第22話 一閃の残響
防壁の上。絶望の熱波が平原を支配し、誰もが死を覚悟したその時。
「おいおい、さすがにそれはまずいだろう」
顔を覆うニーナの横で、宗一がポツリと呟いた。 言うが早いか、彼はふらりと防壁の縁から一歩を踏み出した。
数十メートルの高さからの落下。しかし彼は、まるで階段を一段降りるかのような自然な動作で、平原の泥土の上に着地した。
そして、いつものように雪駄をペタ、ペタと鳴らしながら、一直線に溶岩竜へと向かって歩き始めた。
平原は今、熱に包まれている。
しかし宗一は、ただの散歩道でも歩くような足取りで、燃え盛る平原を進んでいく。浅葱色の羽織が熱風に煽られて揺れている。
「おい……ッ、何をしている!?」
泥にまみれて倒れ伏していたアルカードが、信じられないものを見る目で声を絞り出した。
だが、宗一は足を止めない。
その間にも、天へ顎を開いた溶岩竜の喉の奥はどんどん赤く膨らんでいく。吐き出されれば、前線も防壁も、その背後にある街も一瞬で消える。誰の目にも、そう見えていた。
宗一は溶岩竜の真正面に立った。マグマの光が、すぐそこで脈打っていた。
その場所で溶岩竜を見据え、スッと左足を引き、半身になって静かに腰を落とした。
左手で鞘を握り、親指で鍔を少しだけ押し上げ、カチリと『鯉口』を切る。
右手は柄を強く握るでもなく、ただ軽く添える。
極限まで無駄を削ぎ落とした、静謐で冷たい構え。
周囲で見ていたアルカードも、防壁の上のニーナも、あまりにも自然で美しいその所作に、絶望の最中でありながら目を奪われた。
『――ゴルルルルルルルォォォォォォォッ!!!』
竜の喉が最大限に膨らみ、極大の溶岩球が、まさに吐き出そうとされた「瞬間」。
――シュピン。
硬質な、しかしひどく澄んだ金属音が一つ、平原に響いた。
静寂。
何が起きたのか、誰の目にも見えなかった。 Aランク冒険者のアルカードでさえ、宗一が動いたことすら認識できなかった。
気がつけば。 宗一はすでに溶岩竜に背を向け、いつもの気怠げな足取りで、ペタ、ペタと街の方へ歩いて戻り始めていた。
「……お、おい……?」
アルカードが、かすれた声を出した。 竜の周囲を覆っていた熱が、嘘のように霧散している。風が戻ってくる。宗一の羽織が、ゆっくりと揺れた。
ズ、ズズズズズズズッ……!!!
直後。
数十メートルの巨躯を誇る溶岩竜の身体が、顎の先から尻尾の先まで、寸分の狂いもなく「真っ二つ」にズレた。
ドサァァァァァァァァンッ!!!!
左右に分かたれた岩石とマグマの巨躯が、地響きを立てて崩れ落ちる。
絶対的な理不尽の象徴であったSランクの厄災は、極大のブレスを吐き出す間もなく、ただの二つの巨大な肉塊へと変わっていた。
平原は、しんと静まり返っていた。
歓声は上がらない。
あまりにも現実離れした光景を前に、数千の人間が誰一人として何が起きたかを理解できていなかった。勝利の実感よりも先に、絶対的な未知への畏怖が、その場にいる全員の思考を停止させていた。
そんな静寂の中、ペタ、ペタという雪駄の音だけが響く。
宗一は少しだけ軌道を逸らし、倒れているアルカードの傍らで足を止めた。
「……あ、……」
アルカードは、目の前の浅葱色の羽織を見上げ、声にならない音を漏らした。
宗一はそんな顔を無表情に見下ろすと、右手を差し出した。
「立てるか」
「……え?」
「一人で歩けないなら、肩を貸す」
呆然とするアルカードの腕を掴み、宗一はひしゃげた重装備の巨体を引き起こした。アルカードの体重がずっしりとかかる。その太い腕を自分の肩に回させた。
「さて。帰ろう」
「……き、君は、いったい……」
宗一はアルカードの問いには答えず、ボロボロのAランク冒険者に肩を貸したまま、ペタ、ペタと防壁へ向かって歩き始める。
二人が進むと、前線にへたり込んでいた冒険者たちが、無言で道を開けた。
歓声はない。拍手もない。
誰もが息を呑み、畏れを込めた目で、その背中を見送っていた。
防壁の上からニーナもまた、手の中の算盤を取り落としたことにも気づかないまま、浅葱色の羽織をただ呆然と見つめ続けていた。




