第十六話 名前
「例えば君に、母上以外の女が産んだ兄弟がいたら、どう思うか? とねーー」
悪夢の源が大きな口を開けて、シャルロッテを飲み込もうとしていた。
「い、いやあ!」
悪夢はぱっくりと口を開け、その奥にはどこまでも続く果てしのない空洞が広がっている。その空洞が大声を出して、口汚く彼女を罵っていた。
ーー汚れた子供。あんたは汚れた子供なんだ!
「汚い! 汚いわ、そんな子! そんな汚れた子供、許される筈がない」
「シャ、シャーリー。落ち着くんだ」
取り乱して騒ぐシャルロッテを王は慌てて押さえつけ、青年を睨みつけた。
大臣と二人がかりで姫を押しとどめる王達の姿を、彼はぼんやりと無表情で見つめている。
「そうだよ、君はあの時もそう言っていた。僕のことを汚れた子供だと、だから僕は……」
「違う! そうではない」
王の叫び声が部屋の中を揺るがせた瞬間、シャルロッテは意識をなくして父親の胸の中に崩れ落ちた。
***
その侍女の顔は、もう覚えていない。
覚えているのは、まだ幼い顔立ちをしていたということぐらいだ。
あの頃のシャルロッテは十にも満たない子供だった。覚えていなくても当たり前だろう。
記憶の中の彼女は、他の侍女達に隠れるように控えていたその侍女を、決して嫌いではなかった。むしろ自分と一番年齢が近いであろう彼女を、好ましく思っていた筈だった。
だからその日も、彼女の服装を不思議に思いながらも、シャルロッテは近寄っていったのだ。
どうして侍女である彼女が、シャルロッテのドレスやアクセサリーを身につけているのか理由は分からなかったのだが。
「何してるの?」
そう問いかけた彼女に侍女はビクリとして体を向けてきた。
「お目覚めになったのですか?」
侍女は震える体を隠すように彼女の前で慌ててドレスを脱ぐと、誤魔化すかのように笑ってみせた。
そう、あの時シャルロッテは、昼寝から目覚めたばかりだった。守を任されていたのは、この年若い侍女一人。他には誰もいなかった。
小柄な侍女には、シャルロッテの幼児用ドレスが辛うじて着れたらしい。それは丈の短い膝丈ドレスに映り、意外と似合っていた。
今なら、
今の彼女になら分かる。
この時この侍女は、ほんの出来心を起こしただけに違いなかった。今なら機転を利かせて、穏便にやり過ごすことが出来ただろう。
だが、当時の幼い彼女には、対処など到底無理な話だった。
呆然と佇むシャルロッテの前で、侍女は急いでドレスやアクセサリーを片付けていた。手元は小刻みに震え、唇は戦慄いている。それを紛らわせるように、彼女は懸命に笑顔を作っていた。
「どうしてあなたがそのドレスを着てるの?」
だがたった一人の姫として、贅沢いっぱいに育てられていたその頃のシャルロッテは、侍女が無断で自分のものを身につけたことに、どうしようもなく不快感を感じてしまった。
侍女が媚びを見せればその分だけ、余計に腹立ちが生まれてくる。
ものの道理も分からない幼い彼女だったが、嫌だと反射的に思ってしまったのだ。
「それは……」
顔色をなくした侍女は、焦ってオロオロする内に小さなネックレスを床に落とす。それは少し前、シャルロッテがなくしたと思っていた、銀で出来たお気に入りのネックレスだった。
「そのネックレス……」
「あ、そ、それは」
「あなたが持ってたの?」
「ち、違……、それはえっと……」
「わたしのものよ!」
怒りが収まらないシャルロッテは、思わず侍女に大声で怒鳴りつけてしまった。
「返して、どろぼう! お母様に言いつけてやるんだから!」
そして、
そのあとーー
『ふん、えらそうに』
顔を伏せて立ち竦んでいた侍女が頭を上げる。
その顔はぞっとするほど、冷たい色彩を帯びていた。
急に態度を豹変させた侍女にシャルロッテは怯え、一歩、また一歩と後ずさる。どうして突然侍女が反撃してくるのか、理由が全く分からなかった。
幼かった彼女には、追いつめられた人間の捨て身の心理など分かる筈もなかったのだ。
侍女は歪んだ笑みを口元に貼り付けたまま、恐ろしい迫力を漂わせ近づいてきた。
赤い可憐な唇を開き、歌うように呪いの言葉を紡ぐ。
『何がお母様よ。あんたなんか王妃様の、本当の子供でもなんでもないくせにーー』
「きゃああぁぁ!」
「シャーリー、大丈夫か?」
目を開けたシャルロッテは、彼女を取り囲むように見守る一団に驚いて息を飲んだ。
