三:『銀翼の天秤』本部屋上、狂信者たちの眼差し
同じ刻。
帝都で最も天に近い場所――三大ギルドが一角、『銀翼の天秤』本部ビルの最上階、地上百メートルの屋上展望台。
吹き荒れる暴風は、立っていることすら困難なほどの暴力的な突風と化していた。
石造りの手すりにつかまりながら、風属性の障壁を必死に編み上げているエレノアの銀髪が、激しく乱れ飛ぶ。
「……くっ……! 大気中の魔素が完全に極性反転を起こしています! 風の乱気流が、まるで刃物のように肌を切り裂いていく……!」
エレノアの細フレームの眼鏡が、吹き付ける静電気にパチパチと青白い火花を散らす。
その横では、背中に背負った巨大な戦斧を両手で構え、天を睨みつけるバルガスがいた。
全身の筋肉を極限まで硬直させ、足元の石畳を踏み抜かんばかりに踏ん張っているが、吹き荒れる突風に分厚い身体がじわじわと後退させられていた。
「クソがッ! 迎賓館で追い詰められた『常闇の瞳』のドブネズミどもが、地下の封印を解きやがったな!? なんて置き土産を残していきやがりやがった! 手も足も出ねえぞ……あんな高空、ワイバーンに乗って突撃したところで、結界に触れる前に雷で蒸発するのがオチだ!!」
屋上には、バルガスとエレノアだけではなかった。
ギルドに所属する歴戦のSランク冒険者たち、歴戦の魔導士たち、数十名の精鋭が集結していた。
帝都の頂点を競い合ってきた猛者たち。だが今、彼らの顔には一様に、自らの無力さに対する濃密な絶望が張り付いていた。
「終わりなのか……? 新マスターを迎えて、これから我がギルドが帝国の覇権を握るはずだったんじゃねえのかよ……!」
「神の罰だ……あんな巨大な魔力塊、人間がどうにかできる領域を超えてる……!」
絶望の呟きが風にかき消されそうになった、その時だった。
ギィ……ギィィィ……。
屋上へと続く重い鉄の扉が、暴風の轟音の合間に、ひどく間の抜けた音を立てて開いた。
「……おい、誰か上がってきたぞ?」
冒険者の一人が振り返り、怪訝そうに目を細めた。
吹き荒れる紫の嵐の中、その扉から姿を現したのは――。
黒いシルクの室内用ナイトガウンをだらしなく羽織り、足元には毛足の長い羊毛のスリッパを履いた、一人の青年だった。
ソラ・ヴァルハイト。
その右手には、ヴァルハイト公爵家の武道場の隅に転がっていた、何の変哲もない鉄製の訓練用細剣が一本、だらりと逆手に握られていた。
寝起き特有のボサボサに跳ねた黒髪。
目蓋は半分以上閉じられ、その表情は――極度の不快感と苛立ちによって、冷え切った氷細工のようにピクリとも動かない。
「マ、マスター……ッ!?」
エレノアが叫び、風に煽られながらソラへと駆け寄ろうとした。
「危険です! 屋上は魔素の暴風が直接叩きつけております! 一体どうしてこちらへ……!? 早く地下の防空シェルターへ避難を――」
「……うるさい」
ソラの口から漏れたのは、氷河の底よりも冷たく、そしてドスの効いた低音だった。
ゾクッ――!!
その場にいた全員の背筋を、巨大な氷柱で撫でられたかのような悪寒が駆け抜けた。
エレノアの足が、まるで物理的な見えない鎖で縛られたかのように、ピタリと止まる。
ソラは、誰の顔も見ようとしなかった。
ただ、眉間にこの世のすべての不快を凝縮したような深い皺を寄せ、上空で荒れ狂う紫色の雷雲を、死んだ魚のような冷徹な瞳で見上げていた。
ソラの内情は、完全に怒りの沸点を突破していた。
(……許さん。絶対に許さんぞ)
ソラは心の中で、血の涙を流しながらブチギレていた。
迎賓館での鬱陶しい茶番からようやく解放され、馬車に揺られて屋敷に戻り、「今日こそ、今度こそ夕方まで寝るぞ」と意気揚々とベッドに潜り込んだのが、わずか半時間前のことだ。
羽毛布団のひんやりとした部分に足を滑り込ませ、まさに極上の睡魔が脳の髄まで染み渡りかけた、その最高の瞬間に――。
ガタガタガタガタガタッッッ!!
突如として吹き荒れ始めた突風が、ソラの寝室のガラス窓を狂ったように打ち鳴らし始めたのだ。
窓枠が軋み、隙間風がピューピューと耳障りな甲高い音を立てる。
さらには、ピカピカと眩しい紫色の閃光がカーテンの隙間から部屋中を明滅させ、腹の底に響くような重低音の雷鳴が、ソラの鼓膜を容赦なく揺さぶり続けた。
枕を頭に押し当てても無駄。
毛布を三重に被っても無駄。
耳栓代わりにティッシュを耳に詰めても、振動が直接ベッドを揺らしてくる。
眠れない。
一ミリたりとも、眠れない。
(風が……風の音がうるさすぎて寝られないんだよおおおおおおッッ!!)
睡眠を邪魔されたソラの怒りは、天災をも超える純粋な破壊衝動へと昇華していた。
屋敷にいても窓がうるさい。外を見たら一番高いビル(ギルド本部)の上空あたりで変な雲が光っている。
「あそこへ行って、窓を揺らしてるこの鬱陶しい風をどうにか止めないと、一生寝られない」
その極めて短絡的かつ身勝手な動機だけで、ソラはスリッパ履きのまま馬車を走らせ、屋上まで登ってきたのだ。
「……マスター?」
バルガスがおそるおそる声をかける。
その巨漢の全身に、かつてないほどの鳥肌が立っていた。
(……な、なんだこの殺気は……!?)
バルガスは呼吸することすら忘れ、ソラの横顔を凝視していた。
(怒ってらっしゃる……! あの何事にも動じず、どんな災厄を前にしてもあくびを噛み殺していたソラ様が……本気で、腹の底から激怒していらっしゃる……!!
迎賓館での陰謀を退けた直後、帝国を滅ぼそうとする『常闇の瞳』の卑劣なテロに対し、その神話の覇気を剥き出しにしておられるんだ……!!)
エレノアもまた、その場に両膝をついて震えていた。
眼鏡の奥の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
(……ああ……! 見て、あの瞳を……!
上空の魔神結界を睨み据える、あの絶対強者の眼差し……!
私たちには見えない、結界の術式構造、魔力の乱気流の継ぎ目、そして核の心臓の脈動周期……そのすべてを、あの冷徹な双眸で完全に解体し、見切っているのだわ……!!)
屋上にいた幹部たち全員が、息を殺してソラの背中を見つめていた。
誰も言葉を発せない。
ただ、死の風が吹き荒れる中、スリッパを履いた一人の青年が、だるそうに前へ一歩踏み出した。




