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籠目屋商店怪異録 冬ノ巻  作者: 宇佐美夕日


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9/22

朔風葉払 二

朔風葉払きたかぜこのはをはらう 二

風は、まだ通っていた。


細い。


だが、途切れない。


六郎は廊下の奥を見る。


「……風、奥に寄ってますね」


「ええ」


百合は短く答える。


「集まっているわ」


ひよりが、小さく言う。


「……さっきより、強いです」


六郎はうなずく。


「ですね」


少し間。


「さっきは散ってましたけど、今は一本にまとまってる」


百合はそれを聞いて、わずかに目を細める。


「通りが、出来てきているのね」


それだけ言う。


六郎は息を吐く。


「嫌な流れですね」


百合は立ち上がる。


「見ましょう」


三人で廊下に出る。


風が通る。


確かに、奥へ向かっている。


さっきまで、あちこちに散っていた気配が、今は一本に引き寄せられている。


六郎は歩きながら言う。


「このまま奥に行けば、原因に当たるってことですか」


「どうかしら」


百合はそう言うだけで、否定はしない。


歩く。


足音が軽い。


乾いた音が、やけに遠くへ逃げる。


ひよりが、少し遅れてついてくる。


二歩、三歩。


その途中で、


ひよりが足を止める。


「……あれ」


六郎が振り返る。


「どうしました」


ひよりは来た方を見る。


「……さっきの部屋」


六郎も振り返る。


扉が並んでいる。


どれも同じに見える。


色も、形も、古さも。


目印になるものがない。


「どれです?」


ひよりは答えない。


少し迷って、


「……分からない」


と、言う。


六郎は眉を寄せる。


「さっき出たばっかりですよ」


ひよりは首を振る。


「……思い出せない」


言いながら、もう一度扉を見る。


どれも、同じ。


ただ並んでいるだけのものに見える。


さっきまで、自分がいた場所が、その中のどれだったのか――


引っかからない。


百合は何も言わない。


ただ、ひよりを見る。


視線は静かだが、逃がさない。


六郎は軽く息を吐く。


「まあ、似たような作りですしね」


そう言って、歩き出す。


ひよりも、少し遅れてついてくる。


風が、少し強くなる。


六郎は前を見る。


「……さらに寄ってますね」


「ええ」


百合は答える。


「削ぎ落とされている」


六郎は苦笑する。


「風で、ですか」


百合はわずかに首を振る。


「風は、通っているだけよ」


それだけ。


廊下はまっすぐ続いている。


曲がりはない。


逃げ場もない。


風は、一直線に奥へ流れている。


まるで、そこへ何かを運んでいるように。


六郎は言う。


「通りっていうのは……道ですか」


「ええ」


百合は歩きながら答える。


「ただの風ではなくなる境目」


「境目」


「通るものと、通されるものが分かれる」


六郎は少しだけ考える。


「……嫌な言い方ですね」


百合は何も言わない。


廊下の奥で止まる。


壁がある。


ただの壁だった。


継ぎ目もない。


戸もない。


古い建物にありがちな、少し歪んだ白い壁。


六郎はそれを見る。


「……ここですね」


「ええ」


ひよりが、ゆっくりと前に出る。


壁を見つめる。


近づくほどに、空気が冷える。


風は、壁の手前で消えている。


吸い込まれているようにも見える。


「……ここ」


小さく言う。


「何か、ありましたよね」


六郎が聞く。


「何がです」


ひよりは少し考える。


それから、


「……分からない」


と、言う。


言葉にした途端、その「分からない」が、少しだけ重くなる。


六郎は壁に触れる。


冷たい。


ただ、それだけだ。


湿りも、ざらつきもない。


「普通の壁ですね」


百合が言う。


「触れてみて」


ひよりは一瞬ためらう。


その手が、少しだけ震える。


だが、


ゆっくりと、伸ばす。


壁に触れる。


その瞬間、


風が、止まる。


ぴたりと。


廊下の音が消える。


空気が、張る。


六郎は目を細める。


耳の奥が、きんと鳴る。


ひよりが動かない。


手をつけたまま、


固まっている。


呼吸が、浅い。


肩が、上下しない。


六郎が言う。


「……大丈夫ですか」


返事がない。


百合が、静かに言う。


「離して」


ひよりはゆっくりと振り返る。


目が、少し焦点を失っている。


どこを見ているのか、分からない。


「……私」


小さく言う。


「……どの部屋でしたっけ」


六郎は一瞬言葉を失う。


「え?」


ひよりは、自分の足元を見る。


廊下。


壁。


手。


その順番で確認するように視線が動く。


「……ここ、ですよね」


百合は答えない。


ただ、ひよりを見ている。


ひよりが手を離す。


その瞬間、


風が戻る。


強く。


廊下を削るように通り抜ける。


音が戻る。


だが、さっきよりも硬い。


ひよりは一歩よろける。


壁に手をつく。


「……冷たい」


六郎が言う。


「戻りましょうか」


ひよりはうなずく。


だが、


動かない。


足が、その場に貼り付いたように動かない。


百合が言う。


「名前は」


ひよりはすぐに答えない。


少し間。


「……空木、です」


言う。


だが、その先が出てこない。


六郎が言う。


「下の名前は?」


ひよりは口を開く。


止まる。


言葉が、出てこない。


喉の奥で、何かが引っかかる。


それから、


「……分からない」


と、言う。


風が通る。


さっきよりも強い。


六郎は百合を見る。


「これ」


少し間。


「場所だけじゃないですね」


百合は静かに言う。


「ええ」


「通りに触れたものから、順に抜けていく」


六郎は息を吐く。


「触らない方がよかったやつですね」


