第31話 馬車の中
馬車は一定のリズムで揺れていた。
ニーナは膝の上で算盤をパチリと弾いた。外部演算ユニットとしての指先への馴染みを確認しながら、彼女は向かいの席でだらりと居眠りを決め込んでいる男を見た。
「ねえ、宗さん。王都に着いたらまず何食べたい?」
気安くその肩を叩いた、その時だった。
御者席との仕切りにある小窓から、お凛が眉間に皺を寄せた顔を覗かせた。
「……瀬能様。斬りますか」
「ひいいいいいいい! いきなり殺さないでよ!」
お凛の放つ静かな殺気に、ニーナは宗一の背後に隠れて震え上がった。
宗一は、面倒そうに片目だけを開けた。
「お凛、よせ。ニーナは私の雇い主だと言っているだろう。それにニーナには一宿一飯の恩があるんだ」
「なるほど……雇い主だけでなく、瀬能様の恩人でいらっしゃいましたか」
お凛の殺気が一瞬で霧散し、深い敬意に変わる。その極端な切り替わりにニーナが怯えていると、宗一が続けた。
「それにだ、お前はもう私の密偵ではないのだから、瀬能様なんて呼ばなくていいんだよ」
ニーナは、お凛の表情が困惑に染まるのを見た。少し意地悪な勇気が湧いてくる。
「そ、そうだ、お凛さんも『宗さん』って呼んだらいいんじゃない?」
「宗……っ!?」
あってはならぬ非礼への畏れと、どうしようもない気恥ずかしさ。
お凛の顔が、火を噴きそうなほど真っ赤に染まる。
「おう、なんと呼んでくれても構わないぞ」
宗一の脱力した笑顔が、お凛の限界を叩いた。
「そ、そ、そ、宗…………っ!」
シュン、と。
物理的な音を置き去りにして、御者席の隣からお凛の姿が消えた。
「き、消えた……!」
「はっはっは」
宗一は再び目を閉じ、心地よい揺れに身を任せた。
馬車は進む。
いつの間にか御者席の隣に、気まずそうに戻ってきていたお凛が、真っ直ぐに前を見据えたまま、低い、けれど通る声で言った。
「瀬能様」
「ん、戻ったか」
「……私は、瀬能様の密偵として生きることが人生です。好きに生きろとおっしゃるのでしたら、私は、あなたの密偵として生きたいのです」
それは義務ではなく、彼女が自ら選んだ「自由」の形だった。
宗一は窓の外を眺め、ふっと口角を上げた。
「わかった。よろしく頼むよ」
その時、馬車の中からニーナがひょっこりと身を乗り出した。
「つ、つまりよ、お凛さん。お凛さんが、そ、宗さんに仕えて、宗さんは私が雇っていて……」
ニーナの言葉を、宗一が引き継いでまとめる。
「なるほど、つまり私を挟んでお凛を雇っているのはニーナだと言いたいんだな」
お凛が肩を震わせる。
「……!」
「ち、ちが……!そこまで言ってない!……けど、せめて宗さんと呼ぶのは見逃してほしい……かなぁ……なんて」
ニーナは慌てて訂正し、上目遣いでお凛の機嫌を伺った。
お凛はしばらく沈黙していた。やがて、小さく、本当に微かな溜息をつく。
「……では、瀬能様のご判断に従いましょう」
ニーナはもう答えを待つ顔で宗一を見た。お凛だけが、静かに判断を待っている。
「うーむ……どうしようかな」
「おい、宗一!!」
ピキッ。
御者席の小窓から、音もなく気温が二度下がった。




