第61話 不可思議な本
二日前。
王立図書館は、静かだった。
石造りの天井が高く、日中でも光が届かない棚の奥まで、背表紙が整然と並んでいる。来館者はまばらで、ページをめくる音だけが、たまに空気を揺らした。
ニーナは窓際の席に陣取り、机の上に羊皮紙を何枚も広げていた。
小さく風を起こす。摩擦係数を操作して、羽根ペンを宙で静止させる。解除する。また起こす。
「……摩擦を上げても速度は出ない。重力を書き換えても、方向が変わるだけ。なんか根本的に違う気がするんだけど」
独り言のつもりだったが、声が少し大きかった。隣の席の老人が、本から目を上げた。
「ずいぶん熱心だね」
白髪を短く刈り込んだ、小柄な老人だった。本を膝の上に置いて、ニーナを見ていた。
「あ、すみません。うるさかったですか」
「いや」老人は首を振った。「何を調べているんだい」
ニーナは少し迷った。
「結界が……ううん、なんとしても支援魔術を強化しないといけないんです。使える手は全部試したんですけど、どれも限界があって」
老人は静かに頷いた。
「それは大変だね」
それから少し間を置いて、外套の内側に手を入れた。
「良いものをあげよう」
古い本を取り出した。革の表紙が変色し、角が擦れている。厚みはそれほどないが、かなり古い。
「あげるって……それ、図書館の本じゃ」
「いいや、私物だよ」
老人はあっさり言って、ニーナの机の端に置いた。
「この世には、みんな知っているのに、誰も存在に気づいていない素粒子がある」
ニーナは眉を寄せた。
「存在に気づいていない素粒子……?」
「時間だよ」
「でも時間って概念であって、現象や物質として存在するなんて——」
老人が人差し指を唇に当てた。
「図書館では静かに」
「……すみません」
「まあ、騙されたと思って」
老人は本を一度だけ軽く叩き、立ち上がった。
そのまま棚の奥へ歩いていき、曲がり角で姿が見えなくなった。
ニーナは本を手に取った。表紙には『時粒子』とあった。
拠点に戻ったのは、日が傾いてからだった。
お凛がテーブルで針仕事をしていた。ニーナが本を広げて報告を始めると、針を置いて聞いた。
一通り話し終えると、お凛は少し間を置いた。
「なるほど……理論はわからなくもありません。ただ、時間は粒子によって流れている、と言われても」
「実感がないってこと?」
お凛は黙って頷いた。
「じゃあ実演するね」
ニーナは台所から胡椒を持ってきた。テーブルの上にひとつまみ、ぱらぱらと散らした。
お凛がニーナを見た。目が細くなった。
「誰が片付けるんですか」
「後で私がやるから。ちょっと見てて」
ニーナは散らばった胡椒の粒を指して言った。
「胡椒は粒が多いから、重力を操作して一度に全部の粒を止めるのは無理なのよ。けど、時間魔法なら」
もう一度、胡椒をひとつまみ散らした。
指先に意識を集中させる。本に書かれていた通り、空気中の時粒子を一点に引き寄せる。
ある範囲の、その濃度だけを操作する。
胡椒が止まった。
宙に散らばったまま、動かなかった。
「空間の時粒子を抜き取ることで、時間は止まる」
胡椒粒の中の一つ、少し大きめの粒に、集めた時粒子を纏わせる。
時粒子を纏った胡椒粒は、目に見えないほどの速さでテーブルに落ちた。
「そして、高濃度の時粒子は時間を早く進める」
お凛は少し間を置いて言った。
「……驚きました」
「どう使えるかは、まだわからない。けどうまくすれば、強力な武器になる」
お凛は、テーブルの上の胡椒を見た。
それからニーナ、台拭き、ニーナを順に見やった。
ニーナはため息混じりに言った。
「……片付けますよ……」




