三:張り詰めた迎賓館『碧水晶の間』
帝都中央貴族街の一角に佇む、歴史ある迎賓館『碧水晶の間』。
青を基調とした豪奢な内装、磨き抜かれた大理石の円卓を取り囲むように、帝国最高峰の権力者たちが着席していた。
円卓の上座には、『白銀の聖堂』マスター・ジークフリート。
その周囲には、純白の甲冑に身を包んだ近衛兵たちが抜刀の姿勢で控え、部屋の空気は凍りつくように張り詰めている。
円卓の左翼には、魔導結社『深淵の瞳』の最高指導者、百歳を超える大魔導士バルトロメウスが、杖に両手を重ねて座っていた。その老眼は、油断なく室内を観察している。
そして、円卓の右翼――。
「……ふぁぁぁぁぁ……」
黒いスーツをだらしなく着崩したソラが、背もたれに深く体重を預け、本日数十回目となる大あくびを噛み殺していた。
両肘を肘掛けに投げ出し、足は投げ出され、目蓋は半分落ちている。
その後ろには、冷徹な視線を崩さないエレノアと、いつでも戦斧を抜けるように重心を落としたバルガスが控えていた。
(……長椅子にしてくれれば横になれるのに。この椅子、木の彫刻が背中に当たって地味に痛いんだよな……)
ソラは心底退屈そうに、テーブルの中央に置かれた青銅製の水差しを眺めていた。
喉が渇いていた。
今朝、バルガスに無理やりベッドから引きずり出され、朝食のスープも飲めずに馬車に押し込められたため、口の中がカラカラだったのだ。
ジークフリートが、冷たい笑みを口元に浮かべながら口を開いた。
「――お初にお目にかかる、ソラ・ヴァルハイト殿。十九歳の若さで『銀翼の天秤』の全権を掌握された稀代の俊英……その武名、帝都中に轟いておりますぞ」
「……どうも」
ソラは視線すら合わせず、だるそうに片手を小さく挙げた。
(声かけるなよ。僕は空気になりたいんだから……)
そのあまりに無礼な態度に、ジークフリートの背後に控える騎士たちが一斉に柄に手を伸ばしかけた。
だが、ジークフリートは手でそれを制した。その瞳の奥には、獲物を追い詰めた獣の暗い光が宿っている。
「単刀直入に本題に入りましょう。本日の議題は、南西部における古代遺跡の管理権、および帝都の警備管轄の見直しです。……しかし、議論を始める前に、我がギルドに寄せられた『極めて遺憾な告発状』について、ソラ殿の弁明を伺いたい」
ジークフリートが指を鳴らすと、副マスターのベルンハルトが一枚の羊皮紙を円卓の上に叩きつけた。
「貴ギルドの補給ルートから、帝室禁制の劇薬――精神を破壊する禁忌の魔導薬物【黒き涙】が大量に発見されました。出荷元の帳簿には、貴方の直筆のサインと、ギルドマスターの印章が明確に捺印されている。……ソラ殿、これは一体どういうことですかな?」
完全なる捏造。
ジークフリートが裏社会の手先を使って巧妙に偽造した、ソラを国家反逆罪に陥れるための罠だった。
「なっ……馬鹿なッ!!」
バルガスが激昂し、石畳を蹴って前に出ようとした。
「そんな薬物、うちの倉庫にあるはずがねえ! てめえ、捏造しやがったなジークフリートッ!!」
「控えなさい、野蛮な重戦士殿!」
ジークフリートが冷酷に嘲笑う。
「証拠はここにある。これを否定したいのであれば、法廷の場で堂々と申し開きをしてもらう他ない。――衛兵、この部屋を封鎖しろッ!」
ガシャンッ!!
迎賓館のすべての扉と窓が一斉に閉ざされ、外側から巨大な閂が落とされた。
同時に、部屋の四隅に埋め込まれていた【魔力封殺の黒水晶】が、不吉な紫色の燐光を放ち始める。
ズゥゥゥゥン……ッ!!