百合は答えない。


廊下の奥を見る。


六郎もそちらを見る。


そこに、


さっきまではなかった扉がある。


壁の中に、溶け出すように現れている。


ひよりが、それを見る。


「……あれ」


小さく言う。


「……私の部屋です」


六郎は何も言わない。


百合は、ゆっくりと歩き出す。


風が、


その扉へ向かっていた。


百合は足を止めない。


一定の歩幅で、扉へ向かう。


六郎も、その後ろにつく。


ひよりは、少し遅れる。


視線は扉から外れない。


風が、そこへ吸い込まれている。


扉は、閉まっている。


だが、


隙間があるわけでもないのに、風はその内側へ流れ込んでいく。


六郎が言う。


「……開いてるんですか、これ」


「いいえ」


百合は答える。


「開いていないわ」


「じゃあ」


「通っているのよ」


それだけ言う。


六郎は少し顔をしかめる。


「便利な言葉ですね、それ」


百合は答えない。


扉の前に立つ。


手を伸ばす。


触れる前に、止める。


ほんのわずかに、空気を探るように指を動かす。


「……境が薄い」


小さく言う。


六郎が横から見る。


「さっきの壁と同じですか」


「似ているけれど、違うわ」


百合は扉を見る。


「こちらは、出口になっている」


六郎は息を吐く。


「出口」


「ええ」


「どこへのですか」


百合はすぐには答えない。


その代わり、


「ひより」


と、呼ぶ。


ひよりが、ゆっくりと近づく。


足取りが、少し不安定だ。


「これが、あなたの部屋なのね」


ひよりは、うなずく。


「……はい」


「中の様子は、覚えている?」


少し間。


ひよりは目を伏せる。


考える。


だが、


「……あまり」


と、言う。


六郎が小さく言う。


「もう来てますね」


百合は頷く。


「ええ」


「浅いところから」


ひよりの肩が、わずかに揺れる。


風が当たっているわけではない。


それでも、揺れる。


六郎は扉を見る。


「開けますか」


百合は首を振る。


「いいえ」


「開けないんですか」


「開ける必要はないわ」


百合は扉に手を当てる。


軽く。


押すでもなく、引くでもなく。


ただ触れる。


その瞬間、


風が、また止まる。


今度は、一瞬ではない。


長く。


音が消える。


六郎は歯を食いしばる。


耳鳴りが強くなる。


ひよりが、小さく息を吸う。


その音だけが、やけに近く聞こえる。


百合が言う。


「……やはりね」


何かを確かめるように。


「ここから、抜いている」


六郎が言う。


「何をです」


百合は扉から手を離す。


風が戻る。


だが、さっきよりも細い。


絞られている。


「形を持たないものよ」


それだけ言う。


六郎は少しだけ眉を寄せる。


「分かるように言ってもらえます?」


百合は横目で六郎を見る。


「分かるように言う必要はないでしょう」


淡々と。


「現に、起きているのだから」


六郎は苦笑する。


「まあ、そうですね」


視線を戻す。


扉を見る。


「……記憶、とかですか」


百合は答えない。


だが、


否定もしない。


ひよりが、小さく言う。


「……中に」


二人が見る。


ひよりは扉を見ている。


「……何か、いました」


六郎が聞く。


「何が」


ひよりは、首を振る。


「……分からない」


少し間。


「でも、いました」


その言い方は、はっきりしている。


六郎は息を吐く。


「いますね、それは」


百合は扉を見たまま言う。


「いいえ」


「いないわ」


六郎が顔を向ける。


「どっちです」


百合は言う。


「いたものが、通ったあとよ」


風が、扉へ吸い込まれる。


細く。


切り取るように。


六郎は壁を見る。


さっきの場所。


それから扉を見る。


「……通りっていうのは」


少し間。


「通るための道じゃなくて、通った跡ですか」


百合は、わずかに目を細める。


「いいところに気がついたわね」


それだけ言う。


六郎は息を吐く。


「嫌な構造してますね」


ひよりが、ふらりと一歩前に出る。


扉に手を伸ばす。


六郎が反射的に言う。


「触らない方がいいですよ」


ひよりの手が、止まる。


だが、


止まりきらない。


わずかに、震える。


「……戻れる気がするんです」


小さく言う。


「中に、入れば」


六郎は顔をしかめる。


「それ、たぶん逆ですよ」


百合が言う。


「ええ」


「戻るのではなく、抜ける方へ行く」


ひよりの手が、ゆっくりと下がる。


その動きは、どこかぎこちない。


「……私」


小さく言う。


「何が好きでしたっけ」


六郎は何も言えない。


百合は静かに言う。


「まだ残っているわ」


「触れていないところは」


ひよりは目を閉じる。


少しだけ、呼吸を整える。


風が、細く鳴る。


扉へ向かって。


六郎が言う。


「これ、止められますか」


百合は扉を見る。


その奥を、見るように。


「止めるのは難しいわね」


少し間。


「でも、戻すことはできる」


六郎は顔を上げる。


「どうやって」


百合は言う。


「通りを、閉じる」


ひよりが目を開く。


「……閉じる」


百合は頷く。


「ええ」


「通ったものを、戻すために」


六郎は苦く笑う。


「簡単に言いますね」


百合はわずかに笑う。


「簡単ではないわ」


それから、


扉に手をかける。


今度は、ためらわない。


「でも、やるしかないでしょう」


風が、強くなる。


三人の足元をすり抜ける。


扉が、


わずかに軋む。


開いてはいない。


だが、


向こう側の気配だけが、こちらへ滲み出す。


ひよりが、息を呑む。


六郎は、言う。


「……来ますね」


百合は答える。


「ええ」


静かに。


「今度はこちらへ」


風が、


逆流する。

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