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第1章:最年少ギルドマスターの誕生

その一:混沌の執務室

選抜試験の狂騒から三日後の朝。

帝都の中心部にそびえ立つ白亜の巨塔――帝国三大ギルドが一角、『銀翼の天秤(シルヴァ・リブラ)』の本部ビル最上階。

天井高五メートルを超える豪華絢爛な執務室には、吐き気を催すほどの殺伐とした重圧が満ちていた。

「おいエレノア、てめえ正気で言ってんのか!?」

執務室の重厚なマホガニー製の机を、太い拳が叩き割らんばかりの勢いで打ち据えた。

吠えたのは、ギルドの副マスターを務める重戦士、バルガスだ。

全身に無数の刀傷が刻まれた筋骨隆々の巨漢で、背中には身の丈ほどもある二連刃のバトルアックスを背負っている。帝国屈指のSランク冒険者であり、腕力だけで巨竜の首をへし折ったという武闘派の筆頭だった。

対する執務机の向かい側には、冷徹な光を宿した青い瞳を持つ美女――筆頭監査官のエレノアが、腕を組んで涼しい顔で立っていた。

夜空を思わせる銀髪をきっちりとシニヨンにまとめ、細フレームの眼鏡を指先でわずかに押し上げる。

「私は常に正気です、バルガス副マスター。感情論で喚くのはおやめなさい。前マスターが病で前線を退かれた今、当ギルドは深刻な後継者問題を抱えています。貴方のような筋肉しか詰まっていない脳筋に組織の舵取りが務まるはずがないでしょう」

「あぁん!? 冒険者ギルドなんざ力が全てだろが! 荒くれどもを力でねじ伏せられねえ奴がトップに立って、誰がついてくるってんだよ! てめえみてえな机の上の数字しか見えねえインテリ女に、現場の命が預けられるかッ!」

「力だけで組織が回るなら、オークの群れが帝国を支配しているはずです。今必要なのは、他ギルドの謀略を先読みし、帝室や貴族連中とのパワーバランスを冷徹にコントロールできる絶対的な知略です」

二人の視線がバチバチと火花を散らす。

室内の空気は完全に臨界点に達していた。

『銀翼の天秤』は現在、バルガス率いる武闘派と、エレノア率いる知略・魔導派に二分され、いつ内部分裂の流血沙汰が起きてもおかしくない状況に追い込まれていたのだ。

その時、重厚なオーク材の扉が、ギィ……と間の抜けた音を立てて開いた。

「失礼します……あ、あの、ヴァルハイト公爵家より、ソラ様がお見えになりました……」

若い受付嬢が、青ざめた顔で震えながら案内してきた。

その後ろから、黒い上質な外套を羽織った青年――ソラが、足を引きずるようなだるそうな足取りで入ってくる。

(……階段長すぎだろ。なんで最上階なんだよ。エレベーターくらい作れよこの世界は……)

ソラは息を切らしてはいなかったが、精神的には限界を迎えていた。

今朝、屋敷の自室で気持ちよく寝ていたところを、父親に「『銀翼の天秤』の上層部から直々に貴様への面談要請が来ている! 粗相のないように行ってこい!」と怒鳴られ、朝食もそこそこに叩き出されたのだ。

「ちっ……来たか、噂の坊ちゃんが」

バルガスが凶暴な視線をソラに向ける。

「騎士団の試験官を小細工で転がしたって話だが……見たところ、ただのひょろいガキじゃねえか。闘気も魔力もこれっぽっちも感じられねえぞ」

エレノアもまた、眼鏡の奥の瞳を鋭利な刃物のように細めてソラを品定めしていた。

(魔力測定不能……帝室の息がかかった騎士団が隠蔽するほどの逸材。どれほどの切れ者かと思えば、まるで覇気が感じられない。本当にこの少年が……?)

二人の刺すような視線がソラに突き刺さる。

常人であれば足がすくみ、呼吸すら乱れるような特級冒険者の殺気と威圧感。

だが、ソラはといえば――。

(あ、あのソファ、めちゃくちゃ柔らかそう)

二人の殺気など完全無視で、部屋の隅に置かれた深紅のビロード張り大型ソファに目を奪われていた。

スタスタと無防備な足取りで歩み寄ると、バルガスとエレノアの制止の声も待たず、どっかりと深く腰を沈める。

沈み込むクッション。背中に吸い付くような上質な革の質感。

(うわ、最高……。これ屋敷のベッドより寝心地いいんじゃないか? もう今日はここから一歩も動きたくない)

ソラはふぅと長い息を吐き、頭を背もたれに預けて、そのままゆっくりと目を閉じた。

半眼ですらない。完全なる睡眠体勢だった。

「……おい」

バルガスの太い眉が跳ね上がった。

「人の執務室に入ってきて、挨拶もなしにいきなり寝ようとしてんのかてめえは!?」

「静かにしてください、バルガス」

エレノアが制止する。その声は微かに緊張を帯びていた。

彼女の目は、ソファに横たわるソラの異常性に釘付けになっていた。

(……な、何なのこの体勢は……?)