目に見えない超重力の波が、部屋全体を押し包んだ。
大気中の魔素が急速に凝固し、生体の魔力循環が強制的に凍結される。
「くっ……!? 魔力が……抜けていく……!?」
バルガスが胸を押さえ、膝をついた。
「身体が……鉛のように重え……!?」
「結界……!? 古代の禁呪具ですか……!」
エレノアもまた、杖を支えにしながら辛うじて立ち尽くしていた。指先に灯そうとした魔法の光が、煙のように霧散していく。
「くくく……ははははッ!」
ジークフリートが立ち上がり、腰の聖剣をスラリと引き抜いた。
「無駄だ! この部屋は現在、あらゆる魔法と魔力闘気の行使が禁じられた『絶対沈黙の牢獄』! 特級魔導士だろうが竜殺しの英雄だろうが、魔力を奪われればただの無力な赤子同然よ!」
パチンッ、とジークフリートが天井に向かって指を鳴らした。
天井裏の通気口が外れ、漆黒の装束を纏ったカゲロウ率いる特級暗殺者二十名が、音もなく床へと舞い降りた。
手には、青白い猛毒を塗った抜き身の短剣。
その刃が、一切の身動きが取れなくなったバルガスとエレノア、そして無防備に座るソラの首筋へと向けられる。
「終わりだ、ソラ・ヴァルハイト!」
ジークフリートの勝利を確信した叫びが、部屋に響き渡った。
「貴様のペテンもここまでだ! 貴様はここで、薬物の横領を苦にして自害したことにさせてもらうッ!!」
死の包囲網。
逃げ場のない絶対の密室。
エレノアが絶望に青ざめ、バルガスが悔しさに血の涙を流す。
だが――。
その極限の殺気と絶望のただ中で。
ソラは――心底、イラついていた。
(……うるさい。朝から喚くなよ。頭痛がしてきただろ……)
ソラは、ジークフリートの演説など一文字も聞いていなかった。
そもそも、魔力を封じる結界が発動したことすら気づいていない。
なぜなら、ソラが体内に持っている魔力量は「スプーン一杯分」――普段から魔力などほとんど使わずに生活しているため、魔力循環が遮断されようが、身体のだるさには何の影響もなかったのだ。
それよりも、ソラにとって耐え難かったのは――。
(……喉が渇いた。死ぬほど渇いた)
ソラは、目の前の円卓に置かれたガラスのグラスと、水差しを見つめた。
朝から何も飲んでいない。喉が張り付いて、呼吸するだけで痛い。
早くこの冷たい水を一気に飲み干したい。
ソラはだるそうに右手を伸ばし、水差しからグラスへと水を注いだ。
トトトト……と、静まり返った部屋に、間の抜けた水音が響く。
「な……!?」
暗殺者の刃を突きつけようとしていたカゲロウが、息を呑んで立ち止まった。
ジークフリートもまた、抜いた剣を構えたまま目を見張った。
(な、何だあいつは……!? 魔力封殺の結界の中で、なぜ平然と腕を動かせる……!? それどころか……この期に及んで、水を注いでいるだと……!?)
ソラはグラスを持ち上げた。
そして、口元へ運ぼうとした――その瞬間。
(……あ、ぬるい)
ソラは露骨に眉をひそめた。
部屋の温度が高かったせいか、水差しの中の水は生ぬるく、飲む気を失せさせる温度になっていた。
(冷たいのがいい。キンキンに冷えたやつが飲みたい……)
ソラは心底鬱陶しそうにため息をつくと、右手の人差し指を、グラスの水面へとポチャンと浸した。
本当に、ただそれだけだった。
幼少期、過酷な訓練の合間に、ぬるくなった飲み水を一瞬で冷やすために覚えた、ソラにとっての「生活の知恵(裏ワザ)」。
ソラの体内に宿る、スプーン一杯の極小魔力。
それは「魔力封殺の結界」が感知・妨害する対象である「大規模な魔力循環の波」とは全く異なる、分子レベルの超極小・超高密度の振動だった。
網の目が粗すぎる古代の結界など、ソラの精密魔力にとっては素通り同然のザルに過ぎない。
ソラは、指先からほんのわずか――爪の垢ほどの魔力をグラスの水へと流し込み、水分子の熱振動を一瞬で急停止させた。
――パキィィィィィンッッッ!!!
澄み切った、氷の割れるような高音が響いた。
グラスの中の水が、一瞬にして純白の霧を吹き出し、透明な氷の塊へと凝固する。
だが――。
ソラが意図しなかったのは、その「超極大の圧縮魔力」が、水分子を凍結させた後に放った、不可視の【共鳴衝撃波】の存在だった。
超高密度に研ぎ澄まされた極小の魔力波は、水面から同心円状に広がり、部屋を覆っていた「魔力封殺の結界」の魔力ラインと激しく衝突。
結界の回路そのものを、まるでガラス細工を踏み潰すかのように逆流・粉砕した。
バキバキバキバキィッッッ!!!
「ぎゃあああああっ!?」
部屋の四隅の柱に埋め込まれていた【魔力封殺の黒水晶】が、内部からの異常魔力圧力に耐えきれず、一斉に粉微塵に大爆発を起こした。
凄まじい衝撃波が部屋を吹き荒れる。
さらに、その衝撃波の余波は、天井裏と床下に伏せていたカゲロウの暗殺部隊の体内を正確に貫通した。
暗殺者たちが身につけていた「魔力遮断の漆黒装束」が、ソラの放った超高周波の魔力に共鳴して一瞬で自壊。
「ぐ、が……ッ!?」
「あ、足が……骨が……ッ!?」
ドサドサドサドサッ!!
