朔風葉払 二
朔風葉払 二
風は、まだ通っていた。
細い。
だが、途切れない。
六郎は廊下の奥を見る。
「……風、奥に寄ってますね」
「ええ」
百合は短く答える。
「集まっているわ」
ひよりが、小さく言う。
「……さっきより、強いです」
六郎はうなずく。
「ですね」
少し間。
「さっきは散ってましたけど、今は一本にまとまってる」
百合はそれを聞いて、わずかに目を細める。
「通りが、出来てきているのね」
それだけ言う。
六郎は息を吐く。
「嫌な流れですね」
百合は立ち上がる。
「見ましょう」
三人で廊下に出る。
風が通る。
確かに、奥へ向かっている。
さっきまで、あちこちに散っていた気配が、今は一本に引き寄せられている。
六郎は歩きながら言う。
「このまま奥に行けば、原因に当たるってことですか」
「どうかしら」
百合はそう言うだけで、否定はしない。
歩く。
足音が軽い。
乾いた音が、やけに遠くへ逃げる。
ひよりが、少し遅れてついてくる。
二歩、三歩。
その途中で、
ひよりが足を止める。
「……あれ」
六郎が振り返る。
「どうしました」
ひよりは来た方を見る。
「……さっきの部屋」
六郎も振り返る。
扉が並んでいる。
どれも同じに見える。
色も、形も、古さも。
目印になるものがない。
「どれです?」
ひよりは答えない。
少し迷って、
「……分からない」
と、言う。
六郎は眉を寄せる。
「さっき出たばっかりですよ」
ひよりは首を振る。
「……思い出せない」
言いながら、もう一度扉を見る。
どれも、同じ。
ただ並んでいるだけのものに見える。
さっきまで、自分がいた場所が、その中のどれだったのか――
引っかからない。
百合は何も言わない。
ただ、ひよりを見る。
視線は静かだが、逃がさない。
六郎は軽く息を吐く。
「まあ、似たような作りですしね」
そう言って、歩き出す。
ひよりも、少し遅れてついてくる。
風が、少し強くなる。
六郎は前を見る。
「……さらに寄ってますね」
「ええ」
百合は答える。
「削ぎ落とされている」
六郎は苦笑する。
「風で、ですか」
百合はわずかに首を振る。
「風は、通っているだけよ」
それだけ。
廊下はまっすぐ続いている。
曲がりはない。
逃げ場もない。
風は、一直線に奥へ流れている。
まるで、そこへ何かを運んでいるように。
六郎は言う。
「通りっていうのは……道ですか」
「ええ」
百合は歩きながら答える。
「ただの風ではなくなる境目」
「境目」
「通るものと、通されるものが分かれる」
六郎は少しだけ考える。
「……嫌な言い方ですね」
百合は何も言わない。
廊下の奥で止まる。
壁がある。
ただの壁だった。
継ぎ目もない。
戸もない。
古い建物にありがちな、少し歪んだ白い壁。
六郎はそれを見る。
「……ここですね」
「ええ」
ひよりが、ゆっくりと前に出る。
壁を見つめる。
近づくほどに、空気が冷える。
風は、壁の手前で消えている。
吸い込まれているようにも見える。
「……ここ」
小さく言う。
「何か、ありましたよね」
六郎が聞く。
「何がです」
ひよりは少し考える。
それから、
「……分からない」
と、言う。
言葉にした途端、その「分からない」が、少しだけ重くなる。
六郎は壁に触れる。
冷たい。
ただ、それだけだ。
湿りも、ざらつきもない。
「普通の壁ですね」
百合が言う。
「触れてみて」
ひよりは一瞬ためらう。
その手が、少しだけ震える。
だが、
ゆっくりと、伸ばす。
壁に触れる。
その瞬間、
風が、止まる。
ぴたりと。
廊下の音が消える。
空気が、張る。
六郎は目を細める。
耳の奥が、きんと鳴る。
ひよりが動かない。
手をつけたまま、
固まっている。
呼吸が、浅い。
肩が、上下しない。
六郎が言う。
「……大丈夫ですか」
返事がない。
百合が、静かに言う。
「離して」
ひよりはゆっくりと振り返る。
目が、少し焦点を失っている。
どこを見ているのか、分からない。
「……私」
小さく言う。
「……どの部屋でしたっけ」
六郎は一瞬言葉を失う。
「え?」
ひよりは、自分の足元を見る。
廊下。
壁。
手。
その順番で確認するように視線が動く。
「……ここ、ですよね」
百合は答えない。
ただ、ひよりを見ている。
ひよりが手を離す。
その瞬間、
風が戻る。
強く。
廊下を削るように通り抜ける。
音が戻る。
だが、さっきよりも硬い。
ひよりは一歩よろける。
壁に手をつく。
「……冷たい」
六郎が言う。
「戻りましょうか」
ひよりはうなずく。
だが、
動かない。
足が、その場に貼り付いたように動かない。
百合が言う。
「名前は」
ひよりはすぐに答えない。
少し間。
「……空木、です」
言う。
だが、その先が出てこない。
六郎が言う。
「下の名前は?」
ひよりは口を開く。
止まる。
言葉が、出てこない。
喉の奥で、何かが引っかかる。
それから、
「……分からない」
と、言う。
風が通る。
さっきよりも強い。
六郎は百合を見る。
「これ」
少し間。
「場所だけじゃないですね」
百合は静かに言う。
「ええ」
「通りに触れたものから、順に抜けていく」
六郎は息を吐く。
「触らない方がよかったやつですね」
百合は答えない。
廊下の奥を見る。
六郎もそちらを見る。
そこに、
さっきまではなかった扉がある。