エレノアの脳内で、凄まじい勢いで分析が走る。

(バルガスの怒声と、私の放つ魔力圧……並みの騎士なら失神するほどの重圧のただ中で、この少年は……指先一つ強張らせず、呼吸を完璧に一定に保っている……!?

あり得ない。これは油断ではないわ。筋緊張が完全にゼロ……! どの方向から刃が飛んできても、最小限の力で受け流せる伝説の『自然体(ゼロ・スタンス)』……!? 私たちの殺気すら、この男にとってはそよ風にすら感じられていないというの……!?)

バルガスもまた、ソラの無防備すぎる首元を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。

どこからでも斬り込める。首を落とすなど造作もない隙だらけの姿勢。

――なのに、踏み込めない。

一歩でも間合いに入った瞬間、逆に自分の首が地面に転がっているのではないかという、本能的な死の予感が巨漢の足を縫い留めていた。

「……ソラ・ヴァルハイト殿」

エレノアが咳払いをし、硬い声で切り出した。

「前置きは省きましょう。貴方の規格外の実力は、騎士団の選抜試験を通じて既に私たちの耳にも届いています。当ギルドは現在、次期マスターの空席により崩壊の危機にあります。上層部の合議の結果……貴方に、当ギルドの『暫定ギルドマスター』への就任を要請したいのです」

ソファの上で、ソラの眉がピクリと動いた。

(……は? ギルドマスター? 何言ってんだこの女)

ソラは心底うんざりした。

ギルドマスターなんて、書類の山に追われ、問題を起こした冒険者のケツを拭き、貴族の宴会に引っ張り出される最悪のブラック労働職だ。ただでさえ実家で静かに暮らしたいのに、そんなものに就任したら二度と昼寝などできなくなる。

断固として拒否しなければならない。一秒で断って、このふかふかのソファから立ち去り、屋敷に帰るのだ。

ソラは目を開けることすら億劫そうに、だるそうに口を開いた。

「……興味ない」

部屋の空気が凍りついた。

「……何だと?」

バルガスが呻く。

ソラは首を横に振り、心からの本音を吐き捨てた。

「全部、お前たちで適当にやってくれ。僕は部屋で寝ていたいだけだから」

(頼むから僕を巻き込むな。面倒な組織運営も戦闘も、全部自分たちだけで勝手にやってくれ)

「っ……!!」

エレノアが息を呑み、胸元を強く押さえた。

眼鏡の奥の青い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。

(『興味ない』……!? 帝国三大ギルドの一角、数千人の戦闘員と巨万の富を動かす絶対の権力を前にして、これっぽっちの動揺もなく切り捨てた……!?

それだけじゃない……『全部お前たちで適当にやれ、自分は寝ている』だと……!?

つまり……! 私とバルガスの能力、対立構造、ギルドの組織体系のすべてを部屋に入った瞬間に見抜き、『現場の統率はお前たち二人に任せる。くだらぬ派閥争いの仲裁などで私の手を煩わせるな、結果だけを出せ』という……強烈なトップとしての信任と恫喝……!!)

バルガスもまた、握りしめた拳を震わせていた。

(地位にも、名誉にも、金にも一切執着がねえ……! ただ『寝ていたい』……それはつまり、現世のあらゆる権力闘争など、この男にとっては微睡み(まどろみ)を妨げる価値すらない児戯に過ぎねえってことかよ……! 底が知れねえ……これが、公爵家の怪物の器か……!!)

二人がそれぞれ独自の解釈で勝手に戦慄を深めていた、まさにその瞬間だった。

――パリンッッッ!!!

執務室の防弾強化ガラスが、凄まじい轟音とともに粉々に爆砕した。

室内に吹き荒れる突風とガラスの雨。

そして、その破片の嵐を突き破り、漆黒の夜会服を纏った三つの影が音もなく滑り込んできた。

手には、青白い致死毒が滴る抜き身の短剣。

「死ねッ、『天秤』の幹部ども――!!」

「敵襲ッ!?」

バルガスが反射的に背中の大斧に手を伸ばす。

「しまっ……帝都の裏ギルド『血塗れの鴉』の特級暗殺者……!? なぜこの最上階に結界を抜けて――!」

エレノアが呪文の詠唱に入ろうとするが、暗殺者たちの速度は異常だった。

魔力結界をすり抜ける特殊な秘術を使い、あらかじめ窓の外に潜んでいたのだ。最短距離でエレノアの喉首へ毒刃が迫る。迎撃は間に合わない。

(うわ、寒っ……!!)

