無力化する神代の鉄槌! 観念なさい、ソラ・ヴァルハイトッ!!」
セレスティーナが地を蹴った。
神速の踏み込み。聖なる光を纏った十文字の鉄槌が、ソラの脳天目掛けて一直線に振り下ろされる。
直撃すれば、城壁すら粉砕する退魔の一撃。
一方、ソラはといえば――。
(……眩しい。光るのやめて。あと、風が入ってくるから窓の前に立たないで)
ソラはただ、眩しそうに目を細め、目の前に迫る光の塊(セレスティーナの槌)から視線を逸らした。
そして、ベッドサイドの絨毯の上に投げ出されていた「昨夜読み終えた分厚いハードカバーの娯楽小説」を、寒さを遮るための盾代わりに、だるそうに右手で掲げた。
本当に、それだけだった。
起き上がるのも面倒なので、手首をベッドの縁に預けたまま、本をペラリと持ち上げただけ。
だが――。
幼少期の地獄の反復訓練が、ソラの脱力した手首に「最小限の角度で最大の衝撃を受け流す」神域の傾斜角を無意識に取らせていた。
さらに、ソラのスプーン一杯の極小魔力が、本を破かれたくないというケチな一心から、表紙の革の隙間へ超高密度に浸透。
物質の分子結合をダイヤモンド以上に硬質化させる「神話級の精密コーティング」が、一瞬で完了していた。
――カツンッ。
あまりにも間の抜けた、乾いた音が響いた。
「……え?」
セレスティーナの動きが、空中でピタリと静止した。
全身全霊を込めて振り下ろしたはずの、城門をも砕く聖銀の大十字架が。
ソラが掲げた、三文小説の『第3巻・魔王城でお昼寝編』のハードカバーの角に――ほんの数ミリ触れただけで、完全に運動エネルギーを殺されていた。
衝撃波すら起きない。
音も響かない。
ただ、まるで巨大な綿の塊に鉄球を打ち込んだかのように、セレスティーナの渾身の剛撃が、虚無の中へと吸い込まれて消滅していた。
「な……ななな……ッ!?」
セレスティーナのエメラルドの瞳が、零れ落ちそうになるほど見開かれた。
(ば、馬鹿なッ!? 私の退魔槌を受け止めた……!?
剣でも、盾でもなく……ただの、市販の娯楽小説の角で……!?
魔法の詠唱もなし、魔力の放射すら感じられない……!
純粋な脱力と、極小の反動制御だけで……私の聖皇国奥義を、無効化したというの……!?)
ガクガクと震える腕で十字架を引き戻そうとするセレスティーナ。
だが、その時。
ソラは、心底うんざりした顔で、だるそうに口を開いた。
喉が冷たい空気で乾燥してイガイガしていたため、声は低く、地を這うような怨嗟の響きを帯びていた。
「……おい」
ヒュッ、と部屋の空気が凍りついた。
「……人の部屋の窓を割るな。風が入ってきて寒いだろ。……閉めろ」
ソラは心からの本音を吐き捨てた。
(割った破片をどうにかして窓枠に戻して、カーテンを閉めろ。そして僕を寝かせろ)
だが――。
その言葉を聞いたセレスティーナの脳内では、銀河系を巻き込むレベルの超解釈のビッグバンが炸裂していた。
(……『風が入ってきて寒い』……!?)
セレスティーナの顔面から、急速に血の気が引いていく。
膝が震え、持っていた大十字架がガタガタと音を立てる。
(嘘……でしょ……?
私が纏っているのは、邪悪を焼き尽くす【浄化の聖炎】……触れるだけで悪霊なら灰燼に帰すはずの神聖熱波よ……!?
それを……『風が入ってきて寒い』……!?
熱波すら感じない……!? 私の全身全霊の聖気が、この男にとっては『ただの肌寒い隙間風』程度にしか感じられていないというの……!?
そして『閉めろ』……!
それはつまり……『貴様の矮小な光など、私の深淵を照らす価値すらない。二度と私の前に光を晒すな、世界ごと闇に閉ざすぞ』という、絶対強者の冷徹なる宣告……ッ!?)
「ひ……っ……!」
セレスティーナの喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
歴代最強と謳われ、傲岸不遜に生きてきた聖女のプライドが、小説の角とパジャマ姿の青年の前に、音を立てて粉微塵に粉砕された瞬間だった。




