第30話 屋台にて
ベルナール商会の応接室は、朝の光がよく入る部屋だった。
ニーナはテーブルに袋を置いた。悪徳領主が溜め込んでいた金、その全てだ。
「……これ、お願い。ベルナールさん。貧民街の人たちに使ってほしいんです」
ベルナールは袋を見た。それからニーナを見た。
「分かりました」
ベルナールは、あえて事情を聞くようなことはしなかった。
「ただ、このお金をそのまま渡すだけでは、いずれ使い果たしてしまいます」
「そうよね……あの子たちが、ちゃんと生きていけるように考えないと」
「子供達に読み書きと計算を教える場を作りましょう。もちろん、食事にも困らないように、炊き出しも。……これは施しではない。この街の未来への、最大の『投資』です」
ニーナは小さく頷いた。窓の外で、馬車が一台通り過ぎた。
「ニーナさん」
立ち上がりかけたニーナを、ベルナールの声が引き止めた。
「あなたは、損な性格をしていますね」
ニーナは一瞬だけ間を置いた。
「……余計なお世話です」
返した声が、少しだけ照れていた。
王都への出発は翌朝と決まった。
ニーナは日が暮れる前に荷物をまとめ、夕飯を食べ、宿の部屋で地図を広げ、気づいたら眠っていた。
地図の上に、よだれが一滴垂れていた。
宗一がお凛の屋台を訪れたのは、夜も深くなった頃だった。
客はいない。湯気だけが白く立ち上っている。
お凛は何も言わずに猪口を出した。透明な液体。口に含むと、穀物の香りが鼻を抜けた。
「……この世界でこれが飲めるとは思わなかった」
「米に似た穀物が取れるんです。少量ですが」
宗一は二杯目を煽った。特に感想は言わなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。屋台の暖簾が夜風に揺れた。
「お凛」
「はい」
「王都には、ついてこなくていい」
お凛の手が止まった。
宗一は月を見ていた。
「お前はもう密偵ではない。俺や、過去に縛られる必要はない。好きに生きていいんだ」
お凛は答えなかった。
鍋の中で、出汁がことことと鳴っていた。
しばらくして、お凛は静かに口を開いた。
「私は、瀬能様の……」
そこで言葉が止まった。
宗一は月を見たまま、少し間を置いた。それから、猪口を静かに置いた。
「……明日は早いぞ」
立ち上がりながら、独り言のように言った。
「遅れるなよ」
お凛は顔を上げた。
長い付き合いの中で、宗一が一度も見たことのないお凛の表情だった。
泣いているような。笑っているような、そのどちらでもないような。
「……はい」
月下に響く、雪駄の音。
翌朝、三人を乗せた馬車は、王都へと続く街道を走り出した。




