第43話 薪割りの王子
街道が砂利から土に変わった頃、集落が見えてきた。
石壁も、鉄門もない。干した洗濯物が風に揺れ、鶏が道を横切っていく。王都からここまで、馬を飛ばして五日。
「……本当にここか」
カイルが地図と集落を交互に見比べた。
「マルテ、と書いてある」
宗一は雪駄を鳴らしながら、のんびりと空を見上げた。
「悪くない村だな」
「悪くないというか……のどかすぎる。こんな場所に……」
「まあ、隠すならちょうどいいだろう」
男爵家の屋敷は、村の外れにあった。屋敷といっても、王都の貴族邸と比べれば農家に毛が生えた程度だ。
門番に来意を告げると、しばらく待たされた。
その間、宗一は屋敷の裏手から聞こえる音に気づいた。規則正しい、薪を割る音。
テオは裏庭にいた。
二十代前半。特別目を引く風貌ではない。使い込まれた作業着、泥のついた手。黙々と薪を割り続けている。どこの村にもいそうな、普通の青年だった。
カイルが一歩前に出た。
「テオ殿とお見受けする。私はカイル・ヴァン・ブレイズ。近衛騎士団長を務める者だ」
テオの手が止まった。
斧を下ろし、ゆっくりと振り返る。訝しむような、困惑したような顔。
「テオは私ですが……私に、何のご用でしょうか」
カイルは真っ直ぐにテオを見た。
「フィリップ王陛下の御名において、折り入ってお話ししたいことがある。……お母上と、男爵も、一緒に呼んでいただけるか」
その瞬間、テオの表情が初めて動いた。
屋敷の一室。
男爵は初老の人物だった。カイルが近衛騎士団長の身分を示す紋章を取り出すと、男爵は一瞥しただけで深く頷いた。来訪の意味を、すでに理解しているような目だった。
テオの母親は、小柄な女性だった。年齢より少し老けて見える。苦労の跡が、その顔に刻まれていた。
カイルが「フィリップ王」の名を口にした瞬間、彼女の目が変わった。
怯えでも、驚きでもない。
「……いつかこの日が来ると、思っておりました」
静かな声だった。
「母さん?」
「テオ」
母親はゆっくりと息を吸った。それから、長い時間をかけて、話し始めた。
テオは黙って聞いていた。途中で一度だけ、手が膝の上でこぶしを作った。それ以外は、微動だにしなかった。
話が終わった。
沈黙の中で、男爵が静かに立ち上がった。棚の奥から、小さな布包みを取り出す。長年そこにあり続けたことが、その布の色艶からわかった。
テオの前に置かれたそれを、男爵がゆっくりと開いた。
指輪だった。
王家の紋章が刻まれた、重みのある指輪。
「陛下からお母上に託されたものだ」
男爵は静かに言った。
「いつかこの子に渡す日が来たら、と。……ずっと、預かっておりました」
テオは指輪を見つめたまま、動かなかった。
「無理だ」
テオは首を振った。
「俺はずっとここで、ただの使用人として生きてきた。剣も魔法も知らない。政治なんて、まるでわからない。そんな人間が王に……」
「向いてるかどうかなんて、やったこともない人間にわからんだろう」
宗一が口を挟んだ。壁に背を預け、腕を組んだまま、特に力を込めるでもなく。
テオが宗一を見た。
「……でも」
「まあ」
宗一は続けた。
「自分可愛さに、民を見捨てられるんだったら、確かに向いてないかもな」
静寂。
テオは宗一を見たまま、何も言えなかった。
カイルが膝をついた。
「テオ殿。今の王都に、あなた以外の答えはない」
長い沈黙が落ちた。
母親がテオの手を両手で包んだ。何も言わなかった。
テオは一度だけ目を閉じた。
開いた時、その目に迷いはなかった。
「……わかった」
出発は翌朝と決まった。
夜、宗一は屋敷の縁側に腰かけ、星を眺めていた。
王都まで五日。継承の儀まで、残り五日。




