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四:天空両断

ソラは屋上の端、転落防止用の錆びた鉄柵の前に立った。

吹き付ける強風が、黒いガウンの裾をバタバタと激しく叩く。

前髪が目元にかかり、視界を塞ぐのが地味に鬱陶しかった。

(……あー、もう! 前が見えないし、風が冷たいし、本当にイライラする!)

ソラは右手の手首を軽く回した。

カチリ、と手首の関節が鳴る。

手にした細剣は、何の魔導付与もされていない、道場の隅に転がっていたただの鈍ら(なまくら)だ。

ソラには、上空の魔神結界を破壊する気など微塵もなかった。

そもそも、魔神がどうとか帝都の滅亡がどうとか、そんな規模の大きな話は彼の脳細胞の片隅にも存在していない。

ソラがやりたかったのは、ただ一つ。

(目の前の、この鬱陶しい風の乱気流をスッと払って、風の通り道を変えたい)

それだけだった。

幼少期、父親が雇った狂気の剣客たちに「台風の暴風雨の中で、落ち葉を一枚も体に触れさせずに素振りを千回続けろ」という拷問のような実戦訓練を叩き込まれていたソラにとって、大気の流れを剣先で受け流し、風の抵抗を完全にゼロにする太刀筋は、呼吸と同じレベルで染み付いた「身体の反射」だった。

(風の塊が、あそこから渦を巻いて落ちてきてるな……)

ソラは半開きの目で、上空から吹き下ろす巨大な気流の塊をぼんやりと捉えた。

そして、左足を半歩、自然体で前へ滑らせた。

構えはない。

切っ先は地面に向けられたまま、ただ肩の力を完全に抜き、腕の重みだけで剣を振り上げる準備をする。

その瞬間――。

ソラの体内に眠る、スプーン一杯分の極小魔力が、本人の預かり知らぬところで覚醒した。

ソラにとっては「無駄遣いできないから、絶対に外へ漏らさないように節約する」という、ただのケチな省エネ意識。

だが、その極度の節約思考が、魔力の純度を「完全なる百パーセント」へと極限圧縮させていた。

不純物はゼロ。拡散する余剰光もゼロ。

原子の隙間すら通り抜ける、極小にして極限の硬度を持つ「不可視の超高密度魔力針」。

それが、細剣の切っ先、わずか数ミクロンの先端へと、音もなく集束した。

ヒュオオオオオオオオオオッ――!!

上空の【魔神の渦】が、最後の咆哮を上げた。

核が紫色に激しく明滅し、帝都全土を消滅させる反物質の光線が、まさに放たれようとした――そのコンマ一秒前。

ソラは、ただ気のない動作で、下から上へ向けて、細剣をスッと振り上げた。

本当に、それだけだった。

部屋のハエを追い払うような、あるいは邪魔なカーテンを棒で払いのけるような、完全なる脱力の一振り。

――刹那。

音という概念が、この世界から消失した。

爆風の轟音も。

紫の雷鳴も。

市民たちの悲鳴も。

すべてが、まるで何者かによって時間を切り取られたかのように、完全な静寂へと飲み込まれた。

ソラの細剣の切っ先から放たれたのは、斬撃ですらなかった。

それは、大気中に張り巡らされた「気流の継ぎ目」を滑るようにして、音速を遥かに超越した速度で天空へと駆け上がった、一本の不可視の光脈。

シュンッッッ――。

三千メートル上空。

神魔大戦期の多重積層結界。帝国の全魔導砲を集めても傷一つつけられないはずだった、完全無敵の絶対障壁。

その結界の、幾百万もの術式が複雑に交差する「唯一の構造的結束点」――人間には観測不能な針の穴ほどの隙間へ、ソラの放った極小魔力の針が、寸分の狂いもなく吸い込まれた。

――ピキィィィィィィィィィィンッッッ!!!!

天球全体が、薄氷のように澄み切ったガラスの割れる音を響かせた。

次の瞬間。

ドゴォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!

三千メートル上空で、視界のすべてを白銀で染め上げるほどの超大規模な魔力崩壊が発生した。

結界の核を失った【魔神の渦】が、一筋の巨大な光の亀裂を走らせる。

亀裂は瞬く間に天空全体へと広がり――次の瞬間、直径十キロメートルの暗黒の雷雲が、まるで巨大な刃物で一刀両断されたかのように、空ごと真っ二つに両断された。

割れた雲の隙間から、黄金色の夕陽の光線が、神の光の梯子となって帝都の街並みへと降り注ぐ。

猛威を振るっていた紫の雷光は煙のように霧散し、鼓膜を破らんばかりだった暴風は、跡形もなく完全に凪いだ。

空には、澄み渡るような秋の夕焼けが、どこまでもどこまでも広がっていた。

五:静寂と狂乱の彼方へ

屋上を吹き抜けたのは、生ぬるい、穏やかなそよ風だけだった。

ソラは、細剣をだらしなく右手にぶら下げたまま、上空を見上げた。

真っ二つに割れて消えていく雲。

差し込む眩しい夕陽。

そして――何よりも、完全に静まり返った周囲の静寂。

風の音が、消えていた。

窓をガタガタと揺らしていた、あの忌々しい突風は、どこにも残っていなかった。

(……あ、風止んだ)

