第五章:帝国叙勲と閉ざされた安寧
一:狂乱の祝祭と、静かなる公爵邸
天空を二つに裂いた「奇跡の神撃」から、一夜が明けた。
帝都ルミナリアは、千年の建国史上で類を見ない集団狂乱の熱気に包み込まれていた。
中央広場を埋め尽くした数万の民衆は、手を取り合って泣き笑い、歌い踊り、酒樽の底を次々と抜いて祝杯を上げ続けている。大通りという大通りには、色とりどりの紙吹雪と花弁が舞い散り、建物の壁面には突貫工事で仕立てられた巨大な垂れ幕が何十枚も掲げられていた。
【帝国の至宝! 空を統べる神竜帝ソラ・ヴァルハイト閣下に万雷の感謝を!!】
『一太刀で神話の厄災を両断! 私たちの命はすべてソラ様の掌の上に!!』
教会では神官たちが「あのお方こそ顕現せし古代竜神の化身である」と涙ながらに説教を行い、露店では木彫りの粗末な細剣を「厄除けのソラ様ステッキ」と称して法外な値で売り捌く商人が長蛇の列を作っていた。
だが、帝都全体が沸騰するその狂乱の中心地から馬車でわずか二十分――。
貴族街の最奥に鎮座するヴァルハイト公爵邸の最上階寝室は、奇妙なほど静まり返っていた。
遮光カーテンが隙間なく閉め切られ、部屋の明かりは完全に落とされている。
キングサイズベッドの中央には、羽毛布団を三重に巻きつけ、まるで巨大な繭のようになった塊が一つ。
「……んぁ……ぐ……」
中から漏れ出るのは、時折聞こえる寝息と、低く掠れた呻き声だけだった。
ソラ・ヴァルハイトは、昨日屋上から帰還してシチューを腹に詰め込んだ後、泥のように眠りへ落ち、そこから一度も目覚めていなかった。すでに連続睡眠時間は十六時間を突破している。
(……静かだ。最高に静かだ……)
毛布の暗闇の中で、ソラは微睡みの心地よさに浸っていた。
昨日の夕方、屋上の風を払った直後は外が信じられないほどうるさかったが、耳栓を二重にして掛け布団を頭から被ったことで、なんとか夢の世界へ逃げおおせることができたのだ。
(風も止んだ。窓のガタガタも直った。これで誰にも邪魔されず、あと丸二日は寝られる……)
世界が平和を取り戻したことなど、ソラにはどうでもよかった。
ただ「自分の寝室の環境が快適になった」という極小の満足感だけが、彼の心を甘やかに満たしていた。
だが――そんな引きこもりの至福の楽園が、長く続くはずもなかった。
――トントントン。
寝室の扉が、控えめに、しかし一切の妥協を許さない硬質なリズムでノックされた。
続いて響いてきたのは、カチャリと鍵穴を物理的に解除する精密な金属音。
「……失礼いたします、マスター」
氷のように澄み切った美声とともに、扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、全身を真新しい純白の礼装に包んだエレノアだった。仕立ての良いフロックコートの胸元には、三大ギルドの頂点を証明する黄金の天秤章が誇らしげに輝いている。
その後ろには、全身の毛を剃り整え、普段のボロボロの革鎧ではなく、真紅のベルベット地に金の刺繍が施された特注の正装マントを羽織ったバルガスが、肩を怒らせて続いていた。
「おいエレノア、本当に起こしていいのかよ? マスターは昨日、天を裂くという神の領域の術式を行使されたんだぞ。体力の消耗は計り知れねえはずだ」
バルガスが心配そうに太い眉を寄せる。
「仕方がありません。事態は一刻を争います」
エレノアは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、ベッドの脇へと歩み寄った。
「本日午前十時より、皇宮『千竜の大広間』にて、皇帝陛下自らが主宰される【帝国救済大叙勲式】が執り行われます。帝国全土の貴族、諸侯、属国の王族、そして全軍の将軍が集結しております。主役たるマスターが不在など、許されるはずがありません」
エレノアは優雅な所作で、布団の端に手を掛けた。
「マスター・ソラ。朝……いえ、既に昼前でございます。お召し替えの時間です」
毛布の繭が、ピクリと動いた。
中から、絶望に満ちた呻き声が響く。
「……嫌だ。絶対に起きない」
「マスター」
「誰がなんと言おうと起きない。僕は今日、ベッドと結婚したんだ。離婚する気はない」
ソラは布団の内側から、力任せにシーツを巻き込んだ。
昨日の疲労――といっても、屋上まで階段を上り下りした程度の筋肉の疲労感だが――がまだ抜けきっていない。何より、エレノアの口から飛び出した「大叙勲式」「皇宮」「全軍の将軍」という単語の群れが、ソラの生存本能に真っ赤な警告ランプを激しく点滅させていた。
(皇宮? 叙勲式? 行くわけないだろ!!)
ソラは心の中で絶叫した。
そんな場所に行ったら最後、何百人もの堅苦しい貴族や軍人に囲まれ、何時間も直立不動を強いられ、壇上に立たされてスピーチをさせられるに決まっている。
暑苦しい礼装を着せられ、皮靴で足を痛め、全方位から視線を浴びる――それは、省エネ主義を掲げるソラにとって、極刑の拷問部屋へ連行されるのと何ら変わりなかった。
「お聞きなさい、マスター」
エレノアが静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で語りかける。
「本日の式典では、皇帝陛下より直々に、帝国建国以来初となる【無敵の守護竜神】の終身称号と、帝国全軍の指揮権を統括する最高意思決定機関『元老軍事顧問』の座が授与される予定です。これは皇帝と同等、否、実質的に帝国を意のままに動かすことのできる全権掌握を意味します」
「……は?」
布団の中から、素っ頓狂な声が漏れた。
(全権掌握……? 軍事顧問……?)
ソラの頭の中が、真っ白に染まった。
(冗談じゃない!! そんなもの押し付けられたら、これから先、他国と戦争が起きるたびに『ソラ様、軍を率いてください!』って前線に放り出されるじゃん!! 一生寝る暇なんかなくなるどころか、僕の平穏なニート生活が物理的に完全消滅するだろ!!)
行きたくない。
しかし、行かずにサボれば、公爵邸に軍隊が踏み込んできて無理やり連行されるかもしれない。
ならば――。
(行って、その場でハッキリと断るしかない)
ソラは固い決意とともに、布団を跳ね除けた。
寝起きのボサボサ頭のまま、ベッドの上にだらしなく座り直す。
その顔面は、極度の拒絶と「絶対に面倒な役職を押し付けられてたまるか」という強い危機感によって、完全に表情筋が脱力・硬直。
氷河のように冷淡で、何を考えているのか一切読み取れない「絶対強者のポーカーフェイス」が張り付いていた。
「……着替えを持ってこい」
低く、不機嫌極まりない声が落ちる。
寝起きの掠れ声だったが、エレノアとバルガスには、それが「帝国の覇権を盤面の上で動かす怪物の号令」に聞こえた。
「はッ! 直ちにご用意いたします!」
エレノアが深々と一礼し、バルガスが武者震いに全身を震わせる。
ソラは心の中で、自分に言い聞かせていた。
(いいか。皇宮に着いたら、皇帝の目の前で堂々と宣言するんだ。『僕は無能です。ただ部屋で寝ていたいだけの怠け者です』ってな。そうすれば、皇帝も愛想を尽かして僕を即座にクビにするはずだ……!)
退路を断つための「完全敗北宣言」を胸に、ソラは馬車へと乗り込んだ。




