第46話 魔族の実力
魔族の圧倒的な存在感に、広間が凍りついていた。
ニーナは算盤を握ったまま、正面を見ていた。逃げない。逃げるという選択肢が、頭になかった。
その時、扉が開いた。
カイルが広間に踏み込んだ。
瞬時に状況を見渡す。まず視界の全てを奪ったのは翼だった。
天井まで届く、灰青と黒。二体。魔族……。
一瞬遅れて、部下たちの顔を確認する。全員無事。私兵が制圧されている。状況は把握した。
「……カイル様」
レオンが低く言った。
カイルはレオンに向かって頷き、背後のテオに短く告げた。
「下がっていろ」
剣を抜く。
ベルが、くすりと笑った。
「増えたわね」
翼がはためいた。紫の光を帯びた何かが、燭台の火をかき消しながら広間を走る。
レオンが弾き飛ばされた。石柱に背中から激突し、それでも膝をつかない。
ガストンが前へ出た。全体重で受け止める。巨体が、それでも数歩ずりずりと後退した。
「散れ」
カイルの一声で騎士たちが左右に展開する。
王を守るために共に在り続けてきた仲間たちだ。言葉より先に体が動く。
お凛が死角から踏み込んだ。首筋を狙った一撃。
しかしベルは身をひねり、お凛の手首を掴んで投げた。お凛が空中で体を捌き、音もなく着地する。
ニーナは演算を回し続けていた。ベルの翼の軌道、踏み込みのリズム、次の一手。指先が止まらない。
「面白い子たち」
ベルの声は、まだ余裕だった。
時間が経つにつれ、じりじりと押し込まれていった。
ユーリが膝をついた。ディートが壁際で動けなくなった。ガストンはまだ立っているが、両腕が震えている。
「密集するな。距離を取れ」
ハンスの声は、乱れていなかった。
ニーナの演算が、鈍くなっていた。魔力が底をついてきている。頭の中の数字が、霞がかったように遠い。それでも止めない。
お凛が再び踏み込んだ。今度は翼の付け根を狙う。ベルが払いのける。お凛が距離を取る。また踏み込む。払いのける。じりじりと、消耗させる戦い方だった。
レオンが左から切り込んだ。ベルが翼で薙ぐ。レオンが跳んで躱し、着地際に柄を叩きつける。ベルの肩が揺れた。わずかだが、確かに揺れた。
ベルの目が、細くなった。
翼が大きく広がった。紫の光が、今度は広間全体を包むように膨らんでいく。
「そろそろ終わりにしましょうか」
「まだやれますか」
お凛がニーナの傍らに並んだ。珍しく、息が上がっていた。
「やれるわよ」
嘘だった。お互いにわかっていた。
カイルが視線をニーナへ流した。
「一瞬でいい。出足を遅らせられるか」
ニーナは残った魔力を測った。頭の中で。
「……やってみる」
ベルの光が、解き放たれる直前。
ニーナは残った魔力の全てを、局所重力の引き上げに注いだ。
翼の面積が広ければ広いほど、受ける力は大きくなる。魔族として力を解放したことが、そのまま重荷になる。
完全には止まらない。止められない。ただ——
ベルの踏み込みが、ほんの一瞬、遅れた。
カイルが踏み込んだ。
奇をてらわない、真っ直ぐな一歩。特別な構えも、華やかさもない。
ただ、長年磨いてきた通りの一撃を、正面から叩き込んだ。
刃がベルの肩口から脇腹へ、深く入った。
ベルの体が傾いた。膝をつく。立ち上がろうとして、できない。
ベルはまま石畳の上に倒れた。
広間が、静まり返った。
誰も動かなかった。
カイルが剣を下ろした。ガストンが、ようやく腕を下げた。ニーナはその場にへたり込んだ。
「……やった」
誰かが、掠れた声で言った。
その時。
石畳を踏む、重い足音が一つ。
ガストが前へ出た。砕けた石柱を、まるで小石でも避けるように踏み越えて。急がない。急ぐ必要がない。翼を広げたまま、ただ、立つ。
天井まで届く灰青色の翼が、残った燭台の火を揺らした。
赤い紋様が、脈を打っている。
ガストは倒れたベルを一瞥した。哀れむでも、怒るでもない。
ただ、事実として確認しただけのような目だった。
それから、広間を見渡した。
ボロボロの騎士たち。へたり込んだ少女。壁際に張り付いたままの廷臣たち。
「……次は私か」
声は低く、静かだった。
カイルが剣を構え直した。腕が震えている。膝も笑っている。
それでも、前を向いた。
ガストンが、震える腕で得物を握り直した。お凛が静かに構える。ニーナが立ち上がろうとして、膝が折れた。それでも、算盤を離さなかった。
誰も、勝ち目を見ていなかった。その時。
広間に、もう一人入ってきた。
ペタ、と。
石畳に、雪駄の音が一つ響いた。