天井の通気口から、床の隠し扉から、潜んでいた二十名の特級暗殺者たちが、全身の神経中枢を麻痺させられて白目を剥き、まるで熟れた果実のように絨毯の上へ転がり落ちてきた。
全員が痙攣し、二度と立ち上がらない。
「な……な、な……ッ!?」
ジークフリートの愛剣――帝室より賜った名剣『聖天の光刃』が、ソラの魔力波の直撃を受け、ピシリと音を立てて根元からへし折れた。
折れた刃先が、カランコロンと虚しい音を立てて大理石の床を転がる。
静寂。
迎賓館を支配したのは、あまりの怪現象に対する、死の沈黙だった。
ソラはといえば――。
(……あ、凍らせすぎた)
カチコチに凍りついてグラスから抜けなくなった氷の塊を見つめ、心底うんざりした顔で溜息をついていた。
これでは水が飲めない。溶けるのを待つしかない。
ソラはグラスをテーブルにコト……と置き、だるそうに頭を掻きながら、ジークフリートへと冷淡な眼差しを向けた。
「……おい」
低く、気だるげな声が落ちる。
喉が渇いて苛立っているだけの声だったのだが、室内の空気は絶対零度まで凍りついた。
「……くだらないことしてないで、早く帰らせてくれ。眠いんだよ」
ソラは心からの本音を吐き捨てた。
(茶番に付き合うのも疲れた。早く家に帰ってベッドで寝かせろ)
だが――。
その言葉を聞いたジークフリートの精神は、完全に崩壊した。
ガクガクと膝が震え、折れた剣の柄を取り落とす。
ジークフリートは自らの足元に倒れる二十名の暗殺者と、粉々に爆散した古代の黒水晶、そしてへし折れた聖剣を見つめながら、全身から止めどない脂汗を噴き出させていた。
(……指先を……水につけただけ……?)
ジークフリートの脳内で、狂気的な絶望が完成した。
(魔力封殺の結界を、ただの水冷の余波で粉砕した……?
伏せていた二十人の暗殺者を、一度も振り返ることなく、視界にすら入れずに全滅させただと……!?
それだけじゃない……! 私の聖剣の魔導回路を逆流させ、一瞬でへし折った……!!
最初から……この男には、私の捏造工作も、暗殺者の配置も、結界の構造も、そのすべてが見透かされていたのだ……!
『くだらないことしてないで早く帰らせろ』……!?
それはつまり……『貴様の浅薄な策略など、私の微睡みを妨げる価値すらないゴミだ。命が惜しければ失せろ』という……絶対強者の冷徹なる宣告……!!)
「ひっ……ひぃぃぃぃぃっ……!!」
ジークフリートの喉から、みっともない悲鳴が漏れた。
帝国最強と謳われた光輝剣聖が、両膝から崩れ落ち、大理石の床に額を激しく叩きつけた。
「ま、参りました……! 降伏いたします、ソラ殿……! いえ、ソラ様ッ!!」
ジークフリートは涙と鼻水を垂らしながら、狂ったように床に頭を擦り付けた。
「私の浅慮、私の傲慢をお許しください……! 薬物の書類はすべて私の捏造です! 南西部の利権も、帝都の警備権も、我が『白銀の聖堂』の全財産の半分も……すべて貴方に差し上げます! ですから……どうか……どうか我が命だけは……魂の消滅だけはお見逃しをォォォッ!!」
円卓の反対側で見ていた大魔導士バルトロメウスもまた、持っていた杖を取り落とし、震える手で髭を撫で回していた。
「……化け物じゃ……。本物の、神話の化け物じゃ……。指先一つで結界を逆流させ、聖剣を粉砕する男に……誰が勝てるというのじゃ……!!」
一方、バルガスとエレノアは――。
「マスター……ッ!!」
バルガスが感涙にむせび泣き、拳を床に叩きつけた。
「敵の罠を完全に知り尽くした上で、あえて飛び込み……水一杯を飲む片手間の動作で、帝国最強の剣聖の心を完全にへし折る……! なんという痛快! なんという神業だァッ!!」
「ええ……!」
エレノアは祈るように胸の前で手を組み、恍惚の笑みを浮かべてソラを見つめていた。
「『眠いんだよ』……! 仇敵の命乞いすら、あのお方にとっては退屈な雑音に過ぎないのです! この世のあらゆる権力も武威も、ソラ様の深淵の怠惰の前には、ただ跪くことしか許されないのですから……!!」
二人の狂信的な称賛の渦の中心で。
ソラは、カチコチに凍りついたグラスを見つめながら、心の中で激しく頭を抱えていた。
(……え? なんで? なんでこの人、床に頭ぶつけて泣いてるの?
僕、水がぬるかったから冷たくしようとしただけなんだけど……?
ていうか、結局水飲めなかったんだけど!? 誰かあったかいお茶持ってきてよおおおッッ!!)
少年の切実な渇きと悲鳴は、誰の耳にも届かない。
ただ、帝国最強の男を「水一杯の余波で完全屈服させた」という悪夢のような神話だけが、帝都の歴史に深く刻み込まれていったのである。




