三:深淵の超解釈
シーン……と、大広間が静まり返った。
静寂。
針一本が床に落ちても聞こえるほどの、絶対的な沈黙。
皇帝カルルが目を見張り、ゼノス大将軍の眉が跳ね上がる。
貴族たちの一千を数える視線が、信じられないものを見るようにソラへ突き刺さる。
帝国最高位の栄誉。
国家の全権。
それを……この十九歳の青年は、眉一つ動かさず、即座に「お断りします」と切り捨てたのだ。
(よし、いいぞ。広間が引いてる。このままトドメを刺すんだ)
ソラは心の中で手応えを感じながら、あらかじめ用意していた「完全辞退の理由」を一気にまくし立てた。
平穏な引きこもり生活を取り戻すための、魂の叫びである。
「私のような無能が背負うには、その荷はあまりにも重すぎます。私には天下を統べる器もなければ、軍を率いる気概もありません」
ソラは首を横に振ると、心底うんざりしたため息をつきながら、最大の本音を吐き捨てた。
「私はただ……自分の部屋で、誰にも邪魔されずに、静かに眠っていたいだけの男ですから」
(言ったぞ!! 言い切ったぞ!!)
ソラは内心で快哉を叫んでいた。
「自分は無能だ」「部屋で寝ていたいだけの怠け者だ」と、皇帝と帝国全土の貴族の前でハッキリと自白したのだ。
これで皇帝も怒り狂い、「無礼者め! 貴様のような怠惰な者に官位などやれん! とっとと田舎の実家へ帰れ!」と怒鳴りつけてくれるはずだ。
そうなれば完璧だ。名誉元帥の職は白紙になり、ギルドマスターの座も返上して、堂々と屋敷のベッドに引きこもれる。
しかし――。
ソラが顔を上げると、そこにあったのは、怒り狂う皇帝の姿ではなかった。
「……っ……!!」
皇帝カルルの顔面から、急速に血の気が引いていた。
その両目は見開かれ、唇は小刻みに震え、額からは滝のような脂汗が滲み出していた。
(な……なんという……なんという男だ……ッ!!)
皇帝の脳内で、凄まじい勢いで思考の嵐が吹き荒れていた。
(天下の権力を……帝国全軍の統帥権を、目の前に差し出されながら……眉一つ動かさず『無能の荷』と切り捨て、ゴミのように踏みにじってみせた……!
地位にも、名誉にも、富にも、一切の執着がない……!
そして……『部屋で静かに眠っていたい』だと……!?
莫迦を言え……! そんなわけがあるかッ!
この怪物が言いたいのは、そんな矮小な怠惰ではない……!
『貴様らの下劣な権力闘争や領土問題など、私の微睡みを妨げる価値すらない児戯だ。くだらぬ雑事で私を煩わせるな。余計な真似をして私を起こせば……昨日割いた空のように、この帝国ごと両断するぞ』という……全世界に対する絶対強者の警告なのだ……!!)
皇帝の膝が、ガクガクと震え始めた。
威厳を保つことすら困難なほどの、本能的な恐怖。
隣に控えていたゼノス大将軍もまた、全身の毛穴から冷汗を噴き出し、拳を握りしめて戦慄していた。
(……底が知れん。どこまで深淵なんだ、この小僧は……!
もしここで無理に役職を押し付け、奴を怒らせてみろ。昨日の一太刀が、この皇宮へ向けて振り下ろされないと誰が保証できる!?
奴が望んでいるのは『眠り』……つまり、『帝国が余計な戦争を起こさず、平和を維持すること』!
『私が寝ていられる平穏な世界を作れ、さもなくば滅ぼす』という、神の託宣ではないか……!!)
大広間に居並ぶ千人の貴族や将軍たちも、一様に蒼白になり、ガタガタと震え上がっていた。
彼らの耳には、ソラの言葉が完全にこう再構築されていたのだ。
――「現世の矮小な王よ、私を貴様らの泥沼の支配構造に巻き込むな。私は神の玉座で眠りにつく。私の安寧を乱す者が現れた時……この世界は終わる」――
「……おお……おおお……!」
皇帝カルルの喉から、掠れた嗚咽が漏れた。
そして――信じられない光景が、大広間の全員の網膜に焼き付けられた。
皇帝カルルが、自らの身に着けていた黄金のマントを脱ぎ捨て、玉座の階段の前で――ソラへ向けて、両膝を突き、深々と額を絨毯へ擦り付けたのだ。
「へ……?」
ソラが素っ頓狂な声を漏らす。
「……寛大なる神竜帝ソラ様……! 我が浅慮、我が傲慢をお許しくだされ……ッ!!」
皇帝の声は、涙と恐怖で激しく震えていた。
「貴方様のような地上の理を超越した至高の存在を、俗世の役職などで縛ろうとした愚行……万死に値いたします!
分かりました……! 貴方様には、いかなる軍務も、いかなる政務も、いかなる登城の義務も課しません!
貴方様にはただ、名誉職としての最高位称号【絶対不可侵の神竜帝】のみを奉納させていただきます!
帝国全土の法、軍規、貴族法、そのすべてが貴方様の前には無力! 貴方様はただ……お好きなだけ、屋敷のベッドでお眠りください……!!」
「え? いや、だから――」
「我ら帝国全軍がッ!!」
ゼノス大将軍が号泣しながら床に膝をつき、拳を叩きつけた。
「我が帝国軍二百万の将兵が、命に代えても貴方様の安眠をお守りいたします!! 貴方様の微睡みを妨げる不届き者、他国の間者、魔物の群れ……そのすべてを、我が軍が粉微塵に叩き潰し、平穏な世界を貴方様に捧げてみせまするッッ!!」
「「「神竜帝ソラ様に、絶対の忠誠と永遠の安寧をォォォォッッッ!!!!」」」
ドガァァァァァァァンッッッ!!!
千人の貴族、近衛兵、将軍たちが、まるでドミノ倒しのように一斉に絨毯へ平伏した。
大広間の天井を揺るがす、狂乱の誓詞。
エレノアは恍惚の涙を流しながら手帳を胸に抱きしめ、バルガスは天に向かって勝利の雄叫びを上げていた。
大広間の中心で、ただ一人立っていたソラは――。
(……は????)
思考が、完全に停止していた。
(断ったよね? 僕、今確実に断ったよね!?
『無能だからできません』って言ったよね!?
なんで皇帝が土下座してるの!? なんで全軍が僕の睡眠を守るために命をかける流れになってるの!?
絶対不可侵の神竜帝って何!? 称号がさっきより派手になってるんだけど!?)
ソラの表情筋は、驚愕と絶望のあまり完全に硬直し、ピクリとも動かなかった。
その結果として――平伏する千人の群臣たちの目には、自らの足元にひれ伏す帝国最高権力者たちを、冷たく、超然と見下ろす「唯一無二の神」の姿にしか見えていなかった。
退路は、完全に断たれた。
断るどころか、皇帝すら手を出せない「法をも超越した絶対の特権階級」へと祭り上げられてしまったのだ。
(……うそだろ……。僕、ただ……家でゴロゴロしたかっただけなのに……)
少年の切実なる魂の叫びは、皇宮を揺るがす熱狂の大歓声の中に、跡形もなく掻き消えていった。




