白銀の置物
帝国騎士団直轄、第一練兵場。
初夏の強い日差しが白色の大理石で組まれた円形闘技場を容赦なく照らしつけていた。乾いた風が吹き抜けるたび、砂埃が舞い上がり、観客席を埋め尽くした数百人の騎士候補生や貴族たちのマントを微かに揺らす。
ざわめきはない。
張り詰めた静寂が、まるで極薄の氷のようにその場を支配していた。
闘技場の中央に立つ男――ソラ・ヴァルハイトは、ただただ心の中で天を仰いでいた。
(……だるい。本当に、信じられないくらいだるい)
眩しい日差しに目を細め、ソラは盛大に漏れそうになる欠伸を奥歯で噛み殺した。
手にした訓練用の無骨な木剣は、構えと呼ぶにはあまりに無造作で、だらりと右手の指先だけで引っ掛けるように下げられている。重心は左足に傾き、背中もわずかに丸まっていた。
(親父の野郎……『我がヴァルハイト家の血筋が、騎士選抜試験すら受けぬなど許さん』だのなんだの喚いて無理やり馬車に押し込みやがって……。だいたい、今朝食べたフレンチトーストのシロップがまだ胃に残ってて気持ち悪いんだよな。早く帰ってあのふかふかのベッドで二度寝したい。昼まで、いや明日の朝まで泥のように眠りたい)
ソラの切実な願いは、平穏と睡眠。それだけだった。
本来なら、こんな場所に立っているはずがなかったのだ。
今朝行われた第一段階の「魔力量測定の儀」において、ソラが魔導水晶に触れた際、計測針はピクリとも揺れなかった。世界基準で見れば「魔力枯渇症」あるいは「平民の幼児以下」とされる極小値。スプーン一杯分どころか、水滴一滴ほどの量しかない。
当然、そこで「はい失格、お帰りください」となるのが通例だった。
そのはずだったのに、なぜか第二試験の実技選抜、それも歴戦の現役騎士を相手にする模擬戦の土俵に立たされている。
「……おいおいおい。立ったまま意識を飛ばすたぁ、いい度胸じゃねえか。ヴァルハイト家の『落ちこぼれ』坊ちゃんよ」
地を這うような野太い声が、石畳を震わせて響いた。
ソラの十歩ほど正面。身の丈二メートルを優に超える巨躯を漆黒の甲冑で包んだ男――帝国騎士団選抜試験官のガレスが、大剣の切っ先を地面に突き立てて立っていた。
ガレスの体表からは、目に見えるほどの濃密な緋色の魔力闘気が陽炎のように立ち上っている。
踏みしめた足元の石畳には、重圧だけでピシリと細かな亀裂が走っていた。
「いくら公爵家の直系とはいえ、魔力測定で針一つ動かせねえクズを相手にすんのは反吐が出るんだがよ……試験は試験だ。手加減なんぞ期待するなよ? 骨の一本や二本へし折れても、泣いて親に縋るんじゃねえぞ!」
観客席から、ごくりと息を呑む音が重なって聞こえた。
「おい、相手は『岩砕のガレス』だぞ……」
「いくらなんでもやりすぎじゃないか? あの公爵令息、本当に魔力がゼロなんだろう?」
「死ぬぞ。あの構えを見ろよ、木剣すらまともに持てていない。恐怖で腰が抜けて硬直しているんじゃないのか?」
ひそひそと交わされる同情と嘲笑。
だが、その視線の渦の中心にいるソラは、ただ相手の足元をぼんやりと見つめていた。
(声がでかい……頭に響くから静かにしてくれないかな……。ていうか、あの甲冑、隙間が多すぎて手入れが大変そうだな。あんな重たい大剣を振り回して、腕の筋肉が千切れたりしないんだろうか。本当にご苦労なことだ)
思考はどこまでも他人事だった。
戦う気など爪の先ほどもない。相手の突進に合わせて適当に尻もちでもついて、「あ痛たた、怪我したので棄権します」と言って帰る。それがソラの描いた完璧な逃亡計画だった。
「――消え失せろッ!!」
ガレスの咆哮。
炸裂音。
石畳を蹴り砕く凄まじい脚力とともに、黒い鉄塊がソラの視界を一瞬で埋め尽くした。
常人の動体視力では捉えきれない超高速の踏み込み。
頭上高く振り上げられた大剣には、圧縮された緋色の闘気が渦を巻き、大気を焦がすような熱風を撒き散らしている。袈裟懸けに振り下ろされるその一撃は、巨木すら両断する必殺の破壊力を秘めていた。
(うわ、速いな)
ソラは思った。
しかし、その網膜が捉えた情報が脳へ届くよりも前に、ソラの身体は勝手に反応していた。
幼少期、父親が雇った狂気の武芸者たちに昼夜を問わず刃物を突きつけられ、死の淵を反復横跳びさせられ続けた結果として完成した、呪いのごとき『自動生存機構』。
思考を介さず、反射すら超越した領域で、筋肉が、腱が、骨格が最適解を導き出す。
(あそこから剣を振り下ろすなら……風が右から吹いてるから、右足を半歩引くだけで刃の軌道から外れるな。ついでに重心を少し落とせば、突進の風圧も全部受け流せる)
ソラにとっては、「雨粒を避けるために傘の角度をほんの少し傾ける」程度の、極めてだるい微調整だった。
スッ――。
力みは皆無。
ソラはただ、緊張感の欠片もない動作で、右足を後ろへ数センチ引いた。
それだけだった。
――ゴオォォォッ!!
