第四章:虚空を裂く一太刀
一:絶望の狂宴と、路地裏の蠢き
迎賓館『碧水晶の間』におけるジークフリートの完全失脚劇から、わずか二刻。
帝都ルミナリアを東西に貫く大運河の下層、一般市民はもちろん下級警邏隊すら立ち入りを禁じられた旧暗渠街の最深部には、湿った苔の腐臭とヘドロの悪臭、そして絶望に煮え滾る獣たちの狂気が充満していた。
ここは、帝都の闇を半世紀にわたって牛耳ってきた巨大暗殺結社『常闇の瞳』の最終拠点。
剥き出しの煉瓦壁に油煙を吹き上げる松明が揺れ、黒い石畳の上に、血と泥に塗れた数十人の手練れが蹲っていた。
「……嘘だ……嘘だろ、ベルツの兄貴ィッ!!」
若い暗殺者が、自らの両手で頭を抱え込み、床に爪を立てて金切り声を上げた。
「頭のカゲロウ様だけじゃねえ! 天井裏と床下に伏せていた『特級影手』二十人が……誰一人として短剣すら抜けずに昏倒させられたってのは本当なんですか!? 魔力封殺の結界を敷いていたはずだ! 旧文明の遺物【黒水晶】で部屋中の魔素を根こそぎ凍結させていたはずだろうがッ! なんで……なんでそんな場所で、指先をコップの水に浸けただけの余波で、結界ごと骨を粉砕されなきゃならねえんだよォッ!!」
「喚くなァッ!!」
怒号とともに蹴り飛ばされた木樽が、壁に激突して粉々に砕け散った。
吠えたのは、カゲロウの副官を務める巨漢ベルツ。顔面から首筋にかけて爬虫類めいた黒い刺青を彫り込んだ凶悪な殺し屋だったが、その剥き出しの腕は、止めどない武者震いで激しく痙攣していた。
「叫びたいのは俺のほうだッ! ジークフリートの旦那は既に憲兵隊に引き渡され、あの気取った顔を涙と小便で濡らしながら、俺たちとの裏取引の帳簿を全部ゲロしちまった! 外の出入り口は近衛兵と『銀翼の天秤』の連中に完全に塞がれてる! 袋の鼠だ……! もう、この帝都のどこにも俺たちの逃げ場はねえんだよッ!」
「ひっ……!」
「終わりだ……捕まったら公開処刑だぞ……!」
「ソラ・ヴァルハイト……! なんなんだあの化け物は! 人間じゃねえ……! 最初から俺たちの配置も、ジークフリートの裏切りも、結界の構造すらも全部見透かした上で、あざ笑うように茶を濁して踏み潰しやがったんだ……!」
暗殺者たちの間に、伝染病のような恐怖が広がっていく。
誰もが帝都裏社会で何十人もの首を刎ねてきた手練れだった。死線など数え切れぬほど潜ってきたはずだった。だが、彼らが直面しているのは、武力や策謀で対抗できる相手ではない。
触れた瞬間にこちらの論理がすべて無力化される、天災そのものだった。
その時――。
カツン、カツンと、乾いた杖の音が暗渠の奥から響いてきた。
「……騒ぐな、羽虫どもが。見苦しいぞ」
闇の奥から現れたのは、擦り切れたボロ布のフードを目深に被った老呪術師だった。
手足は木の枝のように痩せこけ、肌は死人のように青白い。だが、その胸元に抱えられている「モノ」を見た瞬間、ベルツを含む全員の息が喉の奥で凍りついた。
太いミスリルの鎖で何十重にも封印された、大人の頭部ほどもある不気味な黒紅色の結晶球。
その内部には、まるで生きている心臓のようにドクン、ドクンと血管を脈動させ、毒々しい紫色の光を放つ不気味な核が蠢いていた。
「お、おい……ジジイ……!」
ベルツが引き攣った顔で後退りし、腰の短剣に手を伸ばした。
「まさか……それを持ち出す気か!? 地下に安置されていた【魔神の心臓】……旧文明の禁忌兵器だぞ! そいつの封印を解いたら、帝都がどうなるか分かってんのか!?」
「どうなる、だと?」
老呪術師は、黄色く濁った歯を剥き出しにして嗤った。その双眸には、理性のかけらすら残されていない。
「十里四方の大気魔素がすべて反転・暴走し、天変地異の雷雲となって地上を焼き尽くす。……どうせここにいても捕まり、地下牢で舌を抜かれて嬲り殺しにされるだけよ。ならば! あの公爵家の青二才もろとも、この帝都の数百万の豚どもを道連れにしてくれるわッ!!」
「狂ってやがる……!」
ベルツの喉が鳴った。だが、次の瞬間、その瞳にも絶望の果ての狂気が宿った。
「……だが、そうだ。それしかねえ。座して首を刎ねられるくらいなら、帝都ごと灰にしてやる! おいソラ・ヴァルハイト!! てめえのその冷え切った寝ぼけ面が、天から降り注ぐ紫電に焼かれて絶望に歪む様を、地獄の底から見物してやるぜェッッ!!」
老呪術師が、自らの両手首を短剣で深く切り裂いた。
生々しい鮮血が、封印の鎖へと滴り落ちる。
ギチ……ギチギチギチッッ!!
鎖が悲鳴を上げて軋み、一本、また一本と赤熱して弾け飛んでいく。
そして、最後の鎖が砕け散った瞬間――。
ドクンッッッッ!!!!
帝都ルミナリアの地下全域を、内臓を直接握り潰されるような超重低音の脈動が突き抜けた。
黒紅色の結晶が砕け散り、解き放たれたのは、大気を直接腐食させるような紫黒色の魔力奔流。
それは地下暗渠の頑丈な天井を、まるで濡れた紙屑のように一瞬で消滅させ、地上へ、そして帝都の上空三千メートルへと一直線に突き抜けていった。




