第48話 黒いダンダラ
テオが顔を上げた。
廷臣たちが息を詰めている。近衛の騎士たちが、ボロボロのまま動かない。広間全体が、この瞬間を待っていた。
テオは懐に手を入れた。取り出したのは、小さな布包みだった。
「我が母、エルナが陛下より授かったものと聞いております」
布を解く。
王家の紋章が刻まれた指輪が、燭台の光を受けて鈍く光った。
王は動かなかった。指輪を見つめたまま、長い間、何も言わなかった。
廷臣たちが互いに視線を交わす。ヴァレリウス公爵の顔が青ざめた。ゴルドー公爵が唇を引き結んだ。
「……確かに、これはエルナに贈ったものだ」
低い声だった。
「王家の血脈と認める。汝を、王位継承者として」
広間がざわめいた。廷臣たちの間で、声にならない声が波のように広がった。カイルが目を閉じた。レオンが、小さく息を吐いた。
「継承の儀を、執り行う」
官吏が動いた。
白い布に包まれた小さな箱が、両手で捧げ持たれて壇上へ運ばれてきた。その足音だけが、広間に響いていた。
廷臣たちが姿勢を正した。近衛の騎士たちが、ボロボロのまま背筋を伸ばした。
テオが壇の前に片膝をついた。
王が箱を受け取り、白布を外す。中の冠が、燭台の光を受けて鈍く光った。
王がゆっくりと歩み寄る。冠を両手で持ち上げ——
シャン、と剣が抜かれた。
冠ではなく刃が、テオの首筋へ真っ直ぐに迫る。
——ガッ。
王の剣が、止まった。
宗一の左手が、鞘ごと刀を持ち上げていた。柄頭が、王の剣を根元で止めていた。
「陛下——」
カイルが声を上げた。
王の目が、おかしかった。焦点が合っていない。虚空を見ている目だった。
その体が、ゆっくりと崩れた。
人が崩れる、のとは様子が違う。纏っていた何かを、脱ぐように。王の輪郭が滲んだ。一瞬の後、そこに別の人間が立っていた。
黒地に白のダンダラ模様の羽織。底の薄い履き物。風変わりな剣を腰に差している。長い黒髪を後ろで緩く束ねた、二十代半ばの男。
廷臣の誰かが悲鳴を上げた。ヴァレリウス公爵が二歩後退した。レオンが剣を構え直した。
宗一は動かなかった。
男を、正面から見ていた。
男が、口を開いた。
「……まさか」
静かな声だった。驚きを、声の奥に押し込んだような。
「あなたもこちらに来ていたとは……宗さん」
「伊織……」
短い沈黙。
伊織が腰の刀に手をかけた。
宗一の右手が、自然に動いた。
——いつもと同じはずだった。「抜く、斬る、払う、納める」。その間に何もない。見ている者には始まりも終わりも見えない、ただの結果だけが残る、いつもの動作のはずだった。
——キンッ。
金属の、硬い音がした。
二本の刀が、交差したまま止まっていた。
宗一の刃が、伊織の刃に当たっている。押し込めない。弾かれてもいない。ただ、止まっている。
カイルには何が起きているかわからなかった。レオンにも、ニーナにも。お凛だけが、その男の顔を最後まで目で追っていた。
伊織の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。 笑みと呼ぶには薄すぎる。待っていたものに触れた時の、あの顔だった。
伊織が退いた。間合いごと、静かに。そして刀を納めた。
その静止の余韻が、まだ広間に漂っていた。
「結界はあと三日で消えます」
当然のことを告げるように。
「自分でもよくわかりませんが……宗さん、あなたに礼を言いたい気分ですよ」
薄く笑って、踵を返す。歩き出す。誰も止めなかった。止められなかった。
ダンダラ模様の羽織が、広間の暗がりへと消えていった。
夜風が、石畳を撫でた。
王都の外れ。人通りの消えた街道を、伊織がゆっくりと歩いている。急ぎもしない。振り返りもしない。
「……ああ」
伊織が、独り言を言った。
「結界の調査資料、置いてきてしまいましたね」
少しの間、夜空を見上げた。それから、また歩き出した。