ソラは心底ホッとしたように、小さく息を吐いた。

眩しそうに目を細めると、手にした細剣を無造作に足元の石畳へ放り投げた。カランコロンと、安っぽい金属音が屋上に響く。

「……よし。これで、やっと寝られる」

ソラは大きく伸びをすると、両手をガウンのポケットに突っ込み、スリッパを引きずりながら、スタスタと屋上の出入り口へ向かって歩き出した。

あくびを一つ、涙を指先で拭いながら。

「おい、エレノア。帰るぞ。馬車出せ。……夕飯、シチュー作っとけよ」

背中越しにそれだけ言い残し、階段の暗がりへと消えていくソラ。

その後ろで。

屋上にいた数十名の特級冒険者、幹部たち、そしてバルガスとエレノアは――。

全員が、立ったまま、あるいは膝をついたまま、魂を抜かれたように空を見上げていた。

誰も、声を出せなかった。

呼吸をすることすら忘れていた。

「……そ、空を……」

バルガスが、震える両手で自らの頬を殴りつけた。

痛い。夢ではない。

「空を……斬り裂きやがった……。神話の厄災……帝都を灰にするはずだった魔神の雷雲を……ただ、下から上へ……気のない一太刀で……空ごと両断しやがった……!!」

バルガスの目から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

百戦錬磨の重戦士が、恐怖と感動のあまり、子供のように肩を震わせて泣いていた。

「あのお方は……あのお方は、人間じゃねえ……! 剣聖でもねえ……大魔導士でもねえ……!

世界そのものを統べる、唯一無二の絶対神だァッッ!!」

「ああ……あああ……っ!」

エレノアは屋上の床に突っ伏し、額を石畳に擦り付けながら、狂気的な恍惚の笑みを浮かべていた。

眼鏡が外れて床を転がるのも構わず、ソラが去っていった階段の扉を見つめる。

「『これで寝られる』……! なんという御言葉……なんという高潔な魂……!!

帝都数百万の命を救った直後に、誇るでもなく、報酬を求めるでもなく……ただ『これで眠れる』と……!

あのお方にとって、数百万の民を救うことすら、夜の微睡みを取り戻すための、ただの『邪魔なカーテンを開ける』程度の些事に過ぎなかったというのね……!!」

エレノアは立ち上がり、涙を拭うと、屋上の手すりへ駆け寄った。

そして、眼下に広がる帝都の街並みへ向けて、喉が張り裂けんばかりの絶叫を響かせた。

「見よ、帝都の民よッ!! 跪け、帝国の騎士たちよッ!!

空を裂き、魔神を屠り、我らに光を取り戻された御方の名は――!!

『銀翼の天秤』ギルドマスター、至高なる神竜帝ソラ・ヴァルハイト様であられるぞォォォッッッ!!!!」

その叫びが引き金だった。

次の瞬間、帝都全土から――。

皇宮から、騎士団の兵舎から、避難所から、大通りから。

数百万の民衆が、空を見上げ、夕陽に照らされた『銀翼の天秤』の巨塔へ向けて、地鳴りのような、天を揺るがす大歓声を爆発させた。

「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッ!!!!」」」

「「「ソラ様ッ!! ソラ様万歳ッ!! 神竜帝ソラ様ァァァッッッ!!!!」」」

大地が揺れていた。

数百万の人々が涙を流して地面に平伏し、神の名を叫び、広場では即座にソラを称える狂乱の宴が始まろうとしていた。

皇帝カルルは皇宮のバルコニーで膝をつき、自らの王冠を外して空へ捧げていた。

――だが、その熱狂と歓声の嵐の真下で。

馬車のふかふかのシートに身を沈めた当の「神竜帝」は、耳を塞ぎながら心底うんざりした顔で窓の外を睨みつけていた。

(……うるさい。外、信じられないくらい大声で騒いでるんだけど。何なの? お祭り?

頼むから静かにしてくれよ……僕、今から家に帰って寝るんだからさあ……)

少年の切実極まる願いは、世界中を包み込む「神話の狂乱」にかき消され、永遠に誰にも届くことはなかったのである。

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