大剣がソラの鼻先、わずか数ミリの空間を猛烈な勢いで通過した。
突風がソラの黒髪を激しくかき乱す。しかし、その足元は完全に脱力しきっており、石畳を踏みしめる力すら入っていないため、発生した衝撃波の衝撃すらも全身の関節を伝って綺麗に地面へと逃げていった。
「なッ……!?」
渾身の一撃を、あろうことか「ただ息を吸うような自然体」で空振らされたガレスの眼球が、驚愕で零れ落ちそうになる。
全体重と全魔力を乗せた唐竹割りだ。空振れば、その莫大な質量と慣性はそのまま自分自身の体勢を崩す狂気の前傾エネルギーへと変わる。
ガレスの巨体が、制御を失って前のめりに傾ぐ。
(おっと、倒れてくる。危ないな、ぶつかられたら痛いじゃないか)
ソラは心底鬱陶しそうに眉を寄せた。
ぶつかられて服を汚されるのも、自分が下敷きになって怪我をするのも御免だった。
だから、前のめりに倒れ込んでくるガレスの手首に向けて、手元の木剣の先端を「トン」と添えた。
杖をついて倒れ掛かる巨漢を支えるような、あるいは肩凝りをほぐすためにトントンと叩くような、あまりにも脱力した、気のない一押し。
だが、その瞬間。
ソラの体内に極小量だけ存在する、スプーン一杯にも満たない魔力が、無意識のうちに木剣の先端へと集束した。
増幅ではない。ただの「純度百パーセントの凝縮」。
魔力量が圧倒的に足りない環境で幼少期を過ごしたソラは、無意識のうちに魔力の浪費を絶対に許さない身体になっていた。漏れ出る魔力はゼロ。拡散する魔力もゼロ。
針の穴を通すよりも細く、ダイヤモンドよりも硬質に研ぎ澄まされた極小の魔力針。
それが、ガレスの手首の甲冑の継ぎ目――全身へ魔力を循環させる主要な生体魔力経路の「最大の交差点」へ、寸分の狂いもなく触れた。
――ピキリ。
空気が凍りつくような、極めて小さな澄んだ音が鳴った。
「が、は……ッ!?」
ガレスの全身から、爆発していた緋色の闘気が煙のように掻き消えた。
まるで巨大な操り人形の糸が一斉に断ち切られたかのように、巨漢の全身から一切の力が抜け落ちる。大剣が手から滑り落ち、硬い石畳に叩きつけられて甲高い金属音を響かせた。
ズザザザッ……ドサリ。
二メートルを超える黒甲冑の巨体が、ソラの足元を滑るように転がり、そのまま顔面から石畳へ突っ伏した。
白目を剥き、指先をピクピクと痙攣させながら、二度と動かない。
完全なる静寂。
闘技場を吹き抜ける風の音だけが、ヒュオオオと虚しく響いていた。
「……あー」
ソラは倒れたガレスを見下ろし、心底だるそうに頭を掻いた。
そして、木剣を放り投げると、誰にともなく声をかける。
「……あの、倒れたんで、これで終わりでいいですよね? 帰っていいなら、もう帰りますけど」
欠伸を噛み殺しながら、トボトボと出口へ向かって歩き出すソラ。
早く馬車に乗って屋敷のベッドに飛び込みたい。彼の頭の中には、それしかなかった。
だが――。
彼を取り囲む数百人の観客たちの世界は、今まさに根底から崩壊していた。
「……う、そだろ……?」
観客席の最前列で見ていた近衛騎士団の千人長が、腰のサーベルの柄を握りしめたまま、ガタガタと震える膝を押さえつけていた。
冷汗が額から滝のように流れ落ち、顎を伝って石畳を濡らす。
「見……見えたか……!? おい、誰か今のを見た奴はいるか……!?」
周囲の猛者たちもまた、蒼白な顔で言葉を失っていた。
「見切り……なんて生易しいものじゃない……! ガレスが筋肉を収縮させる前、踏み込むための『魔力の予備動作』が起きたその刹那に、ソラ様はすでに半歩下がっていた……!」
「ああ……! 相手の初動、速度、剣筋、そして空振りした後の慣性のベクトルまで……初めからすべてが脳内で再生されていたかのような、完全なる未来予測……!」
「それだけじゃない! あの最後の一撃を見ろ! ガレスの全身を巡る闘気循環の結節点へ、針の先ほどの極小魔力を打ち込んで全身の神経を強制遮断したんだ……! そんな精密制御、宮廷筆頭大魔導士ですら百年修行しても届かない神域だぞ!?」
ざわり、と観客席が波打ち、それは瞬く間に底知れぬ畏怖の激震へと変わっていった。
魔力測定器が動かなかった理由。
それは、魔力がゼロだったからではない。
あの測定器ごときの目盛りでは「あまりに高密度すぎて、存在そのものが観測できなかった」のだと、居並ぶ騎士たちは確信していた。
災厄のような剛剣を前にしても、眉毛一本動かさない氷の冷徹さ。
相手を殺す価値すらないと切り捨てるかのような、完全なる脱力。
そして、「もう終わりか、帰るぞ」と言わんばかりのあの退屈そうな眼差し――。
――「この程度の児戯で、私の貴重な時間を奪うな」――
ソラの言葉は、彼らの耳の中で完全にそう再構築されていた。
「怪物を……ヴァルハイト公爵家は、とんでもない神話の怪物を隠し育てていたのか……!」
「特待合格だ……! いや、こんな男を一介の騎士候補生として扱えるはずがない! 直ちに……直ちに上層部へ報告書を回せ!!」
熱狂と戦慄が渦巻く闘技場を、ソラは背中で感じながら、小さく溜息をついていた。
(……なんか後ろがざわついてるけど、まあいいや。不合格だろうし、これで明日からは堂々とニート生活だな)
その足取りが、破滅的な勘違いの泥沼へ向かって一歩ずつ進んでいることなど、夢にも思わずに。