壁の中に、溶け出すように現れている。
ひよりが、それを見る。
「……あれ」
小さく言う。
「……私の部屋です」
六郎は何も言わない。
百合は、ゆっくりと歩き出す。
風が、
その扉へ向かっていた。
百合は足を止めない。
一定の歩幅で、扉へ向かう。
六郎も、その後ろにつく。
ひよりは、少し遅れる。
視線は扉から外れない。
風が、そこへ吸い込まれている。
扉は、閉まっている。
だが、
隙間があるわけでもないのに、風はその内側へ流れ込んでいく。
六郎が言う。
「……開いてるんですか、これ」
「いいえ」
百合は答える。
「開いていないわ」
「じゃあ」
「通っているのよ」
それだけ言う。
六郎は少し顔をしかめる。
「便利な言葉ですね、それ」
百合は答えない。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
触れる前に、止める。
ほんのわずかに、空気を探るように指を動かす。
「……境が薄い」
小さく言う。
六郎が横から見る。
「さっきの壁と同じですか」
「似ているけれど、違うわ」
百合は扉を見る。
「こちらは、出口になっている」
六郎は息を吐く。
「出口」
「ええ」
「どこへのですか」
百合はすぐには答えない。
その代わり、
「ひより」
と、呼ぶ。
ひよりが、ゆっくりと近づく。
足取りが、少し不安定だ。
「これが、あなたの部屋なのね」
ひよりは、うなずく。
「……はい」
「中の様子は、覚えている?」
少し間。
ひよりは目を伏せる。
考える。
だが、
「……あまり」
と、言う。
六郎が小さく言う。
「もう来てますね」
百合は頷く。
「ええ」
「浅いところから」
ひよりの肩が、わずかに揺れる。
風が当たっているわけではない。
それでも、揺れる。
六郎は扉を見る。
「開けますか」
百合は首を振る。
「いいえ」
「開けないんですか」
「開ける必要はないわ」
百合は扉に手を当てる。
軽く。
押すでもなく、引くでもなく。
ただ触れる。
その瞬間、
風が、また止まる。
今度は、一瞬ではない。
長く。
音が消える。
六郎は歯を食いしばる。
耳鳴りが強くなる。
ひよりが、小さく息を吸う。
その音だけが、やけに近く聞こえる。
百合が言う。
「……やはりね」
何かを確かめるように。
「ここから、抜いている」
六郎が言う。
「何をです」
百合は扉から手を離す。
風が戻る。
だが、さっきよりも細い。
絞られている。
「形を持たないものよ」
それだけ言う。
六郎は少しだけ眉を寄せる。
「分かるように言ってもらえます?」
百合は横目で六郎を見る。
「分かるように言う必要はないでしょう」
淡々と。
「現に、起きているのだから」
六郎は苦笑する。
「まあ、そうですね」
視線を戻す。
扉を見る。
「……記憶、とかですか」
百合は答えない。
だが、
否定もしない。
ひよりが、小さく言う。
「……中に」
二人が見る。
ひよりは扉を見ている。
「……何か、いました」
六郎が聞く。
「何が」
ひよりは、首を振る。
「……分からない」
少し間。
「でも、いました」
その言い方は、はっきりしている。
六郎は息を吐く。
「いますね、それは」
百合は扉を見たまま言う。
「いいえ」
「いないわ」
六郎が顔を向ける。
「どっちです」
百合は言う。
「いたものが、通ったあとよ」
風が、扉へ吸い込まれる。
細く。
切り取るように。
六郎は壁を見る。
さっきの場所。
それから扉を見る。
「……通りっていうのは」
少し間。
「通るための道じゃなくて、通った跡ですか」
百合は、わずかに目を細める。
「いいところに気がついたわね」
それだけ言う。
六郎は息を吐く。
「嫌な構造してますね」
ひよりが、ふらりと一歩前に出る。
扉に手を伸ばす。
六郎が反射的に言う。
「触らない方がいいですよ」
ひよりの手が、止まる。
だが、
止まりきらない。
わずかに、震える。
「……戻れる気がするんです」
小さく言う。
「中に、入れば」
六郎は顔をしかめる。
「それ、たぶん逆ですよ」
百合が言う。
「ええ」
「戻るのではなく、抜ける方へ行く」
ひよりの手が、ゆっくりと下がる。
その動きは、どこかぎこちない。
「……私」
小さく言う。
「何が好きでしたっけ」
六郎は何も言えない。
百合は静かに言う。
「まだ残っているわ」
「触れていないところは」
ひよりは目を閉じる。
少しだけ、呼吸を整える。
風が、細く鳴る。
扉へ向かって。
六郎が言う。
「これ、止められますか」
百合は扉を見る。
その奥を、見るように。
「止めるのは難しいわね」
少し間。
「でも、戻すことはできる」
六郎は顔を上げる。
「どうやって」
百合は言う。
「通りを、閉じる」
ひよりが目を開く。
「……閉じる」
百合は頷く。
「ええ」
「通ったものを、戻すために」
六郎は苦く笑う。
「簡単に言いますね」
百合はわずかに笑う。
「簡単ではないわ」
それから、
扉に手をかける。
今度は、ためらわない。
「でも、やるしかないでしょう」
風が、強くなる。
三人の足元をすり抜ける。
扉が、
わずかに軋む。
開いてはいない。
だが、
向こう側の気配だけが、こちらへ滲み出す。
ひよりが、息を呑む。
六郎は、言う。
「……来ますね」
百合は答える。
「ええ」
静かに。
「今度はこちらへ」
風が、
逆流する。