父親のギンダーをはじめ、大臣グレファムや侍女長のバーバラまでいる。皆、今の彼女が信頼している近しい人達が、心配げにこちらを覗き込んでいた。
「わたし……」
視線を巡らせば、謁見の間の横にある王の控え室だと分かった。その部屋に置かれたソファーの上に、どうやら寝かされていたらしい。
「わたし、あの……、いったいどうしたの?」
肌を湿らす汗を優しく拭き取ってくれる王に、抜け落ちた記憶の断片を尋ねる。ギンダーはホッとしたように軽い息を吐いて教えてくれた。
「お前はさっき、いきなり気を失ったんだ。すぐに気がついて本当に良かったよ」
「気を失って……?」
ぼんやりと失った記憶が戻ってくる。
そうだった、確かついさっきまで、謁見の間にいたのだ。そこで誰かと、とても長い話をしていたはず……。
そう、すごく重たい思い出話をーー。
「いや!」
愕然としてシャルロッテは、悲鳴を上げた。
なくしてしまった筈の記憶が全て思い出され、完全な形で頭の中にあった。
ミハエルに、忌まわしい彼女の罪を暴かれてしまった。罪の象徴である侍女の悪夢にまで、気を失っていた間、襲われていたのだ。
「わたし、わたし……」
知らず涙がこぼれてくる。泣きじゃくる彼女の背をギンダーは安心させるように撫でると、柔らかく耳打ちした。
「恨み言は本人に言うんだ」
「えっ?」
「勝手にお前を誤解して傷つけた、最低な男にな」
「どういうこと?」
ギンダーが顎をしゃくってみせる。その方角に目をやったシャルロッテは、同じように泣きはらした赤い目をした青年が、気まずげに立っていることに気がついた。
「交代の時間だ」
ギンダーはシャルロッテの体を引き離し、青年の手と自らの手を合わせパチンと音を立てると、体を一歩後退させる。
それから呆気にとられ茫然としている彼女の前へ彼を押しつけ、そのままグレファム率いる面々を引き連れ、部屋から出て行こうとして振り向いた。
「よう、王子様。お前に傷つけられた姫君の心を、本心から溶かし癒せることが出来たなら、俺もお前を認めてやろうじゃないか。果たしてお前に、それが出来たらな」
「え、お父……様?」
「お手並み拝見させてもらうぞ」
意味不明な捨て台詞を残しあっという間に去って行った王と一団に、シャルロッテは唖然として、訳を問いただす隙も作れなかったのである。
「陛下、良かったのですか?」
後悔やら迷いやら、じっとしていると頭を埋め尽くす不穏な考えを振り切るように、足を進めるギンダーの背中に、グレファムが呆れたように声をかけてきた。
他の者達はそれぞれの持ち場へと散っており、彼らの周りには誰もいない。
「さすがに姫の心が、すぐにあやつめに靡くとも思いませんが、未婚の男女を二人きりにするなど、何かあったらどうする気ですか」
「言うな、俺も早まったと後悔しているんだ!」
半場喚くように叫ぶと王は振り向いた。
「ただ……、あいつらの誤解の一端は、俺に責任があるからな」
ため息混じりにグレファムが請け合う。
「姫の母親のことですね」
「ああ……、あいつが俺の娘であることは間違いない。そしてアレグラを、生涯一人の妃だと決めていた彼女を、俺が裏切ったという事実もな」
激しい後悔に顔を歪ませて唸るギンダーを、グレファムはその小さな目を細めて見守っていた。
「仕方ありませんよ。あの頃王妃様は、長らく子供が出来ないことをとても深く悩んでおいででした。だからあなた様に側妃を娶るよう進言されていたのですから」
「俺には、そんなことは出来なかった。あいつを裏切る行為など、絶対に」
「あなたがそんなふうに頑なだったから、王妃様は仕方なくあのような手段を取られたのです。あなたを騙すような真似をして、自分の手の者をこっそりと忍び込ませた」
淡々と解説を始めた老人を、憎々しげに王は睨み返す。
「やめろ! 何故お前はそんなに詳しいんだ?」
「相談されたのですよ。いいですか、王妃様は決してあなた様を恨んでなどおりませんでしたぞ」
「グレ……ファム?」
「王妃様が見込んだ者が無事に妊娠したとお知りになった時、それはもうお喜びでいらっしゃいました。生まれてくる子が引け目を感じないようにと、ご自分が妊娠したように振る舞われ、実の子として育てていかれる道を選ばれたのですから」
大臣から聞かされた真実に脱力して、王はため息を漏らした。彼自身は妻に負い目を感じており、この件について、彼女と話した記憶などなかった。