その時、ソラは心底不快そうに顔をしかめた。

せっかく最高に気持ちよくうとうとしていたのに、窓が派手に割れて冷たい風が吹き込んできたのだ。肌寒いし、ガラスの破片が飛んでくるし、何よりうるさくて眠気が吹き飛んでしまった。

(風が直撃するだろ、ふざけんなよ……!)

ソラは苛立ちのまま、ローテーブルの上に積まれていた分厚い書類の束――エレノアが用意していた数十枚の月次決算羊皮紙を、風除け代わりに窓の方角へ向けて無造作に放り投げた。

本当にそれだけだった。起き上がるのも面倒なので、手首のスナップだけでポイと放ったのだ。

だが――。

幼少期の地獄訓練によって培われたソラの身体は、「手首のスナップひとつ」すらも達人級の脱力投擲術へと勝手に昇華させていた。

指先から放たれた数十枚の硬質な羊皮紙は、空中で扇状に美しく広がり、激しい突風のエアポケットを捉えて猛烈な回転運動を始めた。

シュババババッッ!!

紙の束ではない。それは、大気の乱気流に乗って不可視の軌道を描く「数百枚の回転刃」と化していた。

「な、何だこの紙は――ぎゃああっ!?」

突入してきた先頭の暗殺者の両目に、回転する紙の角が吸い込まれるように直撃した。

悲鳴を上げて体勢を崩す暗殺者。

さらに、舞い散る羊皮紙の群れが、床に張り巡らされていた暗殺者たちの「影渡りの魔導回路」を偶然にも完全に遮断。影から飛び出そうとしていた残る二人の足元が狂い、空中で激しく衝突した。

「ぐあっ!?」

「くそっ、体勢が――!」

隙だらけの状態で空中に投げ出される特級暗殺者たち。

「うおおおおッ!! 死ねやあぁぁぁッ!!」

我を取り戻したバルガスの巨大な大斧が、唸りを上げて横一文字に薙ぎ払われた。

ドゴォォォォンッ!!

三人の暗殺者は一撃で吹き飛ばされ、執務室の壁にめり込んで白目を剥き、そのままぐったりと動かなくなった。

静寂が戻る。

割れた窓から吹き込む風に、ひらひらと羊皮紙が舞い落ちてくる。

バルガスは荒い息を吐きながら、血走った目でソラを見つめていた。

手斧を握る指先が、武者震いで激しく痙攣している。

「おいおい……嘘だろ……。後ろを振り返りもせず……ソファに寝転がったまま……紙切れ数枚を放り投げて、特級暗殺者三人の連携を瞬時に解体し、俺の斧の間合いへ叩き落とした……!?」

エレノアは床に膝をつき、震える手で眼鏡を直した。

その瞳には、もはや畏怖を通り越して狂信的な光が宿っていた。

(紙の重さ、空気抵抗、突風の風速、暗殺者の突入角度、そしてバルガスの反応速度……! そのすべてをコンマ数秒で逆算し、指先一つのスナップで盤面を完全に支配した……!

『興味ない』と言いながら……この御方は、私たちが襲撃される未来すら最初から知っていて、あえてこの部屋に来てくださったのだわ……!!)

そんな二人の狂気的な視線の先で。

ソラは「あーあ、部屋がめちゃくちゃだ」と溜息をつきながら、よっこらしょとソファから立ち上がった。

早くこの騒がしい部屋から脱出したい。

ふと見ると、足元に先ほど投げた書類の一枚――ペンと朱肉が乗ったバインダーが落ちていた。

(これにサインすりゃ帰れるんだろ、どうせ)

ソラは文字を一行たりとも読まず、早く帰りたい一心で、手元のギルド認印をバンッ!!と親の仇のように力任せに叩きつけた。

そして、そのバインダーをエレノアの足元へ放り投げる。

「……もう用は済んだだろ。僕は帰るからな。二度と呼ぶなよ」

ポケットに手を突っ込み、だるそうに背中を丸めて部屋を出ていくソラ。

残されたエレノアが、震える両手でそのバインダーを拾い上げた。

そこに押されていたのは――『ギルドマスター就任辞退届』ではなく。

ソラがだるすぎて適当に捺印した、『新ギルドマスター就任受諾・および全権掌握誓約書』の署名欄だった。

「……バルガス」

エレノアが、震える声で呟いた。

「ああ……分かってる」

バルガスが獰猛に、そして心の底からの歓喜を込めて笑った。

「あいつが……いや、あの御方が、俺たちの新しい『頭』だ。ついていくぜ。あの底知れねえ怪物になら……俺たちの命、全部くれてやるよ」

「ええ……。すべてはソラ様の深謀遠慮のままに。世界を、あの御方の望むがままに塗り替えましょう」

翌朝。

屋敷のベッドで昼過ぎまで熟睡していたソラが目を覚ました時、枕元には「史上最年少、十九歳の神竜帝ギルドマスター誕生!」という全帝都にばら撒かれた特大号外新聞と、執務室から山のように届いた「新マスターへの決裁書類」が積み上げられていた。

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