想像することすら恐れていた妻の本心に、この段になってようやく、触れることが出来たのだ。随分、長い時間がかかってしまったものである。
「俺は何を恐がっていたのかな?」
生温かい視線を送ってくる老大臣から、恥じらうように王は瞳を逸らす。
「シャルロッテに真実を、きちんと伝えてこなかった。俺さえ愛情を込めて伝えていれば、侍女に本当のことを告げられた時だって、あいつはあんなに酷い傷をおうことはなかっただろう」
あの時のことが原因で、シャルロッテは宮殿の奥深くに引きこもるようになってしまった。自分の体に流れる実の母親の血を、汚い汚いと忌み嫌って。
グレファムは息子を見る父親のように、情愛を覗かせる視線でギンダーに語りかけた。
「それだって、王妃様の真摯な愛情で姫の心を戻してくれたではありませんか。王妃様は涙を流しておっしゃってました。あの件以来、初めて姫が『お母様』と呼ばれた日に、心から嬉しいと」
「グレファム、お前そんなことまでアレグラから? 俺には一言も教えてくれず、つれない奴だな、あいつも」
いつしか泣き笑いを浮かべ、王は愚痴をこぼしている。
二人の男は穏やかな笑い声を上げながら、謁見の間から遠ざかって行った。
「大丈夫なの?」
側に立つ青年が何度も口籠もったすえ、躊躇いがちに声をかけてくる。
赤い目は多分彼女と同じで、酷く泣いたせいだろう。不思議なことにこんな子供のような表情をしていても、この青年は変わることなく美しかった。
「大丈夫って? わたしを心配しているの?」
「当たり前だろ。僕が無神経な発言をしたから君は……」
驚いて彼をまじまじと見つめる彼女に、焦ったように彼は早口でまくし立てる。
「き、聞いたんだ。陛下から、君のこと」
「そう……、聞いたの。だったら呆れたでしょう? こんなわたしが、血筋を重んじる結婚をしようとしてたなんて笑い話みたいで」
「何を、言うんだ?」
「だって、図々しいじゃない。自分は尊い出でもないのに、相手にはそれを望むなんて。こんなだから馬鹿にされるんだわ。身の程知らずもいいとこだって。きっと隠しているつもりでも、自ずとあらわれてしまってるのね、本当に馬鹿みたいよね」
「いい加減にしろよ!」
取り留めもなく言葉を吐き出していたシャルロッテの肩を、突然青年が力強く掴んだ。
「前にも言った筈だよね。『こんなわたし』とか言うのはやめろって」
「な、何よ……」
シャルロッテは彼の勢いに気圧されて、弱々しい声を出した。
遠慮がちにこちらを見ていた男はいつの間にかいなくなり、彼女を射抜くように正面から見つめる強い眼差しに、体中が焼け落ちてしまいそうになる。
「君は卑屈になる必要はない。ご両親の素晴らしい愛情に包まれて育ったんだ。恥じるところはどこにもないだろ? 気弱なところはあるけど素直で優しい性格と、穏やかで愛らしい面差しをしている……」
とろけるような甘い声で青年は囁く。
シャルロッテは恥ずかしくなって俯いた。とてもではないが、聞いていられない。自分のことだとは思えなかった。
けれど彼女の耳元に、彼の言葉が追い打ちをかけてくるのだ。
「ごめん。照れてしまったかな? でも前にも言ったけど、僕はそんな君の恥じらった顔が一番……」
「わたしのことが好きなの?」
下を向いたままシャルロッテは聞いてみた。心臓がドキドキしていた。
「好きだよ。好きじゃなかったら、こんなに悩む筈ないだろう。僕がどれだけ苦しんだか知ってる?」
ぶっきらぼうに青年は告げてくる。初めての告白は、怒ったような言い方でうやむやに締められていった。
なんだか物足りない気がするのは何故だろう。
そうだ、今度手紙をしたためてもらうってのはどうだろうか。父が母に送ったような、熱い想いが綴られている手紙を。
「あなたの髪って黒かったのね。金髪はカツラだったのかしら?」
凄くいい考えだとシャルロッテは笑顔になった。そんな彼女に彼もホッとしたように笑う。
「ああ、そうだよ。この姿が僕自身。正真正銘、本当の僕だ」
「ミハエル様……」
思わず呼びかけた名前に彼は目を見開いて首を振った。
「違うよ、シャルロッテ姫」
彼女の耳元を柔らかい風が掠めていった。暖かくて甘い、一陣の風が。
「僕の名前はエドガー。エドガードと言うんだ」
なんとか完結に至ることが出来ました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
また違う話でお会いできたら嬉しいです。
それでは、また。




